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小さい頃からずっと隣にいた。気持ちを確かめたこともないくせに、そこはあたしの指定席なのだと思い続けてきた。だから友也があさみと付き合い始めたと聞いた時、本当はすごくショックだった。
幼馴染みの川瀬友也はモテる。昔からそうだったし、今に始まったことじゃない。けれど友也の心を射止めるような女はいなかったみたいで、ずっと彼女の席は空白のままだった。だからあさみが友也を紹介してほしいと言い出した時も、一度だけのつもりで気軽に引き受けてしまった。
「京子のおかげだよ」
何度も聞かされた科白をバカの一つ覚えみたいにくり返しながら、あたしの前で幸せそうに笑ってる女が友也の彼女の進藤あさみ。付き合い始めてまだ日が浅いから、ノロケたくてたまらないのだろう。このところあさみの口から出てくるのは友也の名前ばっかりだ。
「ホント夢みたい。絶対無理だと思ってたのに」
あさみ以上にきっと、あたしがそう思ってた。どこにでもいるような普通の女なのに、友也はあさみのどこに惹かれたんだろう。
「彼、本とか映画とか好きなんだね。ちょっと意外だった」
本も映画もスポーツも音楽も、友也はなんでも好きだ。そんな事も知らずに付き合ってるなんて笑っちゃう。
「今まで彼女いなかったって、ホント?」
「……そうだよ」
モテるくせに女には関心ありませんっていう顔をして、友也は誰も寄せ付けなかった。唯一、幼馴染みのあたしを除いて。
「友也くん、モテるのにね」
そんな風に呼ぶな! ちょうどいいタイミングで友也が現れなければ、あたしはそう叫んでいたかもしれない。
「あ、友也くん」
「よ」
あたし達のクラスに入って来た友也はあさみの前で足を止めて、それが当然のことのように彼女に応えた。そうやって親しげに友也を迎えるのも、今まではあたしの役目だったのに。
「どうしたの? 何か用事?」
「ちょっと京子に用があってな」
あさみに答えたあと、友也の視線があたしの方へ向く。だけど二番目に目を向けられても、嬉しくも何ともない。愉快な顔なんてしていられないから、友也に対する態度も自然とぶっきらぼうになった。用事があるって言われてるのに口を開かないあたしを見て、友也はキョトンとした感じで首を傾げる。
「なにムズカシイ顔して黙りこくってんだ?」
「……別に。なんでもないわよ」
「これ、借りてた本。サンキューな」
貸してたことすら忘れていた本が手元に戻って来た。家が隣なんだから、わざわざ学校で返さなくてもいいのに。
「続きは?」
「家にある。夜にでも取りに来たら?」
「オッケー。じゃあ帰り、迎えに来るから」
後半は寂しそうにあたし達の話を聞いていたあさみに向かって言い、友也は去って行った。あさみの目が友也の背中を追っていたから、あたしはおもむろに顔をしかめる。
「京子と友也くんって、相変わらず仲いいよね」
嬉しさを噛み殺したような表情でそんなことを言われても、それは優越にしか聞こえなかった。
映画も音楽も冒頭の数分で止めて、ベッドに寝転がって本を開いた。だけど一番好きな読書も数ページで読む気が失せて、仕方なく本も閉じる。やっぱりダメだ。最近は何をしても集中出来ない。
閉ざした文庫を枕元に放って、起き上がる。そのままベッドを下りて窓辺に寄ってみても、カーテンを開けた先に求めるものを見つけることは出来なかった。見えるのは、明かりのついていない隣の家の窓。そこは友也の部屋で、この時間に明かりがついていないということはまだ帰っていないのだろう。時間は、午後八時。誰と一緒にいるのかなんて、考えたくもない。
『そんな風に呼ぶな!』
思わずあさみにぶつけそうになった本音が、胸の奥でこだまする。お腹の底からこみ上げてくるような強い声は口に出すことが出来ない分、日を追うごとに激しさを増しているような気がした。イライラ、してる。自分で招いたことなのに。
「お前、何してんの?」
ノックもなく扉が開けられて背中から声をかけられたから、心臓が口から飛び出そうなくらい驚いた。慌てて振り返って見ると、そこにいたのは案の定な人物。あたしの顔を見て、友也は少しだけ眉根を寄せた。
「調子悪そうにしてたけど、病気か?」
「違っ……」
大声を上げそうになった自分に気付いて、あたしは口を閉ざした。なに、ムキになってるのよ。友也に噛み付いたって仕方ないじゃない。
「それより、何の用よ?」
自分でも分かるくらい、声が迷惑そうなものになった。邪険になんかしたくないのに、どうしても友也の顔を見ると平静でいられない。だけど友也は目を逸らしたあたしを怪しく思ってる風もなく、いつも通りの調子で言葉を重ねる。
「本、今夜にでも取りに来いってお前が言ったんだろ」
そういえば昼間、そんなことを言ったような気もする。でもあの時は上の空で、何の本を返してもらったのかもまったく覚えてない。
「何の本だっけ?」
「ああ、みつくろってくからいい。しばらくジャマするぞ」
友也がいつもの調子で本棚に向かったから、あたしはベッドに移動した。ずっと友也を見てるのもなんとなく変な気がして、さっき枕元に放った本を拾い上げる。活字に目を落としてみたけど、やっぱり内容はぜんぜん頭に入って来なかった。
うちの両親と友也の両親は学生時代からの友達らしくて、昔から友也もあたしもお互いの家を自由に行き来してた。だから友也がノックもせずに入って来るのは、いつものこと。あたしの本棚から好きな本を持って行くのも、いつものこと。なのに今は、心の距離感だけが違う。 ……やだなぁ。痛いよ。真剣な顔して本に見入ってる見慣れた横顔が、もう他人のものだなんて思いたくない。
友也とあさみが付き合いだしたって聞いた時、目の前が真っ白になった。でも今は、突き刺さったまま抜けない棘みたいな痛みが胸の底に沈んでる。この傷はどうしたら癒えるんだろう。それとも、このままずっと疼き続けるの?
「なんだ、ないと思ったらお前が持ってんじゃん」
間近で声がしたから目を上げると友也の顔がすぐ傍にあった。友也のアップなんて見慣れていたはずなのに、その男とは思えないキレイな顔に胸が高鳴った。驚きを通り越した体は硬直してしまって、あたしの手の中から本がすべり落ちる。床に落ちたそれを、友也は何事もなかったかのように拾い上げた。
「これ、まだ読んでない?」
ベッドのスプリングが派手に軋んで、その衝撃で我に返った。いつの間にか友也が隣に座っていて、あたしを見てる。さっき何かを言われたような気がしたけど、何を言われたのかはぜんぜん覚えてなかった。
「何が?」
「だから、昼間返した本の続きだよ」
少しムッとした表情をした友也が手にしていた本を掲げて見せたから、そこでようやく話が通じた。そうか、本の続きがどうのって話をしてたんだっけ。
「もう読んだから、持って行っていいよ」
「あと、これとこれも借りたい。まだ読んでないやつある?」
さっきの本とは別に、友也の手には二冊の文庫が握られていた。芥川龍之介に恋愛小説、それにサイコ系のホラー小説と、友也が借りたがっている本はジャンルがバラバラ。全部あたしの本だからひとのことは言えないけど、友也も相変わらず乱読型だね。
「本棚のは全部読んだから。どれでもいいよ」
「サンキュ。じゃあ、借りてくな」
数冊の本を持って、目的を達した友也はあたしの部屋を出て行った。階段を下りるトントンという軽い音がして、その後には扉を開く音が微かに聞こえてくる。たぶん、リビングから出てきたお母さんに「おやすみなさい」って言って、友也はうちを出て行った。