第101話 森の異変調査
空気が張り詰めている。
朝靄の立ち込めるルナヘルムの森は、絵画みたいに静かだった。でもこの静けさ、穏やかさじゃない。何かが起こる直前の、息を止めてるみたいな――そんな緊張感。
俺たちの前を歩くオスカー副団長の背中は、今日も完璧だ。
磨き上げられた銀の鎧。一糸乱れぬ歩調。昨日のエルフたちからの冷遇なんてなかったことみたいに、彼は理想の騎士を演じてる。
でも、俺には見える。
彼の内側にある霊素が、悲鳴を上げながら軋んでるのが。無理やり回してるエンジンの音みたいに、今にも焼き切れそうな気配だ。
「……ルーク。遅れるなよ」
振り返った彼の笑顔は、百点満点の「上官の顔」
怖い。逆に怖いよそのメンタル。心がバキバキにひび割れてるはずなのに、どうやってその仮面を貼り付けてるんだ。
***
今回の調査には、案内役のエルフ数名と、勇者エリシアも同行している。
先導するエルフの斥候隊長――名前は忘れた、やたらと目つきの鋭い男――が、露骨に嫌そうな顔でオスカーを一瞥した。
「人間ごときが聖域の深部へ入るなど……。穢れが移らぬよう、私の指示に従ってもらおうか」
「承知した。森の掟を尊重しよう」
オスカーは即答して、一歩下がる。
そこは怒っていいところだろ。なんでそんなにスムーズにサンドバッグになれるんだよ。
で、その斥候隊長がくるりと俺の方を向くと、急に熱心な信者みたいなキラキラした目になるんだから、もうね。情緒どうなってんの。
「精霊の愛し子たるルーク殿! 歩きにくくはありませんか? 木の根が邪魔なら切り払いますが」
「い、いや、自然のままでいいです……」
「おお! なんと慈悲深い! 聞いたか皆の者、これが真の調和だ!」
やめて。マジでやめて。
オスカーの背中から「ギリリ……」って歯ぎしりの幻聴が聞こえてきそうなんだよ。
俺はフェデの首元の毛をぎゅっと握りしめて、なんとか正気を保つ。フェデも空気を読んでるのか、普段よりおとなしくオスカーの横を歩いてる。えらいぞフェデ。お前だけがこのパーティの癒やしだ。
***
森の奥へ進むにつれて、違和感はどんどん濃くなっていった。
最初は匂いだけだったのが、次第に肌にまとわりつく湿気みたいな不快感に変わっていく。
風の精霊フィオが、俺の緑色の髪を弄りながら耳元で囁く。
『……風が死んでおります、我が王。流れていない。まるで、栓をされたように』
「栓?」
『はい。清浄な気が吸い取られ、代わりに泥のようなものが満ちてきているのです』
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
ガサガサッ!!
前方の茂みが激しく弾け飛んだ。
「敵襲っ!」
カインが叫んで剣を抜くより早く、オスカーが動いた。
飛び出してきたのは――鹿だ。立派な角を持った、森の主みたいな雄鹿。
でも、目が変だ。
白目が真っ赤に充血してて、口からは黒い泡を吹いてる。草食動物のくせに、殺意満々でこちらを睨みつけてやがる。
「グルルルゥッ……!」
鹿って、そんな猛獣みたいな唸り声だす生き物だったっけ?
「下がれ! 私がやる!」
オスカーが大盾を構えて踏み込む。
ガギィンッ!!
嫌な金属音が響いて、オスカーの足が地面を削る。
普通の動物ならありえない膂力だ。魔素で筋肉が膨張し、リミッターが外れてる。
「くっ……!」
オスカーの顔が歪む。
いつもの彼なら、ここで精霊魔法を使って衝撃を逃がすはず。でも今の彼は霊素の巡りが悪すぎて、魔法が発動していない。純粋な筋力だけで耐えてる。
「キシャァァァッ!!」
鹿が再び突っ込んでくる。今度は一匹じゃない。茂みの奥から、ウサギやらリスやら、森の動物たちが次々と湧いて出てくる。どれもこれも目が赤くて、身体のどこかが黒く染まってる。
「森の動物たちが……どうして……っ」
エリシアが悲痛な声を上げる。自分の故郷の生き物が、変わり果てた姿で襲ってくるんだから、そりゃショックだろう。
エルフたちも動揺して、弓を構えつつも射てない。
「撃てないか! なら、どけ!」
オスカーが前に出る。
躊躇がない。迷いもない。
彼は大盾を捨てて、剣を両手で構えた。強引に霊素を燃やして、刀身に真紅の炎を纏わせる。
「燃え尽きろ!」
一閃。
襲いかかってきた鹿の首が飛び、胴体が炎に包まれる。
鮮やかな手際だ。でも、見ていて胸が痛くなるくらい「雑」だった。
普段の彼なら、急所を一点で突いて苦しませずに殺すとか、盾で制圧して無力化するとか、もっとスマートなやり方を選んだはず。今の剣は、ただの八つ当たりに近い。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
数分後、そこには黒焦げになった死体の山と、荒い息を吐くオスカーだけが立っていた。
エルフたちが、恐怖と軽蔑の混じった目で彼を見てる。
「なんて野蛮な……」
「森の眷属を、あそこまで惨たらしく……」
聞こえてるはずなのに、オスカーは剣についた血を振るい落として、無表情で振り返った。
「敵は排除した。進もう」
その顔には、「守ったのに」という感情すら浮かんでいない。
ただの機能不全を起こした機械みたいだった。
***
さらに森の奥へ進むと、空気の重さが物理的な圧力に変わってきた。
足元の土が、ぬかるんでる。雨なんて降ってないのに。
「……なに、これ」
エリシアの声が震えてる。
彼女が見つめる先。巨大な木の根元に、それはあった。
黒い染み。
インクをぶちまけたみたいな、不自然な闇色。地面の土が変色してるんじゃない。空間そのものが腐って、穴が空いてるみたいに見える。
直径は数メートルくらいだけど、存在感がヤバい。見てるだけで、頭の奥が痺れるような不快感。
『……第七区と同じ臭いだ』
ヴァルが、今まで聞いたことないくらい低い声で唸った。
『十数年前に、アウストレア総団長の部隊が全滅したあの場所。……なんでこんな浅い場所に、アレの痕跡があるんだよ』
第七区。
俺はその名前を詳しくは知らない。けどこの「気配」は知ってる。世界樹が夢の中で泣いてた理由。循環が詰まって、行き場を失った霊素が腐って、膿になってる場所。
「……これは、毒だ」
俺は無意識に呟いてた。精霊視で見ると、はっきり見える。地面の下から、黒い血管みたいな「パイプ」が伸びてきてて、ここで破裂してるのが。
誰かが意図的に、地下深くの汚泥を汲み上げて、この綺麗な森に流し込んでるんだ。
「調査する」
オスカーが前に出た。
焦ってる。功績が欲しいのか、それとも「わからない」ことが怖いのか。
彼には、俺やエリシアに見えてる「精霊の拒絶反応」が見えてない。
「待ってください、副団長! 触らないで!」
俺の声より早く、オスカーが検体採取用の瓶を差し出した瞬間――
ジュワッ!
黒い泥が跳ねた。まるで意志を持ってるみたいに。
オスカーの剣がとっさに防いだが、鋼鉄の刀身が酸を浴びたように溶け落ちる。
「なっ……!?」
オスカーが後ずさる。
俺はフェデの背中を叩いた。「行け!」
フェデが金色の残像になって飛び込み、オスカーを強引に弾き飛ばすと同時に、黄金の結界を展開して泥の飛沫を弾き返した。
静寂。
尻餅をついたオスカーが、呆然とフェデを見上げている。
その顔に浮かんでいたのは、感謝じゃない。
決定的な敗北感と、ドス黒い感情。
「……また、お前の犬か」
蚊の鳴くような声。
「私が確認しようとしたものを……お前たちは、そうやって……」
あ、やべ。
やりすぎた。
エルフたちが「おお、さすがは神獣様!」って大はしゃぎし始めて、オスカーの顔色が土気色になっていく。
地面の黒い染みが、まるで笑ってるみたいに脈打った気がした。
これは、ただの環境汚染じゃない。もっと悪意のある、誰かの意思が介在した罠だ。
俺たちの足元から、何かが音を立てて崩れ始めてる気がした。




