水はなにも言わない
夏の午後、ぎらぎらと照りつける日差しの下で、私は娘と自然公園の噴水へと遊びに来ていた。
娘はまだ二歳。よちよち歩きだが、水の中を歩くのは大好きで、今日も嬉しそうに手を引いてくる。
池の中に設けられた噴水は、自然の岩をそのまま使ったような造りをしていた。観光地にあるような整った装飾とは違って、少し無骨で素朴なつくり。岩の隙間から水が噴き出しており、その流れで池の中には浅瀬と深みができている。
深い部分は、大きな岩が柵のように並べられ、入れないようになっていた。子どもが一人で入り込むことのないよう、自然なかたちで安全が保たれているのだろう。
私たちは浅瀬に入り、裸足のまま水に足をひたした。ぬるんとした水の感触が気持ちよく、娘はキャッキャと笑いながら私の手をぎゅっと握った。
しばらくすると、娘の目が一つの岩のくぼみにとまった。噴水の水がかかって、くぼみには小さな水たまりができている。苔が舞い、水は濁っていて底は見えない。
娘はしゃがみこみ、小さな手をその水たまりに突っ込んで、バシャバシャと遊びはじめた。
「ちょっと、それ……あまりきれいじゃないよ」
私は声をかけた。が、娘は笑いながら顔をふる。怒るほどではないし、あとで手を洗わせればいい。私はそのまま見守ることにした。
ふと視線を上げると、水しぶきの向こうに虹が浮かんでいた。噴水の霧に日差しが当たり、ぼんやりと空中に輪を描いている。
「ほら、虹だよ」──そう声をかけようとした、その時だった。
「ママ、取れない、取れないの……」
娘の声に振り返ると、彼女はさっきのくぼみに腕を突っ込んでいた。肘の少し手前まで沈んでいる。
まさか、と思った。岩の間に引っかかった?
心臓が跳ねるように高鳴り、私は水を跳ねながら駆け寄った。
「痛くない? 動かせる?」
娘の肩に手を添え、そっと引いてみるとあっさりと腕は抜けた。拍子抜けするほどだった。
「どうしたの?」
私が尋ねると、娘は泣きそうな顔で言った。
「ビー玉……落としちゃったの」
ビー玉? 持ってきた覚えはない。だが、この年頃の子どもは何でもポケットに詰めこむ。きっと家からこっそり持ってきていたのだろう。
「取れなかったの?」
娘が小さくうなずくのを見て、私はしゃがみこんだ。くぼみの中の水は、やはり少し濁っていた。
手を入れるのは気が進まなかったが、泣き顔で見上げられてしまえば、断れなかった。
私は自分の手をくぼみに差し入れた。
大人の手には小さすぎて、指先しか入らない。水の底を探ると、少し深くなった穴のような部分があり、そこにツルリとした感触があった。
ビー玉だろうか──と思ったが、感触がどこか妙だった。なめらかなはずの表面に、ヌルッとした膜のようなものが絡みついていて、ぬめりと冷たさが交互に伝わってくる。
私は指先でなんとか引っかけようとした。
そのとき。
「ママ……血……」
娘の声が、怯えたように震えていた。
ぞくりとして窪みを見た。
苔の浮いた水が、赤黒く濁っていた。
私は慌てて手を引き抜こうとした──岩のふちに何かが引っかかる感触。わずかに焦る。
ぐっと力を入れて腕を引くと、ズキン、と鋭い痛みが走った。
「っ……!」
引き抜いた指先には、割れたビール瓶のようなガラス片が刺さっていた。細く尖った破片が、私の指に深く食い込んでいる。そこからあふれ出た血が水と混ざり、さらに濁っていく。
私は急いでハンカチを取り出し、指を押さえながら娘の手を確認した。小さく、なめらかで、傷ひとつない。ほっとする。
だが、その安堵の裏に、恐ろしい考えがよぎる。
さっきまで、娘はその水に、腕の半分まで突っ込んでいたのだ。
もし、あのガラスに指が触れていたら。
ほんの少し、角度が違っていたら。
私はもう一度、岩のくぼみを見た。
苔が揺れ、濁った水が底を隠している。何も見えない。
水は、なにも語らない。
何が沈んでいても、誰の手を傷つけても、ただそこに、静かにあるだけ。