第1話 社畜の最期と世界樹の夢
雨の匂いってやつは、どうしてこうも陰うつなんだろうか。アスファルトに叩きつけられる水しぶきが、街灯の光を乱反射して視界をぐしゃぐしゃに歪ませている。
深夜二時。あるいは三時だったか。もう時計を見る気力すら残っていなかった。革靴の底がすり減っていて、冷たい水が靴下まで染みてきやがる。気持ち悪い。
最悪だ。
「……帰ったら、カップ麺でいいや」
ひとり言が、白い息になって消えた。今月の残業時間は、たしか百時間を超えたあたりで数えるのをやめたはずだ。
ブラック企業なんて言葉じゃ生温い。漆黒だ。深淵だ。修正テープで塗りつぶされた履歴書みたいな人生。
信号が赤から青に変わる。横断歩道。足を踏み出す。重い。鉛が入っているみたいに足が上がらない。
ふと、横から強烈な光が差した。クラクション。耳をつんざくような、引き裂くような音。ブレーキのスキール音。視界が真っ白に染まって、浮遊感。
あ、これ。よく小説であるやつだ。走馬灯ってやつ? いや、そんな洒落たもんじゃない。ただの強制終了だ。 痛みは一瞬だったのか、それとも痛みを感じる暇もなかったのか。
意識がプツンと途切れるその瞬間に思ったのは、家族への謝罪でも、未練でもなく。
(あぁ……やっと、眠れる)
そんな、どうしようもない安堵だった。
***
闇。とろけるような、温かい泥の中にいるような感覚。思考が溶け出して、自分が「個」であることすら忘れそうになる。これはいい。
最高だ。納期もない。上司の怒鳴り声もない。目覚まし時計のスヌーズ機能に殺意を覚える必要もない。永遠にこうしていたい。そう願った、はずなのに。
『……きて』
声? いや、音じゃない。脳みその皺の奥に、直接響いてくるような波紋。
『起きて……目覚めて、導き手よ』
「……勘弁してくれよ」
俺は意識の中で悪態をついた。死んでまで起こされるとか、どんな業を背負ったらそうなるんだ。
スルーだ。絶対に応答しないぞ。俺は寝るんだ。布団こそが正義。睡眠こそが至高。
だが、闇が晴れていく。強制的に瞼を開かされるような、圧倒的な「光」の奔流。
「っ、眩し……なんだこれ!?」
思わず叫んで、俺は息を呑んだ。そこは、星の海だった。
足元には、鏡のように透き通った水面がどこまでも広がっている。空には数億の星々。そして、目の前には――。
「……でかすぎるだろ」
樹だ。ただの樹じゃない。視界に収まりきらない、なんてレベルを超越している。その幹の太さは山脈ほどもありそうで、枝葉は遥か彼方の星雲まで届いているんじゃないかと錯覚するほど。
世界樹。そんな単語が、理屈抜きでストンと腹に落ちた。
圧倒的な生命力。緑と金色の粒子が、蛍火のように周囲を舞っている。綺麗だ。息をすることすら忘れさせるような、神聖で、絶対的な美しさ。
けれど。よく見ると、その巨大な幹のあちこちに、どす黒い「染み」があった。瘡蓋のような、焼け焦げたような痕跡。そこから、痛々しいノイズが走っているのが分かる。
『……世界樹。それが私の名です』
声は、その巨樹から響いていた。女の人の声のようにも聞こえるし、老人のようでもあり、無邪気な子供のようでもある。不思議な響き。でも、ひどく弱々しい。
「世界樹……? 俺は、死んだんじゃなかったのか」
『貴方の肉体は滅びました。ここは、魂が還る場所。根源の狭間』
やっぱり死んでたか。まあ、驚きはない。あのトラックの突っ込み方は即死コースだったし。じゃあここは天国か? それとも転生前の待機所?
『お願いがあります』
「えっ」
『この世界は今、病んでいます。循環が……命の巡りが、滞り始めているのです』
世界樹の枝がざわりと揺れた。
舞い散る光の粒子――霊素と言うらしい――の中に、黒い靄が混じっているのが見えた。あれが、きっと良くないものなのだろう。
『私の力だけでは、もう浄化が追いつきません。傷が深すぎて……。このままでは、世界は“魔素”に覆われ、枯れ果ててしまう』
悲痛な響きだった。何億年と生きてきたであろう存在が、なりふり構わず一人のちっぽけな魂に縋り付いてきている。
『貴方の魂には、希有な資質があります。色が……とても澄んでいる。どうか、私の代行者として……新たな“精霊王”として、この世界を守ってはくれませんか』
「……はい?」
精霊王。 ラノベ好きの俺なら、その単語の重みくらいは分かる。
要するに、責任重大な管理職ってことだろ?世界を守る。響きはかっこいい。でもな。
「いや、無理です」
『……え?』
「俺、死ぬ寸前まで働きづめで、過労死したようなもんなんですよ。やっと休めると思ったのに、来世でまた『世界を救う』なんて特大プロジェクトの責任者?絶対イヤです。過労死リピート確定じゃないですか」
俺はきっぱりと言い放った。世界樹が、心なしか「しょぼん」とした空気を漂わせた気がする。葉っぱが数枚、ハラハラと落ちてきた。
『そ、そこをなんとか……! 貴方しかいないのです。貴方の魂の波長でないと、私の“核”を受け入れられない……』
「他の人を当たってくださいよ。もっとやる気のある勇者タイプとかさ」
『いません! 貴方がいいんです!』
駄々っ子か。世界を支える大樹が、子供みたいに揺れている。
……はぁ。俺の悪い癖だ。困っている相手、それもこんなに必死な相手を見ると、無下にしきれない。損な性格だよな、本当。
「……条件があります」
俺はため息交じりに言った。
『条件……? なんでしょう、世界を支配する力? それとも莫大な富?』
「スローライフです」
『すろー……らいふ?』
「そう。のんびり生きる。毎日あくせく働かない。日向ぼっこして、美味いもん食って、好きな時に寝る。冒険者稼業をするにしても、ノルマとか世界平和とか、そういう重いやつはナシだ」
俺は指を突きつけた。これは譲れない。絶対にだ。
「精霊王の力とやらは、自衛のために使わせてもらう。もし、目の前で誰かが死にそうだったら助けるかもしれない。
でも、『魔王を倒してこい』とか『世界を統一しろ』とか、そういう強制ミッションは受け取らない。それでもいいなら……まあ、引き受けてやってもいい」
沈黙。星の海のような空間で、世界樹が思考するように微かに明滅した。やがて。
『……分かりました。貴方の自由を尊重します。貴方が、貴方の意志で生きること。それがきっと、結果として世界を癒やすことに繋がると信じて』
おお、話が分かる。世界樹さん、意外と柔軟だ。てっきり「使命を果たせ」とかゴリ押ししてくるかと思ったのに。
まあ、「傷ついているから動けない」って言ってたし、猫の手でも借りたい状況なのかもしれない。俺の手は猫よりはマシだろうけど。
『では、契約成立です。私の根源の一部……《精霊王核》を貴方に授けます。それと……貴方が寂しくないよう、旅の道連れも用意しておきました』
「道連れ?」
ズズズ、と世界樹の根元が盛り上がり、光の塊が二つ、俺の前に浮かび上がった。
一つは、古びた鞘に収まった一本の剣。一見するとただの棒切れみたいだが、鞘の隙間から星屑のような光が漏れている。《アストラ》という名前が、知識として脳内に流れ込んできた。そしてもう一つは。
「わふっ!」
茶色い、もふもふした毛玉。ゴールデンレトリバーにしか見えない何かが、ちぎれんばかりに尻尾を振っていた。耳の先が、翡翠色に光っている。
「犬……?」
『最上位霊獣です。名はフェデリオ。仲良くしてあげてください』
犬――フェデリオは空中で俺の胸に飛び込んできた。温かい。そして、変な匂いがしない。お日様みたいな匂いだ。
剣が俺の腰に吸い込まれるように消える。体が、熱くなってきた。
魂の奥底に、とてつもないエネルギーが注ぎ込まれていく感覚。でも、不快じゃない。懐かしいような、大きな流れに合流するような感覚。これが、精霊王の力か。
『行ってらっしゃい、ルーカス。……どうか、良き旅を』
世界樹の声が遠ざかる。足元の水面が消え、俺は光の中へと落ちていった。
こうして。 俺、元社畜のルーカス・ヴァレリオは、異世界へと転がり落ちたのだ。精霊王という、とんでもない肩書きと。絶対に働きたくないという、鋼の意志を抱いて。
「……まぁ、なんとかなるだろ」
薄れゆく意識の中で、俺はそう呟いた。それが、これから始まる波乱万丈なんて言葉じゃ済まない冒険の、最初の言葉だった。
***
鳥のさえずりが聞こえる。土と、若草の匂い。頬を撫でる風が驚くほど柔らかい。
俺はゆっくりと目を開けた。視界いっぱいに広がるのは、木漏れ日と、抜けるような青空。
ああ、本当に転生したんだな。体を起こそうとすると、腹の上に温かい重みを感じた。
「……わふぅ……」
そこには、俺のお腹をベッド代わりにして幸せそうに丸まっている、金色の毛玉がいた。フェデリオだ。
こいつと一緒に、俺の新しい「スローライフ」が始まる。そう思うと、自然と口元が緩んだ。
まずは二度寝だ。誰にも邪魔されない、最高の昼寝をキメてやる。俺はフェデを抱き寄せ、再び草の上に身を投げ出した。
【世界観・キャラクター設定ガイド】
物語をより楽しんでいただくためのキーワード解説です。
■ 霊素
この世界を構成する「エネルギー」「記憶」「情報」の結晶体です。世界樹から生まれ、大気や大地を巡り、また世界樹へと還る循環を繰り返しています。 全ての生物は体内に《 霊核》という変換器官を持っており、この霊素を取り込んで魔法や身体能力に変えています。つまり、霊素をどれだけ「吸って、溜めて、回せるか」が、この世界での強さの絶対基準となります。
■ 世界樹ユグド・アルボル
世界の中心にそびえ立つ、超巨大な大樹。霊素の循環を司る「世界の心臓」であり、明確な意志を持っています。 傷つき、弱っている自身の代わりに世界を守ってもらうため、過労死した主人公の魂を異世界へと招き入れました。威厳ある神のような存在ですが、主人公への依頼内容はかなり必死です。
■ ルーク(ルーカス・ヴァレリオ)
「のんびりスローライフ」を夢見て転生した元社畜の主人公。 本人は目立ちたくないDランク冒険者志望ですが、その魂には世界樹から託された《 精霊王の核》が宿っています。 常人の数百倍のエネルギーを垂れ流しながら「僕は普通です」と言い張る、歩く規格外存在。
■ フェデ(フェデリオ)
ルークと一緒に目覚めた、ゴールデンレトリバーにしか見えない相棒。
その正体は、世界にただ一等の《 世界樹最上位霊獣》 本来は神獣クラスの存在ですが、ルークの前ではただの甘えん坊な「わんこ」です。ルーク以外の命令は一切聞きませんが、ルークのためなら山脈ひとつ吹き飛ばす準備ができています。
■ 星霊剣アストラ(せいれいけん・あすとら)
ルークが初期装備として持っている、「絶対に抜けない剣」。
錆びついた棒のように見えますが、正体は世界樹の核から削り出された最強の神具。鞘に入ったままでも、ただの殴打で魔物を粉砕する威力を持ちます。
「世界を守るため」以外の理由では決して抜刀できない、究極の安全装置付き最終兵器です。




