第十一章 沈黙と告白のはざまで
店内の灯りは、夜更けの空気に合わせて落とされ、陰影が柔らかく揺れていた。 グラスの中で氷がカランと鳴り、その響きがやけに大きく感じられる。
胸の奥に、ずっと燻っていた疑念があった。
――「俺は必要ないんじゃないか?」 以前にも同じような言葉を口にした情景が再び蘇る、あの指輪を目にした時に発した言葉。心の深部にこびりついた不安が言葉となって漏れ出たものだった。
彼女の笑顔の奥には、見えない秤がある気がした。 売上という数字の上で、客は知らぬ間にランク付けされる。 では、私はその目盛りのどこにいるのか。 太客の影に埋もれた、ただのひとりに過ぎないのではないか――。
彼女のもとへ通う男性、顧客は、彼女が苦手とするスキンシップを理解し無理に迫らない男性たち、と聞いていた。そして、彼女の考えを理解してもらえない顧客は去って行ったと聞いた。
それは、彼女がこの世界で自分自身を守り、生き残るために顧客を選び抜いてきた戦略であり、彼女が努力して築いてきた顧客との関係。
私は思いつき、整理して、彼女に尋ねた。
「……君のところに通ってる男性って、いろんなタイプがいると思うんだ。 たとえば、①君を通して楽しむ場として割り切って通う人、②君のことを愛し理解しようと努め、君を悩ますことを言わない、本当に優しい人、③その中間で揺れる人。
君は、そういうタイプ分けで考えたことはある?
俺はどのタイプにも属さない、ストレートに君に表現している男性だ。それは君を悩ましている。その意味では、俺は、君にとってふさわしい顧客ではない。しかし、君を愛する男性として、そぐわないとは思わない」
それは遠回しに突きつけた刃だった。 答えれば誰かを切り捨て、答えなければ誠実さを疑われる。 彼女にとって、どう転んでも傷を負う問いであることを、私自身も分かっていた。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、グラスを指先でくるくると回す。 琥珀色の液体がゆっくり揺れ、わずかな沈黙が空間を満たす。 返事を待つ時間が、不安を何倍にも膨らませ、胸を締めつけた。
やがて、淡々とした声が落ちてくる。 「……そういう人たち、それぞれ……いるんじゃないでしょうか」
それだけを告げ、再びグラスに視線を落とす。 まるで「これ以上は踏み込まないで」と、静かに境界線を引いたように。
物足りなさと同時に、私は直感した。 彼女が本気で語るとき、言葉は早口になり、語気も強くなる。 それを知っているからこそ、この短い答えと沈黙には――彼女なりの「勇気ある拒絶」が込められているのだと。
――その沈黙と微笑みの内側で、彼女はどう感じていたのだろう。
きっと思ったはずだ。 「必要ない」と告げられることほど、胸を突き刺す言葉はない、と。 夜の世界に生きる彼女にとって、客に「必要とされる」ことは存在の証明そのものだから。
だが、彼女は理解もしていたのかもしれない。 私の問いがただの責め立てではなく、愛情の裏返しであることを。 「必要とされたい」という渇望は、彼女の中にも確かにあったから。
だからこそ、答えられなかった。 簡単に「あなたは必要だ」と言ってしまえば、その言葉は軽くなり、むしろ関係を壊してしまう――そんな危うさを、彼女は敏感に察していたのだろう。
私が疑念と嫉妬に胸を焦がし、彼女は沈黙と微笑みでそれを受け止めた。 その一瞬、二人の間に目に見えない距離が生まれた。 だが同時に、それは互いが互いを求めてやまない証でもあった。
氷がまたひとつ、小さく鳴る――。
その音は、二人のあいだに落ちた沈黙そのものを象徴しているように思えた。