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天凪祓  作者: ZoRvATH


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信用と信頼と期待と嘘

第1部 第2章 第12話 『信用と信頼と期待と嘘』


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


――きっかけはふとしたことだった。


「人を信用できない。」という悩みを持ち掛けられたことに端を発する。


それまで僕は通信高校時代いろんな人と話していく中で、『コミュニケーションにおいて最も重要な事は≪信用≫と≪信頼≫である。』という結論に至っていた。


何故二つなのか?二つの違いは何なのか?まずそこから話そう。


超簡潔に表すと『信用=過去、信頼=未来』と言うものだと私は考えている。


その上で、信用とは何か?信頼とは何か?


信用とは、『実績・制度に基づく確率判断』。もう少し言葉を増やすと、『相手の過去の実績や客観的な根拠にもとづく評価』更にかみ砕くのであれば、『約束を守ってきた、支払いを滞らせない等の実績ベースの≪見込みの評価値≫。』である。


同じように、信頼とは『相手の意図に賭ける脆弱性の引き受け』。『相手の人柄・意図を前提に未来を委ねる態度と、不確実性を自分が引き受けて任せるという、関係ベースの取り組み。』、更に言葉を増やすと、『監督できない状況でも、相手が利害衝突時にこちらを裏切らず「関係を守る」行動をとるだろうという≪確率の見積り値≫。』


何故信頼の方が長ったらしく分かりにくいのかというと、『脆弱性を預けられる量』と『関係優先の予測可能性』という二つの要素を兼ね備えているからだ。


このように細かく説明すると、信用と信頼とは日本語的には非常に似た言葉なのだが、明らかに『評価(過去)』と『見積り(未来)』という言葉からも分かる通りで、過去と未来に分かれているのだ。


その為、『人を信じる。』には『信用も信頼もどちらも必要』なのである。


そして人を信じるとは、生物として最も基本的な基礎なのだ。


何故なら、一番最初に行われる『挨拶』これはまさしく相手が必要最低限の信用に足る個体なのかを識別しているのである。


言い換えれば人間以外も多くの生物がそれを行っているのは、互いの信用を得て、信頼関係を築くためだ。


そのような考え方で、信用と信頼が人間と言わず生き物同士のコミュニケーションにおける、もっとも重要な事項なのである。


そして、しかし相談者の話では、「それは少し当てはまらない。」とのこと。「信頼しようとして、傷つく」のだと。


しかし、よくよく聞くとそれは信頼ではなく、期待なのだ。


そして、今回相談を受けたことで、『期待』という新しい語句が加わった。


結論から言うと『コミュニケーションにおいて最も重要な事は≪信用≫と≪信頼≫である。そして≪期待≫はするな。』である。


似ているようで決定的に違う、それは信用・信頼とは、基準がほとんど相手にあるのに対し、期待の基準はほとんど自身にあるからである。


期待とは、『自分の願望の押しつけ』。『自分の望む行動・結果を、相手に対する“暗黙の基準”として心内に設定すること』。更に言葉を増やすと、『相手や状況の現実とは独立しがちな≪望ましさ≫を基準化し、その充足を前提に評価・感情を組み立てる態度。更に合意がなくとも相手に対する事実上の要求として作用する。』


要するに期待とは『極めて身勝手な自分の願望の押しつけ』なのである。


更に期待には『合意』、『未合意』の二つがある。


前者は「君には期待しているよ。」と、上司が部下にプレッシャーを与えるパターン。


後者は「彼が全額奢ってくれると思っていたのに。」・「もっと清楚な化粧で来てくれると思ってたのに。」という、外れた時勝手に傷つくパターン。


「期待に応えたいです!!」というよく聞くセリフも、上に逆らえない人間の方便としか私には思えない。


上のパターンに当てはまらないものは、よほどプロ意識の高い位置にいる人間が発する実体のない期待に応えたい。という宣伝的なものだけだろう。


勿論世の中にはいろんな人がいるので、期待されて素直に嬉しい人もいるだろうが、特に情報化社会と化した現代でそのような単純な事柄で喜ぶものは少ないだろう。


つまり、広範囲では行わない方が無難なものなのである。


何より、人を信用できないという、弱っている人間は最も避けるべきである。


私が期待に対してあまり注意が無かったのは、中学校での出来事以来人に対して期待することが一切なくなったからである。


哲学話が長くなってしまうのだが、どうしてももう一つ言っておかなくてはならない事がある。


私は超が付くほど嘘が得意だ。


だが、勘違いしないでいただきたいのは『嘘が得意』なのであって、『嘘つきではない。』ということだ。


私は『良い嘘』と呼ばれるものですら基本つかない。唯一の例外は相手を喜ばせるためのサプライズだけだ。


何故なら、嘘は浅知恵で使うようなものではないからだ。


私は嘘とは、『信用を担保にして行う賭け事』だと思っている。


信用という掛け金をかけて嘘をつく。成功したら掛け金を損なわないまま、莫大な報酬を得られる。そして、失敗したら報酬も掛け金である信用も失う。


しかし、多くの浅はかな嘘つきが見落とす重大な点は、一般的な賭け事と違い嘘という賭け事は、その嘘の辻褄を合わせ続けなければならない事。


そこを失敗すると、後からいかさまをした分の取り立てが、掛け金の数倍となって押し寄せてくる。


つまりそもそもが非合法的な賭け事のような存在なのである。


例え相手を思った嘘であっても、必ずしも相手がそれに感謝するとは限らないのだから、わざわざ嘘をつくのは愚策だと個人的には思う。


その瞬間に相手を傷つけることになっても早期に知らせてあげるのが、本当の信頼関係と言うものだと私は考えている。


それで逆恨みしてくるようなら、そんな人間はさっさと切り捨てるべきである。


そして読者に嫌われることを承知ではっきり言うと、頭の悪い人間ほど嘘をつくことはおすすめしない。


何故なら、長々と説明してきた通り、『認知負荷の高い行為であり、整合管理が苦手な人ほど破綻しやすい』ためである。


そして、嘘が得意な人間は嘘を見破る確率も高い上に、相手が嘘が得意かどうかを見破るすべはないからだ。


私も私と同格以上の嘘が得意な人間の嘘は、数年単位の密接な付き合いでボロを出してくれない限り見破ることはできない。


そのようなことから、私の中でコミュニケーションにおけるもっとも重要な事柄は、『コミュニケーションにおいて最も重要な事は≪信用≫と≪信頼≫である。そして≪期待≫はするな。嘘をつくな。嘘を見破れ。』である。


何故見破れ?なのか?


これ以上長くすると、皆もそろそろ痺れを切らしてブラウザをそっと閉じると思うので、後4行で終わらせる。


世の中には『人を利用する人と、人に利用される人』という構図しかないからだ。


利用=悪意。というわけではない。その為、お互いに利用している状態を『対等』と言い。これは健全である。


しかし、片方がより多く利用していれば、それは『低い方が駒にされている可能性が高い』ということである。だから、その辺りの事に神経を使う必要があるのだ。


『全ては自分が傷つかないため』だ。


この様なコミュニケーションの土台が私の中でしっかりと出来上がった。――


1年が終わる頃。どうしても英語を勉強したくて、休学した。


留学に行けるわけでも無く、ただ家で一生懸命勉強していた。


しかし結果は惨敗。大した成果は出なかった。


なんというか、僕はピアノや、外国語が好きなのだが、どうも好きな物に限って致命的に才能がないらしい。


そして、復帰。二年制だったので1年生の時のメンバーはもう誰もいない。


が。


『悪夢は再び(CV.三石 琴乃さん)』


いやー。まさかの辞めたと思ってた小林君が復活して、かつ掌握してたんですねー・・・。


正直そんなことは小さい問題だったんだけど。


実際復帰する際に、多くの1年生で一緒だった方々にめっちゃ心配されてたんだけど。想像を超えてヤヴァかった。


結論から言うと『みんなキチガイだった』。どういう風にキチガイだったかというと、『試験で点数が取れないのは講師の教え方が悪いからだ』。と本気で主張しているような連中だった。


講師の方々は非常に良識的で良い方々が多かったが、その講師からも『こんな頭のおかしい生徒達を持ったのは初めて。』と、前代未聞状態で講師とは違うのだが、担任としてクラスをまとめていた先生も一学期で退職した。まあ、最初の数カ月だけでもいてくれたのは僕にとっては本当にありがたかった。


――つまり。


私は生まれて初めて『根拠のない自信』を持つ集団と相対したのだ。


プライベートでは『頭の悪いやつ。時間の無駄。』で終わらせることができても、学校とくればそうもいかない。


語弊のないように言っておくが、『楽観的』、『ポジティブ』、『自信に満ちている』、これらとは似て非なるものだ。


これらは、今回の対比として分かりやすく似た型に当てはめて言うのであれば、所謂『根拠のない勇気』とでも言うべきものだろう。


何故なら、これは『大前提として理論立てて思考できた上』で、自信を持っていたり、自信のない人が自己啓発的に身につけるものである。


感情論の話に戻るが、『刺激→直感(経験則)→価値観(基準の明示)→論理(選択肢作り)→感情論(選別)→結論』この型における『選別の仕方』の話なのである。


ちなみに頭の悪そうな自己啓発系で『根拠のない自信を持とう!』などとほざいているものがあるが、大体言っていることは上記の話だ。


ただ彼らが名前を引っ張ってくる成功者が言ったとされるのは『刺激→十分な経験→直感(経験則)→感情論(選別)→結論』。こういうことで、十分な経験があるから過程をすっ飛ばして『何故か自信を持っていた。』と本人が感じていた。という特例であって、厳密には根拠がないのではなく、本人が無自覚に処理した。より正確には『経験に基づく自信』というのが、より正しいはずだ。


何も考えずに、何の経験もないのにいきなり自分は空を飛べると思いこんで、無限の彼方へ飛び出すのはただの馬鹿である。


本来の『根拠のない自信』とは大きく違うのである。


対して『根拠のない自信』とは、論理と感情論の時に長々と話した『論理的思考が抜けている。』ということなのである。


先ほど例に出したトイ・ストーリーのバズ・ライトイヤーがまさにそれである。


今度から彼らの事をバズ・ライトイヤーと呼ぶべきか?苦笑


バズは勝手に階段から落ちて腕と羽が取れただけだったが、現実では真下には誰かしらがいるし、仮に誰もいなくても床に傷がつくのである。


ただ、こいつらが愛すべきバズよりも数倍もタチが悪いのは、『飛べなかったのは自分の足りないおつむではなく、階段の手すりの形状が悪く、それを設計した人間の頭が悪い。』という『何が何でも他責にしたがる執念の強さ。』も兼ね備えている点である。


正に鬼に金棒。本当にこいつらは迷惑極まりない。


正直いまだに正攻法が分からない、『極力関わらない事』これしかない。


自己中、ケチ、八方美人が個人的には嫌いだが、好きとか嫌いとかいう次元ではない。


本人たちは自分に酔いしれて気持ちがいいのかもしれないが、周りからしたらもはや災害レベルである。


そもそもの行動原理が論理に基づいていないので、正論パンチをしてもびくともせず、異世界理論を展開してくるのである。――


当たり前だがそんなキチガイと馴染めるわけが無く、丸一年間ほとんど口を開くことが無く終わった。


小林君は水を得た魚のように意気揚々としていた。まあ、彼が馴染めるわけである。


ちなみに新しく入ってきた1年生からも二度目の合同授業の時にはキチガイ認定されていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


次回!第1部 第2章 第13話

『技能実習生』 DON'T MISS IT!!!

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