第103話 月光泉への誘い
エルフの宴ってやつは、どうしてこう、音がねえんだろうな。
いや、あるにはあるんだ。竪琴みたいな弦楽器がポロンポロン鳴ってるし、葉っぱの衣擦れとか、さらさらした笑い声も聞こえる。
でも、なんつーか——質量がない。空気みたいに透き通ってて、俺みたいな人間には居心地が悪い。ドワーフの親方たちと酒樽ガンガンぶつけ合ってた時の方が、まだ息がしやすかった。
歓迎の宴。そんな名前はついてたけど、実質は「品定め」だ。
長老たちの視線が背中に突き刺さる。値踏みするような、妙に熱っぽい視線。俺の隣にいるフェデ——今はちょっとサイズを縮めて大型犬くらいになってる——が尻尾をパタパタ振るたびに、周囲のエルフたちが「おお……」とか溜息をもらす。
やめてくれ。ただの犬だぞ。
まあ、中身は世界樹直系のとんでもない化け物なんだけど。
いたたまれなくて、俺は宴を早々に抜け出した。野営地のテント中に倒れ込んで、重たい溜め息を吐く。隣ではフェデが、巨大な毛玉となって幸せそうに寝息を立ててやがる。こいつの神経の図太さ、少しは見習いたいもんだ。
眠れない。
ヒツジを数えるのにも飽きて、寝返りを打つ。
『……情けねぇツラしてやがんなぁ、ルーク。英雄サマが台無しだぜ?』
枕元に現れたのは、赤い子狐姿のヴァルだ。尻尾の先の青い炎が、チロチロと闇を揺らす。
「うるせえよ。好きでこうなったわけじゃない」
『ふふっ……水が濁るほどのエルフたちの熱視線、わたくしには少々刺激が強すぎますね』
空中に浮かぶ小さな人魚、ラグが涼しい顔で茶々を入れてくる。
『風も色めき立っておりますぞ。我が王よ、この森の精霊たちは、貴方の魂の輝きに引き寄せられているのです』
窓枠に止まった緑の小鳥フィオが、賢者ぶった口調でさえずる。
『地に足がつかん奴らじゃわい。おやかたの苦労も知らんでな』
足元で土精霊オルドがぼそっと呟いた。お前が一番わかってくれてる気がするよ、オルド。
『頭を冷やすべきですね。あそこのエルフたちも、少し浮かれすぎです』
雪ウサギのフロスが、耳の先の氷をチリチリ鳴らして冷気を撒く。
『へへっ! いいじゃねぇか旦那! 夜はこれからだぜ? ビビッときたね!』
雷竜のアルクが俺の髪の中でパチパチと火花を散らした。痛いって。
「お前らなぁ……もうちょっと静かにしてくれ。見つかったらどうすんだ」
ガサッ。
テントの外から音がした。
こんな夜更けに誰だよ、と思って振り返ると——そこにいたのは、勇者エリシアだった。
いつもの凛とした鎧姿じゃない。白い、薄手のワンピースみたいな簡素な服。髪も下ろしていて、月明かりの下だと、なんだか今にも消えてしまいそうな幽霊みたいに見えた。
「……ルーカス。起きてた?」
「まあ、な。ちょっと寝付けなくて」
「ごめんなさい、こんな時間に。……少しだけ、付き合ってくれないかな」
その瞳があまりにも悲しげで、放っておくなんて選択肢は俺の辞書にはない。
俺は軽く上着を羽織ると、フェデを起こさないようにそっと部屋を出た。
「ここね、小さい頃によく一人で歩いたの」
エリシアがぽつりと話す。
俺たちは『月光の枝道』と呼ばれる、古い樹の枝を利用した空中回廊を歩いていた。手すりなんてない。一歩踏み外せば真っ逆さまだ。
「勇者に選ばれる前……ただのエルフの子供だった頃。嫌なことがあると、ここを通って『あの泉』に行ったの」
「泉?」
「うん。……私にとって、唯一の逃げ場所だった場所」
彼女の背中は小さい。
昼間、皆の前で見せる「人類の希望」としての威厳なんて、どこにもない。ただの、重すぎる荷物に押し潰されそうな女の子がそこにいた。
「エリシア。無理して笑わなくていいよ。ここには俺しかいないし」
「……ふふ。ルーカスには、敵わないな」
彼女が足を止めて、振り返る。
月光が、彼女の白金の髪を透かして、光の粒子みたいに見せた。
「ありがとう。……あなたがいると、息がしやすいの」
——だが。
俺たちは気づいていなかった。
この美しすぎる月夜が、ある男にとっては残酷なスポットライトにしかならないってことに。
野営地から、その光景を見つめる視線があった。
ガルドリア王国第二王子、オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
彼は眠れずにいた。昼間の屈辱、エルフたちの冷たい視線、そして何より——自分が必死に積み上げてきたものが、ルークという「規格外」の前では霞んでしまうという事実が、彼の内臓を冷たい炎で焼き続けていたからだ。
夜風に当たろうとテントの外にでた彼の目に、信じられないものが映った。
月明かりに照らされた枝道を行く、二つの人影。
ルークと、エリシアだ。
楽しそうに会話をしているわけではない。だが、その距離感は、言葉以上に親密に見えた。自然と寄り添い、同じ方向を見て、同じ空気を共有している。
オスカーの手が、窓枠をきしむほど強く握りしめた。
「……そうか」
乾いた声が漏れる。
昼間、エリシアは自分には見せなかった弱さを、ルークには見せているのか。
王族としての礼節を尽くし、騎士として盾になり、泥にまみれて戦ってきた自分ではなく。
ただ才能にあぐらをかいて、ヘラヘラしているだけの、あのDランク訓練生に。
「お前たちは……最初から、私など見ていなかったのか」
違う。そんなはずはない。
理性では分かろうとしている。ルークが良い奴だってことも、エリシアが公平な人間だってことも。
でも、胸の奥で黒い何かがドロリと溶け出すのを止められない。
あれは密会だ。
俺をのけ者にして、選ばれた者同士で傷を舐め合っているんだ。
あるいは——俺を笑っているのかもしれない。『努力なんて無駄だ』と。
気がつけば、オスカーは野営地を飛び出していた。
思考は冷え切っているのに、衝動だけが熱い。
確かめなければならない。二人がどこへ行くのか。何を話すのか。
そして、自分と彼らの間に引かれた決定的な「線」の正体を。
影のように音もなく、オスカーは二人の後を追う。
その背後に、赤黒い影がゆらりと揺れた気がしたけれど、今の彼には、そんなことすらどうでもよかった。
森の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。濃密な霊素。肌がピリピリするくらいの密度。
普通の人なら酔っちまうレベルだけど、俺には心地いい。むしろ、実家に帰ってきたみたいな安心感がある。
「もう少しよ」
エリシアが立ち止まった。
視界が開ける。
そこは、息を飲むような場所だった。
巨大な木の根元に、透き通った水を湛えた泉がある。水面は鏡みたいに静かで、夜空の星をそのまま映し込んでる。
月光泉
水そのものが淡く発光してるみたいだ。
「きれいだ……」
思わず声が出た。
エリシアが泉のほとりに歩み寄る。その足元から、小さな光の波紋が広がった。
まるで、彼女自身が光の一部になったみたいに。
俺は一歩引いて、その背中を見守る。ここは彼女の世界だ。俺みたいな異物が踏み込んでいい場所じゃない。
でも。
背後の闇から感じる視線は、まだ消えていなかった。
むしろ、さっきよりも強くなってる。
刺すような、焦げるような殺気。
誰だ?
俺はさりげなく、柄に手をかけた。アストラの鞘が、警告するように微かに熱を持つ。
俺は息を殺して、闇を見つめた。
そこにいるのは、魔物なんかよりずっと厄介な——壊れかけた心を持った人間かもしれない。
そんな予感が、どうしても拭えなかった。




