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第104話  星降る夜の告白

 森の奥は、時間が止まったみたいに静かだ。

 木々のざわめきすら遠慮がちで、足元の苔が音を吸い込む。案内された月光泉ルナ・レーヴァは、そんな静寂が結晶になったような場所だった。


 巨大な老樹の根元に、水の鏡がぽっかり開いている。 空の月より、水面に映った月のほうが本物みたいに輝いてる。

 空気が甘い——いや、霊素の味か。濃すぎて、深呼吸すると肺が痺れる。それでいて身体の芯から汚れが落ちていくような、妙な感覚。


「……きれいでしょ?」


 エリシアが独り言みたいに呟いた。

 泉のほとりで足を止めて、サンダルのような履物を脱ぐ。白い素足が冷たそうな水にそっと触れる。波紋が広がるたび、水面の星々が揺れて——光の粉を撒き散らしたみたいにキラキラした。


『おやおや、なんとも幻想的な』


 俺の肩あたりで、不可視化してる風のフィオが感心したような声を出す。


『風が止まっておりますな。世界樹の吐息が直接届く場所……聖域の中でも特等席ですぞ』

『ルーク、水がすっげー澄んでる! 飲めそうじゃん?』


 雷のアルクが髪の中でパチパチ火花を散らす。痛い。静電気やめろ。


『静かに。雰囲気が台無しですよ』


 水のラグが冷ややかに窘める。まったく同感だ。

 俺は精霊たちの声をスルーして、エリシアの隣に並んだ。


「昔はね、よくここに来て泣いてたの」


 膝を抱えて座り込む彼女の背中は、昼間に騎士団の前で見せる「勇者」のそれじゃない。ただの、迷子の女の子みたいに小さく見えた。


「泣いてた?」

「うん。弓の稽古が辛くて、魔法がうまく覚えられなくて……。でも一番嫌だったのは、みんなの目」


 水面を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り出す。


「『リュミエル家の娘ならできるはずだ』って。『お前は特別なんだ』って。……期待されるのが、怖かった」


 分かる気がする。 俺だって前世で社畜やってた時は「期待」って言葉が呪いにしか聞こえなかった。今だって「精霊王」なんて大層な看板を押し付けられて逃げ回ってる。

 でも彼女の背負ってるものは、俺の比じゃない。国を、世界を、種族の誇りを——全部ひとりで背負わされて、逃げることも許されず「完璧な勇者」を演じさせられてる。


「……勇者になんて、ならなければよかったのかな」


 衝撃的な言葉だった。 あの完璧超人のエリシアが、そんな弱音を。


「今でも怖いの。私が失敗したら、たくさんの人が死ぬ。私が弱音を吐いたら、みんなが絶望する。……オスカー殿下も、アウストレア様も、みんな『勇者エリシア』を見てる。本当の私なんて、どこにもいないみたい」


 声が震えてる。 俺は、なんて言えばいいのか分からなかった。「頑張れ」なんて、彼女を追い詰める凶器にしかならない。


『……ルーク』


 炎のヴァルが、珍しく真面目な声で囁く。


『言葉なんていらねぇよ。お前はお前のままでいい。ただ、隣にいてやれ』


 そうだな。 俺にできることなんて、これくらいしかない。

 黙って隣に腰を下ろす。そして震えている彼女の肩に、迷いながら手を伸ばした。 触れるか触れないか、ギリギリの距離。


 だけど俺の中の《精霊王核》が、勝手に反応しちまった。「守りたい」「癒してやりたい」って感情が、フィルターを通さずに霊素の奔流になって指先から溢れ出す——


 俺の手が、彼女の白金の髪に触れた瞬間。

 ——世界が、反転した気がした。


 カッ、と視界が白く染まったわけじゃない。もっと静かで、でも圧倒的な現象。 俺の指先から流れ込んだ霊素が、彼女の髪一本一本に伝播して、そこから光が溢れ出したんだ。いや、髪が光そのものに変わっていった。


 月光なんか目じゃない。もっと根源的な、生まれたての星みたいな純白の光。それが彼女の髪からサラサラと解けて、夜闇の中に溶け出していく。


「え……?」


 エリシアが顔を上げる。その顔を見て、俺は息を呑んだ。

 翠の瞳。 その奥に、ありえないものが浮かんでいた。


 幾何学模様——いや、星図だ。 星座盤をそのまま瞳に焼き付けたみたいに、複雑で神秘的な光のラインが走ってる。世界樹の根の配置図にも見えるし、星々の運行図にも見える。あまりにも美しくて、あまりにも人間離れしていて——背筋が凍るほど神々しかった。


『な……っ!?』


 氷のフロスが息を呑む。


『あるじどの、これは……!』

『おいおい、マジかよ! こいつ、ただのエルフじゃねぇぞ!?』


 アルクが素っ頓狂な声を上げる。


 俺の霊素と、彼女の魂が共鳴してる。 俺が無意識に流し込んだ「精霊王の力」が、彼女の中に眠っていた何かを目覚めさせたのか?

 髪は光の粒子となって舞い上がり、周囲の闇を昼間みたいに照らしてる。泉の水面が共鳴して、低い和音のような音を奏で始めた。これ、ヤバいんじゃないか。きれいとか言ってる場合じゃない——このままじゃ、彼女が光になって消えちまいそうだ。


「ルーク……?」

 

  エリシアが夢うつつみたいな声で俺の名を呼ぶ。 彼女自身は自分の変化に気づいていないのか。その表情は、さっきまでの苦悩が嘘みたいに穏やかで、とろけるように柔らかい。


「あったかい……。ルークの手、すごく……懐かしい匂いがする」


  彼女が俺の手に、自分の手を重ねてくる。その瞬間、光が爆発的に強まった。

 視界がホワイトアウトする。


『ルークさま! 出力を絞ってください! 同調しすぎています!』


 ラグの鋭い警告で、俺はハッと我に返った。

 いかん—— 慌てて、暴走しかけてる霊素の蛇口をギュッと閉めるイメージを持つ。深呼吸。吸って、止めて、抑え込む。指先から流れていた奔流を、無理やり断ち切る。


 スゥッ……と。 光の粒子が、嘘みたいに霧散した。


 舞い上がっていた髪がふわりと肩に落ちる。瞳の奥の星図も、瞬きする間に消えて、いつもの翠色に戻った。あとに残ったのは、月光だけが照らす静かな泉と、呆然と座り込む俺たち二人だけ。


「……あれ? 私、今……」


 エリシアが不思議そうに自分の手を見つめる。

 俺は心臓が早鐘を打ってるのを悟られないように、努めて冷静な声を絞り出した。


「……疲れてるんだよ。少し、休んだ方がいい」


 嘘だ。今の現象は、疲れとかそういう次元の話じゃない。明らかに「世界樹の理」に触れた反応だった。彼女は何者なんだ? ただの勇者ってだけじゃ説明がつかない。


「そう……かな。でも、ありがとう」


 エリシアがふわりと微笑む。その笑顔には、さっきまでの悲壮感はなくて、憑き物が落ちたみたいに晴れやかだった。


「ルークのおかげで、なんだか身体が軽くなったみたい。……不思議ね。あなたといると、本当に勇者なんて肩書き、どうでもよくなっちゃう」


 自然な動作で、俺の肩に頭を預けてきた。 甘い花の香り。 おいおい、無防備すぎないか。こっちは心臓バクバクだっつーの。


 星降るような光の余韻の中で、俺たちはしばらく動けずにいた。 それが、決定的な「亀裂」を生む引き金になったとも知らずに。


 ***


 ——木々の陰。 月光すら届かない深い闇の中で、その光景を見つめる男がいた。


 ガルドリア王国第二王子、オスカー。

 彼には「霊素の共鳴」も「瞳の星図」も見えていない。 彼に見えたのは、月夜の泉で身を寄せ合い、神々しいほどの光に包まれた男女の姿だけ。

 それはあまりにも完成された、入り込む隙間もない「世界」だった。


「……そうか」


 乾いた声が漏れる。 自分がどれだけ努力しても、泥にまみれて盾になっても、エリシアは決して見せなかった弱さを、ルークには見せている。

 最初から、自分など見ていなかったのだ。


 握りしめた拳から血が滲む。 胸の奥で燻っていた嫉妬の種が、パチリと音を立てて——どす黒い殺意へと変わった瞬間だった。


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