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第10話  宿屋「月下葡萄亭」

 西の空が、とろりと溶けたような茜色に染まっていく。  

 石畳の道を歩く足取りは、行きよりもずっと軽い。いや、物理的には採取した薬草やら何やらで荷物は増えているし、肉体的疲労もあるはずなんだが、心が軽いのだ。

 労働を終えた。この甘美な響き。前世では終電間際の虚ろな瞳でしか味わえなかった感覚が、今はこんなにも爽やかな風と共に肌を撫でていく。これが、健全な「疲れ」ってやつか。


「ふぁふぅ」

 

 隣を歩くフェデが、俺の腰に頭を擦り付けてくる。こいつもどうやら腹が減ったらしい。ふさふさの黄金色の尻尾が、左右にブンブンと振られている。あの尻尾の風圧だけで、後ろを歩く通行人が涼めるレベルだ。

 

 目指すは、街に来たときに目星をつけておいた宿。 メイン通りから一本入った路地。薪が燃える匂いと、煮込まれたスープの香りが漂ってくるエリア。


 宿屋兼酒場《月下葡萄亭》

 

 古びているが磨き込まれた木の看板には、月明かりの下で実る葡萄の絵。洒落た名前だが、中身は質実剛健な大衆宿だと聞いている。

 

 重厚な木の扉に手をかけ、押し開ける。  カランコロン、と軽快なベルの音。  

 同時に、ドッと押し寄せる熱気と喧騒。仕事終わりの冒険者たちがジョッキをぶつけ合う音。そして何より――暴力的なまでに食欲をそそる、肉と香草の香り。


「いらっしゃい! おや、見ない顔だねぇ!」


 厨房の奥から響いてきたのは、鍋底を叩くような元気な声。女将のマルタさんだ。  

 恰幅が良く、白いエプロンがはちきれそうなほど健康的。年齢は五十を過ぎているはずだが、肌ツヤは二十代の娘よりいいかもしれない。彼女の笑顔には、どんな疲れも吹き飛ばすような太陽のエネルギーがある。


「一人と……おっと、でっかいワンちゃんだね。うちは行儀が良いなら獣連れでも構わないよ。席はあっちの角が空いてる」

「あ、どうも。今日この街に着いたばかりで……」

「泊まりかい? 歓迎するよ! うちは飯が自慢だ、まずは腹ごしらえしな!」


 有無を言わせぬ勢いで、暖炉近くの席に通される。  

 フェデも慣れたもので(初来店のはずだが)、テーブルの下――には収まりきらないので、俺の足元にどっかりと座り込み、期待に満ちた琥珀色の瞳で厨房を見つめた。


「何にするんだい? 今日のおすすめは『猪豚の角煮込みシチュー』だよ。朝からコトコト煮込んだからね、スプーンで触るだけで肉がほぐれるよ」

「それ。それをお願いします。あとパンと……フェデにも何か、肉っぽいものを」

「あいよ! この図体だ、たっぷり食わせてやらなきゃねぇ。骨付きのデカいのを焼いてやろうか?」

「わふぅぅぅン!」


 フェデが聞いたこともないような甘えた声を出した。おい、お前そんな声出せるのか。最上位霊獣の威厳はどこへ行った。


 待つこと数分。  ドン! とテーブルが揺れた。  置かれたのは、湯気をあげる木皿だ。  深い褐色のソースの中に、ゴロっとした肉の塊が鎮座している。添えられているのは、バターを塗って軽く炙ったジャガイモと、鮮やかな人参。横には、焼きたての丸パン。


「いただきます」


 震える手でスプーンを握り、シチューをすくった。とろりとしたスープの中に、ほろほろと崩れそうな肉片が混じる。ふう、ふう、と息を吹きかけ、口へと運ぶ。


 ――瞬間、脳髄が痺れた。


 熱い。でも、旨い。肉は噛む必要がないほど柔らかく、舌の上でほどけていく。脂の甘みと、野菜の甘み、そして何種類ものスパイスが複雑に絡み合い、喉の奥へと滑り落ちていく。 味い。ただ、ひたすらに美味い。  


 前世の記憶がフラッシュバックする。深夜のオフィス。冷え切ったコンビニ弁当。味のしないサンドイッチ。生きるためにとりあえず腹に入れていた、あの燃料のような食事たち。あれは食事じゃなかった。作業だった。  

 でも、これは違う。温かい。手作りの味がする。誰かが「美味しくなれ」と想いを込めて作った、命の味がする。


「……うっ、ぐ……」


 気づけば、視界が滲んでいた。涙が、一滴。ポロリとこぼれてテーブルに落ちた。

 俺は慌てて袖で目を拭う。いい大人が飯食って泣くなんて、恥ずかしすぎるだろ。でも、止まらない。  

 これが「生きる」ってことか。世界樹が守りたかった世界って、こういうことなのかもしれない。


「美味い……美味すぎる……これだよ、俺が求めていたのは……」


 パンをちぎってシチューに浸す。ソースを吸ってずっしりと重くなったパンを頬張る。小麦の香りと肉の旨味が合わさって、脳みそが溶けそうだ。

 

 俺が涙と鼻水をすすりながら感動に浸っていると、足元で凄まじい音が響いた。

 ガツッ! バキボキッ! ムシャァァァ!

 見ると、フェデが床に置かれた洗面器サイズの皿と格闘していた。中身は、漫画に出てきそうな巨大な骨付き肉の山。  

 フェデはそれを、前足で器用に押さえつけ、豪快にかぶりついている。鋭い牙が肉を引き裂き、太い骨すらもバリバリと噛み砕く音が店内に響く。  


 ワイルドすぎる。さっきまでの愛くるしい「わんこ」はどこへ行った。今は完全に野生の捕食者だ。  だが、その瞳はキラキラと輝いている。尻尾は床を掃除する勢いで左右に振られ、パタパタという音がリズムを刻んでいる。幸せそうだなぁ。


「おやまあ、いい食いっぷりだねえ!」


 マルタさんが豪快に笑いながら、追加の肉を皿に放り込んだ。


「これだけ気持ちよく食べてくれると、作る方も張り合いがあるってもんだよ!ほら、おかわりもあるからね!」

「わふっ!(おかわり!)」


 フェデが歓喜の声を上げ、再び肉の山に突撃する。……待てよ。俺はふと、我に返った。スプーンを持つ手が止まる。さらに懐やポケットの中で、気配を消していた精霊たちがざわついているのを感じる。


『ルーク殿……美味そうです』

『オレも! オレも肉! 焦げたのがいい!』

『わたくしは、パンの柔らかいところを所望します……』


 ラグ、ヴァル、フィオの三精霊だ。こいつら、俺の感覚(味覚)とリンクしてるくせに、実体としての「食感」も味わいたいらしい。  

 俺は溜息をつき、マルタさんの目を盗んでパン屑をポケットに入れたり、肉片を袖口に隠したりと、涙ぐましい隠蔽工作を行う羽目になった。


 ***


 嵐のような夕食が終わり、至福と満腹感に包まれた俺の前に、現実は非情な紙切れとなって突きつけられた。


「はいよ。宿代と食事代、それにワンこの追加分で……しめて小銀貨二枚と大銅貨五枚だね」

「…………へ?」


 俺は固まった。時が止まった。小銀貨二枚。今日の稼ぎは、Dランクの新人にしては上出来な、小銀貨三枚(レア素材ボーナス込み)だったはずだ。  

 俺の飯代と宿代なら、余裕でお釣りが来る。つまり、残りの九割以上は――フェデの腹の中に消えたことになる。


「……あの、女将さん。肉って一本おいくらで?」

「一本で大銅貨八枚だよ。質のいい魔獣肉だからね、精がつくよぉ! あ、端数はサービスしといたから!」


 計算が、合う。合いすぎて吐き気がした。


「…………」


 俺は震える手で革袋の中身を確認した。今日の稼ぎ、ほぼ全額が吹き飛ぶ計算になる。レア薬草を見つけて「ボーナスだ!」と喜んでいた数時間前の自分を殴りたい。あれはボーナスじゃない。フェデの食費の前借りでしかなかったのだ。  

 俺は涙目で小銀貨を取り出した。さっきの感動の涙とは違う、もっと世知辛い涙だ。


「まいどあり! 明日も期待してるよ!」


 マルタさんの笑顔が眩しい。  俺はよろめくように立ち上がり、足元で幸せそうに腹をさすっている(ように見える)フェデを見下ろした。  


 こいつは、ただの犬じゃない。世界樹の最上位霊獣だ。  

 だが、まさかその燃費の悪さまで最上位だとは聞いていない。霊獣というのは、霊素を「肉体」に定着させるために、物質的なエネルギーも大量に消費するんだったか……

 つまり、こいつが強くなればなるほど、飯代がかかる。


「……詰んだかもしれん」


 俺は部屋のベッドに倒れ込んだ。天井のシミを見つめる。 スローライフ? のんびり田舎暮らし?  無理だ。このままじゃ、俺たちは世界を救う前に、食費で破産する。


「……稼がないとなぁ」


 ポツリと漏れた言葉は、自分でも驚くほど切実だった。もっと効率よく、でも目立たずに稼ぐ方法を考えなければ。  

 窓の外では、グレイウッドの夜が更けていく。満腹の幸福感の裏で、俺のささやかな財布の平和が音を立てて崩れ去る音が聞こえた気がした。


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