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アバンチュール

作者: ウラッキー

 僕は武田耕三という名を持つアラサーの売れない絵描きで、これまであっちへ行ったりこっちへ行ったりと定まらない行動をする風来坊のような生活をしてきた。

 本当はミュージシャンになりかった。エレファントカシマシの宮本浩次に憧れて、高校の軽音楽部に入部してから、二十代前半までバンドマン生活をしてきたが、上には上がいると自分の限界を思い知らされた。それっきり音楽はきっぱりと辞めた。今はこうしてこの山間の小さな村で下宿生活をしながら落ち着いているわけではあるのだが……。

「おはようございます……」

 僕は階下へ下りて行くと、この家の主婦へ挨拶した。

「どうも……朝ご飯の仕度があります」

 と、主婦は会釈を返した。

「恐縮です……」

 僕は、重いバッグを玄関の上り口へドサッと置いて、

「……いい匂いだ」

 味噌汁がプンと匂って、お腹を刺激した。

 ……二階建てといっても、都会の二階建てとは広さが違う。

 どっしりとした柱、広い廊下。

 建ってから何十年経つのか。……その二階に、僕は下宿していた。

「……どうぞ」

 この家の主婦が、ご飯をよそってくれる。

「いただきます」

 漬物、焼魚の焦げた匂い。

「お楽しみですね」

「いや、もう忘れられてるかもしれません」

 と、僕は言った。

 もちろん、冗談のつもりで言ったのだが、冗談に聞こえなかったのかもしれない。

「本当にご苦労様でした」

 と、頭まで下げられ、僕は焦った。

「奥さん……。お礼を言うのは僕の方です。まさか、こんなに長くなるとは思いもしませんでした。嫌な顔一つ見せず、あれこれお世話下さって……」

「もう……五年ですものね」

「五年か……」

 意味のない言葉だが、どう言ってみたところで、今の僕の気持ちを言い表すことはできないだろう。

「初めは一年のはずだったのに。たぶん、一年やそこいらは延びるだろうと思ってましたが、まさか五年とは……」

「……さ、召し上がってください。バスに遅れると、大変ですわ」

「はあ……」

 ふっくらと炊けたおいしいご飯だ。

「奥さんも召し上がってくださいよ。いつも気が引けて。僕一人で食べているんじゃ」

 と、僕は言った。

「お客様と一緒に食べるわけにはいきません」

「お客様なんて……ただの下宿人ですよ、僕は」

「いえ、私にとってはお客様なんです」

 僕は笑って、

「頑固だな、奥さんは」

 と、言った。

 この家の主婦……柴田妙子は、微かに笑みを浮かべた。

 ……もう五年経つのだ。事情は話し始めれば長くかかってしまう……いつの間にか五年も、この小さな村に居続けることになってしまったのだ。

 その間、一度も家に戻っていない。この「休暇」は、実に五年ぶりのものだったのである。

「……奥さん、ご馳走様でした」

 と、僕は箸を置いた。

「お粗末様でございました」

 柴田妙子は食事の後、必ずこう言う。小柄だが、骨太な感じの、がっしりした体格の女性である。寒さのせいで、頬は赤く、丸い顔はリンゴのようだが、生来のおっとりした人柄が、その穏やかな笑顔に出ていた。

「もう、お出になった方が」

「ええ。……奥さん。それでは、そろそろ……」

「そうですか。お気をつけて」

 妙子は、頭を下げた。

 僕は、バス停への山道を辿って行った。……空気が冷たい。十月の半ばは、もう初冬の寒さである。

 しばらく行って振り返った僕は、妙子がまだ玄関先に立って見送っているのを見て、びっくりした。

 手を振ろうと、バッグとビニール袋を一方の手に持って、高く手を上げた。

 すると……妙子の方も手を振ったのである。

 五年間で、初めてのことだった。

 いつもと違うことは決してしない。

 そう心に決めていた僕だが、つい、手を振ってしまった。妙子は、姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。

「人生のリスタートだ」

 と、口に出して呟いた。

 バス停まで来て、僕はホッと息をついた。あと十分はある。

 こんな山奥でも、バスの運行は大体正確である。

 それにしても、ヨーロッパ、アメリカだって、飛行機なら十二、三時間で着くというのに、山奥とはいえ日本の中で、東京まで丸一日かかっても着かないというのもひどい話である。

 実際、僕はここへ戻る気はなかった。

 東京へ帰ったら、上司に談判し、何としても、都内の勤務にしてもらう。どうしても聞いてもらえなければ、会社を辞めてもいいとまで思っている。

 そうだとも。……これ以上我慢する必要なんかあるものか。あと五分。

 バスが珍しく、少し早めにやって来るのが見えた。

 バスが停り、荷物を手に乗り込むと、

「やあ、旅行かね」

 と、運転手が言った。

 むろん、顔なじみだ。

「いや、東京へ戻るんです」

「ほう。じゃ、やっと帰れるってわけか」

「ええ、そうなんですよ」

 と、運転手は肯いて言った。

 バスが動き出す。……僕は、他に数人の客しかいないバスの中を見回して、早くあの東京のラッシュアワーの電車に乗りたい、とさえ思ったのだった……。

 その頃、山の中へと上る細い道を、息を弾ませながら上っていくセーラー服の少女がいた。

 山道には慣れているとはいえ、この上りはかなりきつい。

 それでも、右手に学生帽、左手に紙袋をさげて、せっせと顔を真っ赤にして上っていく様子は楽しげですらあった。

「……着いた!」

 と、少女は言った。

 そのプレハブの小さな小屋は、僕の「仕事場」である。

 少女は、ドアの所まで行って、足を止め、

「……うそ!」

 と、言ってしまった。

 貼り紙がしてあった。

「十五日より二十四日まで、閉鎖いたします。万一、急な用がおありのときは下記番号までお電話ください……」

「どうして?」

 と、思わず声を上げる。

 十日間も。……少女、大神犬子は、僕がこの前、口にしていたのを思い出した。

「今度休暇が取れるかもしれない」

 犬子は、今までも何度かそんなことを聞いていたので、

「じゃ、近くの温泉にでも連れていってあげようか?」

 と、言ったものだ。

 でも……本当だったんだ!

「十日間だ」

「十日間も?」

 諦めきれずに、窓から薄暗い中の様子を覗いたりして、それから犬子は道を下って行った。犬子の紙袋の中には、手編みのセーターが入っていた。犬子が、僕のために三か月かけて編んだものだ。昨日、やっと仕上がった。それを届けようと、今日はいつもより少し早く家を出た。週に一度、僕は朝早くから出ていたのである。それなのに……。

 よりによって今日から十日間!

「仕方ないなあ……」

 でも、十日すれば帰ってくる。十日なんて、すぐだ。

 自転車を置いた場所へと戻りながら、

「武田さんの馬鹿!」

 と、文句を言った。

「帰って来たら、とっちめてやる!どうして黙って行っちゃったのよ、って」

 犬子は足を止めた。

 帰って来たら?……いや、そうじゃない。

 僕にとっては、今、帰っていくところなのだ。

 で、もし……もし、それきり、ここへ来なかったら?

 少女の直感は、僕が何も言わなかったのも、ここに戻る気がないからだったと見抜いていた。

「いなくなっちゃう?武田さんが?」

 しばらく、犬子は呆然と立っていた。

 十六歳の犬子は、付き合いが長いので、僕をよく知っていた。だから、僕は「ここの人」なのだと思っていたのだ。

 むろん、色んな事情は聞いていたが、それでも、毎日、僕の顔を見られるという「日常」が変ることはないと思っていた……。

 それが今、突然……。

「いやだ!」

 と、犬子は叫んだ。

「そんなの、いやだ!」

 今日発つとすれば、今バスに乗っているころだ。駅まで出て、そこから列車で行く。他に方法はない。

「逃がさない!」

 犬子は、鞄と紙袋を手に、スカートを翻して、猛然と走り出した。

 逃がすもんか!……あの人について、東京まで行くんだ!

 一瞬の内に、十六歳の少女は、家出と一方的ではあるが駆け落ちを決心したのである。

 自転車の籠に鞄と紙袋を押し込むと、ペダルを踏んだ。

 ……犬子は、この山間の家から、駅まで自転車で出て、J市の高校へ通っている。片道一時間半かかるが、それでも町へ出るのは楽しかった。

 でも、今はそれどころじゃない。

「武田さんに追いつけ!」

 犬子は必死でペダルを踏んで、駅へと向かった……。

「じゃ、達者で」

 バスを降りるときは、運転手が声をかけてくれた。

「どうも」

 僕は、軽く会釈して、荷物を手に駅の方へと歩いて行った。

 列車の時間に変りないことを確かめると、先に切符を買った。

 ここから列車だけで東京へ帰れるわけではない。……先は長いのである。

 列車が来るまで四十分以上あった。

 駅前にも、土産物屋の一軒もない。

 僕は、駅の待合室へ入っていようかと思ったが、何しろ五年間いたので、知っている顔がいくらもいる。

 待合室で、いちいち話しかけられて説明するのも煩わしい。

 駅前に、古ぼけた喫茶店が一軒だけある。

 前まで行ってみると、「営業中」となっている。

 ドアを開けて、

「こんにちは」

 と、声をかける。

 カウンターの中には誰もいなかった。

「留守かな?……ま、いいや」

 どうせ客はいない。ソファに座って、もしこのまま誰も出て来なくてもいい、と思っていた。大したコーヒーが飲めるわけじゃないのだから。

「……この喫茶店も、よく通った」

 会社へ連絡しようと思うと、この駅前へ出てきた方が早いのだ。電話もファックスも、駅前のコンビニで使える。

 コンビニも、できたのが三年前。

 僕は、都会の暮しが身近になったようで、そのときは感激したものである。

「……五年か!」

 長かった。……全く、会社の方は変えるのが面倒なのだろうが、こっちはたまったもんじゃない。

 従姪の千秋は、十二歳から今、十七歳になっているのだ。

 ……あの高校生、大神犬子と仲良くなったのも、千秋の成長を見ているような気がしたからだった。

 あの子にも何も言わずに来てしまったが……。

 大丈夫。十代には、もっと色んなことがある。僕のことなんか、すぐ忘れるさ。

 犬子が自分に憧れのような思いを持っていることは、僕も気づいていた。

 それはおそらく、僕を通して、「東京」という「夢」を見ていたのである。

「東京の大学へ行く!」

 と、犬子が言い出したのも、きっとそのせいなのだろう。

 しかし、犬子の家に、そんな余裕がないだろうということは、僕も知っていた……。

 ……僕は、カウンターの中に、いつの間にかここの奥さんが立っているのを見て、びっくりした。

「あ、どうも」

 と、僕が言うと、まるで初めて気づいたとでもいうように、

「いらっしゃいませ」

 と、言った。

「列車を待っているんです」

 と、僕は行った。

「コーヒーをいただけますか?」

「はい」

 奥さんは、サイフォンをセットした。

 そして、僕の荷物を見ると、

「東京へ?」

「ええ。久しぶりに帰ることになりました」

「まあ、そうですか」

 と、微かに微笑んだ。

「良かったですね、それは」

「何しろ、家族とも全然会ってないもんで……」

 と、僕は言った。

「もう戻って来ないんですか?」

「たぶん……。いや、ここものんびりしていい所ですがね」

「ここが?」

 と、奥さんは聞き返して、ちょっと笑った。

「こんな所のどこがいいんです?」

 そう言われると、僕は答えに困る。

「ごめんなさい、妙なことを言って」

 コーヒーが入ると、

「……どうぞ」

「……どうも」

 僕は、奥さんの手を見て、

「怪我でもしたんですか?」

「え?」

「血がついていますよ」

「ああ、これ。……さっき鼻血が出て……。ごめんなさい」

「いえ」

「はい、クリームと砂糖」

 と、テーブルに置くと、

「武田さん!」

「何か?」

「私を東京へ連れて行ってくれませんか?」

 僕は唖然としていた。

「ごめんなさい!冗談よ!」

「びっくりさせないでください」

 と、言うと、僕はコーヒーをブラックのまま飲んだ。

 おいしかった。……こんなに旨いコーヒーを、この店で初めて飲んだ、と僕は思った……。

「よし!これだ」

 と、僕は言った。

「一応ホテルってなってるね」

 と、犬子は肯いて、

「でも、いいの?」

「君に聞かれるんじゃ、あべこべだな」

 ……僕たちは、もう足が鉛のように重くなって、これ以上歩けない状態だった。いくら元気な犬子でも、もう限界そうであった。

「……たぶん、国道の近くにこういうホテルがあると思ったんだ」

 僕は、恋人たちがドライブの帰りに寄ったりする、この手のホテルなら大丈夫と思ったのだ。

「よく知ってるね。いつも利用してたの?」

 と、犬子は言った。

「おい、犬子ちゃん……車を運転してりゃ、目に入る。利用してなくたって、わかるよ」

 と、僕はため息をつきながら言った。

「どうでもいいけど、入るのなら早く入ろう」

「そ、そうだな」

 二人は、けばけばしいネオンが埃でくすんでいるそのホテルへと入って行った。

 フロントには人の姿がなく、手で押すベルが置いてあって、「ご用の方は押してください」という札が添えてあった。

 僕がベルを鳴らすと、

「はい……」

 と、眠そうな顔の中年女が出てきた。

「一部屋頼むよ」

 と、僕は言った。

「お二人?」

 と、女が、僕の影に隠れるようにして立っている犬子を覗くようにして見た。

「ええ、二人」

「二時間?それとも泊まるの?」

「泊まる」

「じゃ、二万円」

 僕は目を丸くして、

「ちょっと高いんじゃないか?表には……」

「人によるわよ」

「そんな金持ちに見えるか?」

「女子高生が相手となると、法律がうるさいの。こっちがとばっちり食うと困るんでね。それでいやなら、やめときな」

 仕方ない。……僕は二万円を出して、

「領収書はくれないんだろ」

 と言ってやった。

「はい。二百四号室」

 と、ルームキーをくれる。

「ちゃんと返してってよ。何時までいていいんだい?」

「十時」

「じゃ、十時だ」

「そう。……あんた、学校をサボって、こんなおっさんと遊んでちゃ駄目だよ」

 お説教されて、犬子は少し赤くなった。

 二人はルームキーを手に、エレベーターで二階へ上がった。

「何だか、凄く恥ずかしい」

「我慢してくれ。こういう所の方が案外怪しまれなくてすむ」

「私はいいの。でも……武田さん、気の毒だと思って」

「仕方ない」

 と、僕は苦笑した。

 二人は二百四号室の鍵を開けて中へ入った。

「わあ、大きなベッド」

 と、犬子が声を上げる。

 とにかく、部屋のほとんどの空間を、ベッドが占めていると言っても良かった。

 二人は、巨大なベッドの両端に腰をおろし、しばらくぼうっとしていたが、犬子が服を脱ぎ出したので、僕はヌードデッサンにとりかかった。

そして、少しゆっくりしてからホテルを出た。

「それらしい男は乗っていません」

 と、警察官がパトカーの無線機で連絡している。

「ちゃんと見たのか?」

 と、不機嫌そうな声が聞こえる。

「見ました。二十代の女というのは見当たりません。何ならもう一回見ますか?」

 と、警察官は言った。

「もういい。戻って来い。もう一度確認する。別の列車かもしれない」

「了解」

 無線機を切って、警察官は仲間に、

「大方、列車を間違えてるのさ。お偉いさんはいいよ。間違えたって、俺たちに一言だって謝らなくていい」

「そうだよな。現場で何かトラブルが起これば、文句言われるのは俺たちだ」

 ぶつぶつ言いながら、二人の警察官は列車が動き出すのを見送って、

「さあ、引き上げようぜ」

 と、パトカーに乗り込んだ。

 パトカーが道の悪いのを嘆くように、「ガタガタ」と揺れながら走り去る。

「……やれやれ。もう大丈夫。行っちゃったね」

 僕たちは立ち上がった。

「二十代の女って言ってたね?」

「確かにそう聞こえた」

「やはり、そうだったんだ」

 もし、本当に捜していたとしたら、きっと死体が見つかったからだ。

「あれ?ここだったよね」

 と、僕は足を止めた。

「ええ、確かにここよ。どこに行ったのかしら?」

 犬子も見回した。

「じゃ、目を覚ましたのかもしれない」

「そうとしか思えないな」

 ……武田と犬子は、荷物はベンチの裏に隠し、泥酔者を公園のベンチに置いてホテルへ向かった。夜の公園は人の通る心配もなさそうだと判断したのである。

「でも、一人でどこかに行く?」

「荷物はある」

 ベンチの裏に回って、僕は言った。

「あれ?何か書いてあるよ」

「え?」

 荷物の上に、折りたたんだ紙が、小石をのせて置いてあったのだ。

「手紙かな」

「読んで」

「ここじゃ暗い。……街灯の下へ行こう」

 二人は、心細い光を投げている街灯の所へ行って、その手紙を読んだ。

「走り書きだな。ええと……」

 手帳についている鉛筆で書いたのだろう。紙も手帳の白いページを破り取ったものらしかった。

『武田さん、犬子ちゃん。

 お二人にご迷惑をかけてすみません。

 この公園へ運んで来られる途中で目が覚めました。けれども、武田さんにおぶってもらっている幸せに、つい寝ているふりをしてしまったのです。

 ごめんなさいね。

 それより、お二人の話を聞いて、もう私が夫を殺して逃げているのもご存知だと知りました。あんな恐ろしい罪を犯して逃げている私を、それを知りながら置いても来ずに連れて来てくれる。

 お二人の優しさに、涙がにじみました。

 でも、これ以上私がご一緒しては、お二人も捕まってしまう。

 お礼も言わずに別れるのは辛いのですが、私のことは一切知らない、ということにしてください。私の荷物はここに置いて行ってください。もう使うこともありませんから。

 逃げ回っても、ほんの数日のこと。捕まって刑務所に行くよりは、私は自分で自分の命を絶つ決心をしました。

 夫との悪夢のような日々、この世には私を大切にしてくれる人などいないのだと思っていましたが、人生の最後に、武田さんと犬子ちゃんという素晴らしい人に出会えたことを、心からありがたいと思っています。

 お世話になりました。

 武田さん、早く自分の夢を叶えてくださいね。

 犬子ちゃん、今の暮らしから逃げたい一心で、よく知らない男と結婚したりしないようにね。誤った結婚で、人生の一番いい時期を無駄にするのはもったいないことよ。

 それでは、もう一度お二人のご親切に心から感謝します。

 お元気で。さようなら』

 ……二人とも、しばらく言葉が出なかった。

「こんなことって……」

 と、犬子が呟く。

「これが遺書か……」

 犬子がウウっと声を上げると、両方の目からポロポロと大粒の涙をこぼした。

「私が……私があんなひどいことを言ったからだわ!」

「犬子ちゃん……」

「あの人を邪魔にするようなことを言って。それが伝わったんだわ」

「そんなことないよ」

「私があの人を死なせたんだわ!」

 犬子はワーワー声を上げて泣き出した。

「犬子ちゃん。……泣かないで。君のせいなんかじゃないよ」

 と、僕は慰めた。

「私のせいだわ!私も死んでお詫びを……」

「馬鹿言っちゃいけない!」

 ……しばらく二人は茫然と立ち尽くすしかなかった。

 ふと人の気配に振り向くと……。

「恵さん!」

 恵当人が、そこに面食らったように立っていたのだ。

「あれ……。もう、読んじゃったのか、それ?僕、出て行く前にそこのトイレに行ってたんんです。……あと5分遅くに来てくれたら感動的なシチュエーションだったのに……」

 犬子が孝に駆け寄って、

「恵さん!死んじゃ駄目です!刑務所に行ったって、残りの人生が何十年もあるじゃないですか!正当防衛だったんでしょ?そんなに重い罪にはならないはず!」

 と、しがみついた。

「犬子ちゃん……」

「……そうですよ。ホテルの部屋を取ったから、今夜一晩、ゆっくり休んで、明日警察へ行くといいと思います。よろしければ一緒に行きますよ」

 と、僕は言った。

「それは駄目でしょう。あなたも、何日も足止めされてしまう。……ありがとう。でも、あなたの言う通りかもしれないな」

「じゃ、ホテルへ行きましょ!荷物、運びます!」

 と、犬子は涙を拭いて張り切りながら言った。

 どういうわけか、断崖絶壁のふちにぶら下がっていた。

「頑張って!今!助けに行くわよ!」

 と、張り切った声は、どこかで聞いたことがあった。

「早くしてくれ!……助けてくれ!」

 と、崖っぷちからぶら下がっている僕は必死で叫ぶ。

「少し待って。こんなんじゃ、恥ずかしいわ。TVに出たとき、みっともないから!」

 その女性は……犬子だった。

「早くして……。助けてくれ!」

 僕の指先が限界に来ていた。

「あーっ!」

 と、叫んで僕は落ちた。

 落ちて、落ちて……。

「ワッ!」

 と、僕は起き上がった。

「ああ……。そうか」

 僕は、額の汗を拭った。

「……どうかしました?」

 と聞いたのは、冴島恵だった。

 僕と犬子はベッドで寝ていたが、恵はベッドのすぐわきに毛布を敷いて眠っていた。

「いや、ひどい夢を見て……。替わってください。やっぱり僕がそこで寝ます」

 と、僕は言った。

「でも……」

「いや、崖から落ちる夢だったんです。あれは予知夢に違いない。ベッドから落ちる前に、下で寝ます」

「わかりました」

 と、恵は言った。

「……初めからこうすれば良かった」

 ベッドの脇の、ほとんど「隙間」と言った方がいい狭い場所。しかし、寝てしまうとそれなりに落ち着く。

 スーッ、スーッという健康的な寝息は、犬子のものだった。

「……若いっていいなあ」

 ベッドの上から、恵の声がした。

「全く……」

「こんな風に眠ることなんて、もう一生ないんだろうな。刑務所のベッドって固いのだろうか」

 と、恵は言った。

「さあ……」

「ごめんなさい。武田さんがそんなこと、知ってるわけもないよね」

「もう眠った方が……」

「ええ、寝ます。おやすみなさい」

 と、恵は言った。

「おやすみ……」

 正直、僕は眠くてたまらなかったのである。たとえ留置場だろうが、アッという間に眠っただろう。

 そして……ぐっすりと寝入っていた僕は、いやにギュウギュウ押さえつけられる感じがして目が覚めた。

 ん?……何だ?

 トロンとした目を開けると……。

「あの……」

 恵が、寄り添って寝ている。……ただでさえ一人寝てやっとという隙間である。恵の体は、ほぼ半分近く、僕の上に重なっていた……。

「ベッドで寝て下さい!」

 と言うと、

「寝てられないんです」

「でも、ここにいたって、同じことでしょう!」

「だって……。見て下さい、起きて」

 僕は、恵が体を横向きにすると、何とか起き上がれた。そしてベッドの上を見ると……。

「なるほど」

 大きなベッドなのだが、そこ一杯に犬子が手足を広げ、ほぼ一人占め状態で寝ているのである。

「ね?こんなに気持ち良さそうに眠っているのを起こせないじゃありませんか」

 と、恵は言った。

「そうですね……」

 と言って、このまま恵と重なって眠れというのか?

「わかりました」

 僕は大欠伸をした。そして、よっこらしょ、と立ち上がった。

「……どうするんですか?」

 と、恵が聞いた。

「そこの椅子に座って寝ます。大丈夫。どこでだって眠れますよ。若い頃は、よく残業しながら居眠りしたもんです」

「でも、それじゃ……」

「いいから。……僕はいいんです。男なんですから」

「武田さん……」

「本当なら、廊下で寝てもいいんだが、ここじゃ無理でしょう」

 僕は、椅子に腰を下ろした。

 ソファなら、楽に眠れるのだが、何しろ大きなベッドが部屋の空間のほとんどを占め、しかも、三人の荷物も置いてあるので、普通の小さな椅子一つしかない。……椅子一つでどうしろと言うのだろう?

 腕時計を見ると、夜中の二時を少し回っている。……朝まではまだ長い。

 僕は目を閉じたが、やはり椅子に腰かけたままでは、そうたやすくは眠れない。

「……武田さん。もう眠りましたか?」

 と、恵が言った。

「ぐっすり寝てます」

……二人はちょっと笑った。

「仕事でもしてりゃ、すぐ眠れるのに」

「どうして、武田さんってそんなにいい方なの?」

 僕は目を開けて、

「言われつけないことを聞くと、びっくりして目が覚めますよ」

「ごめんなさい。でも……私、男なんてみんな野上のようなんだって思いました。だから別れようって考えなかったんです。……離婚するっていう道もあったのに。あの人を殺さなくても」

「しかし、それは……」

「ええ、あの人は決して許さなかったでしょう。気に入らない女房で、殴ったりけったりするくらいなら、追い出してくれればいいのに。……でも、あの人は私を手離そうとはしなかったでしょう。あの人は、自分を恐れて、従う女が必要だったんです」

 僕は肯いて、

「自分が強いと思い込むために、あなたを力で抑えつけたんでしょう。……いいですか、あなたのしたことは、一種の正当防衛だと僕は思います。ご主人を殺さなかったら、いつかあなたが殺されていたかもしれない」

「武田さん……」

「罪は償わなくちゃならないでしょう。でも、今は、あなたのような女性のことも、よく知られて来てる。きっと、重い刑になりませんよ」

「あなたにそう言っていただくと……。いけませんね。泣かないで、毅然としていないと」

 恵は涙ぐんだ。

「そうですよ。僕も犬子ちゃんも、あなたの味方だ」

 恵は手の甲で涙を拭うと、

「とっても勇気が出ました」

 と言って微笑んだ。

「それは良かった。これで安心して眠れますね」

 と、僕は言った。

 恵は少しの間黙っていたが、

「武田さん」

 と、立ち上がって、僕の方へやって来た。

「どうしました?」

「私に……下さい。思い出を下さい」

 と、目を伏せた

「……思い出?」

「それを心に抱いて、思い出して、自分を励ましながら、頑張りますわ。いくらあの人がひどい夫でも、人の命を奪ったんですから、その重さはわかっているつもりです」

「奥さん……いや、恵さん」

「お願い。一度だけ。私を力づけるつもりで、私に勇気を下さい」

 恵が僕の手を取って立たせると、唇を押し当てた。

「しかし……犬子ちゃんが……」

「あんなに良く眠っているんですもの。大丈夫ですわ」

 手を引かれて、あの狭い隙間へ連れていかれる。恵は、毛布の上に仰向けに寝ると、

「あなたには、毎日お詫びの言葉を述べますわ、寝る前に」

 僕も、これ以上拒むことはできなかった。……心苦しくないわけではなかったが、これを生涯の秘密にして生きていこうと思った。

「狭すぎませんか?」

「狭い方がいいわ」

 恵は僕をかき抱いた……。

 ……ぐっすり眠ってる?冗談じゃないわ!

 犬子は、ベッドのすぐ下で、恵が僕に抱かれているのを、じっと耳を澄まして聞いていた。

 止める気にはなれない。恵の気持ちを考えたら……。今は、何も気付かないふりをするしかない。

 でも、犬子だってもう十六。自分からたった一、二メートルの所で、しかもずっと憧れて来た僕が他の女性を抱いているのを知って、心穏やかでいられるわけはない。

 聞かないように、聞かないように、と自分に言い聞かせると、逆に恵の微かな声のかけら、息遣いの一つまでが耳に入って来てしまうのだ。

 それは、たぶんほんの十分かそこいらのことでしかなかったろう。

 でも、じっと寝たふりをしている犬子には、とんでもなく長く感じられた。

 二人の長くて深いため息が聞こえ、犬子はやっと自分の「受難」が終わったことを知った……。

「……ありがとう。私、男の人っていいもんだと初めて思ったわ」

 と、恵が言うのが聞こえた。

 それを聞いて、犬子の胸は熱くなった。

 ……これで良かったんだ。

「犬子ちゃんは……」

 と、僕の言うことが耳に入って、犬子は慌てて深い寝息を立てた。

「大丈夫。ぐっす寝てる」

「恨まれそうだわ、犬子ちゃんに……。でも、勘弁してもらわないと。私が刑務所に入っている間、犬子ちゃんはあなたに会えるんですものね」

 と、恵は言った。

「あの子も、十七、八になれば、もう僕のことなんか見向きもしなくなる」

「いいえ、きっとそんなことないわ。こんなに素敵な人のこと、忘れるなんて」

 僕は立ち上がると、

「恵さん、僕からもお願いがあります……」

「何?改まって」

「恵さんに、あの、その……ヌードデッサンになってもらいたくて……」

「え?……なるほど、そうでしたね。武田さんは絵描き志望でしたね。あなたとは……今しがたセックスをした仲よ。お安い御用よ」

 そのまま僕は恵のヌードデッサンにとりかかった。すでに恵は裸の状態だったので、作業に移しやすかった。

 ふっくらとした形の良い鳩胸を描き終えようとしたところ、恵がうとうとし出したので、

「疲れてますか?もう、眠った方がいいのでは?」

 と、声をかけた。

「ええ。そうね。今夜はぐっすり眠れそうな気がする……おやすみなさい」

 と、恵が言ったが、僕は返事をせず、あの小さな椅子に戻って、腰を下ろした。

 犬子が薄目を開けて見ると、僕は半ば口を開け、もう眠り込んでいる。

「もう寝たの?アッという間ね。私、寝つきが悪いんで、羨ましいわ……」

 と、恵は言った。

 少しして、軽いいびきが聞こえて来た。

 犬子がベッドの端から覗くと、恵も少し口を開けて、眠り込んでいる。

「……お疲れ様」

 と、呟くと、犬子は仰向けになって、暗い天井を見上げた。

 いやだわ。……ちっとも眠くなくなっちゃったじゃないの!

 犬子は口をへの字に結んで、じっと天井を睨みつけていた……。

「おはよう」

 と、犬子は言った。

 目を覚ました僕は、バスタオルを体に巻いた犬子を見て、

「や、おはよう……」

「もう九時だよ。起きた方がいいんじゃない?」

「うん、もちろん……。いてて……」

 椅子に腰を下ろして眠っていたので、首が痛いのである。

 バスルームでシャワーの音がする。

「あれ、恵さんか」

「うん。私と入れ替わりでね。武田さんも、汗流した方がいいんじゃない?」

 僕はギクリとしたが、

「別に……今は涼しいじゃないか」

「それはそうだけど。……あ!」

 タオルがハラリと落ちる。僕は目を丸くしたが……犬子はちゃんと下着をつけていた。

「へへ、びっくりした?」

「わざとやったな!ともかく、早くちゃんと服を着てくれ」

 と、僕は苦笑しながら言った。

「はいはい」

 ……僕は、立ち上がって、首を回したり、肩を叩いてみたりした。

 その内、恵がバスルームから出て来た。

「おはよう」

 と、僕を見て笑みを浮かべた。

 恵は、きちんと化粧もして、すっかり落ち着いた美しさを感じさせた。

「じゃ、僕も顔を洗います」

「ええ。私、荷物をまとめておきます」

 ……まるで修学旅行の学生たちのような、和やかさだった。

「犬子ちゃん、よく眠れた?」

「ええ。こんなによく眠ったのなんて、何年ぶりだろう」

 恵は、自分の荷物を開けて、化粧品などをしまうと、

「……お世話になったわね」

 と、犬子の手を握った。

「恵さん……」

「私のこと、忘れないでね」

「忘れませんよ、絶対」

 と、犬子は言って、固く恵の手を握った。

「じゃ、ここで、もう……色々ありがとうございました」

 と、恵は言って、僕に向かって頭を下げた。

「いや……」

 僕は、通りの反対側の警察署へ目をやった。

「一緒に行こうか?」

「いいえ……。一人で行きます。そうでなくちゃ、自分が許せませんもの」

 と、恵はきっぱり首を振った。

「わかりました」

「私はずっと一人だったと言い張りますから。お二人もそのつもりでね」

「ええ。……でも手紙、書いてもいいでしょ?」

「待ってるわ」

 恵は、犬子と抱き合った。

 犬子が恵の耳元に何か囁くと、恵は真っ赤になって、コツンと犬子の頭を叩いた。

「あ、痛!」

「それじゃ」

 恵は自分の荷物を手に、アッサリと言うと、通りを渡って、制服の警官が両脇に立っている玄関から、署の中へと入って行った。

「……今、何を言ったんだ?」

「別に。気にしないで。さ、早く行こうよ!いざ、東京へ!」

 と、犬子は言った。

「引張るなよ!」

 ……犬子は、恵の耳に、

「武田さんより、私の方が抱き心地がいいでしょ?」

 と言ったのである。

「駅までタクシーで行く?」

「そうするか。……駅まで」

 と、運転手に言うと、

「駅、いいのかい?」 

「どうして?」

「そこを曲りゃ、すぐだよ。歩いて五分」

「……やめます。すみません」

 二人は歩くことにした。

「東京には明日着く?」

「何もなけりゃね」

 と、僕は言った。

 ……冴島恵は一人で自首したようだ。

 でも、僕は大神犬子と一緒だった。

 十六歳の女の子が相手では、僕は捕まってしまう……。

 そのころ、方々の駅やバス停などで、「逃亡殺人犯」を貼り込んでいた刑事たちのもとへ、冴島恵が自首して出たという連絡が回っていた。

 僕と犬子のことは、もう忘れられていたのである。

 ……幸運なのか、不幸なのか。

「後はこの山を越えればいいんだ」

 と、僕は言った。

「山を越えたら東京?」

 と、犬子が聞く。

「そうはいかないけど……。山を越えたら、後はまた列車で、三時間。……湖を船で渡るって手もあるが、大分余計に時間がかかるんだ」

 と、僕は苦笑しながら言った。

「じゃ、バスを待った方がいいね」

 僕と二人になって、犬子はすっかり元気である。列車に何時間か揺られて、小さな駅で降りていた。

「時刻表……と」

 僕は、バス停の、昔懐かしいデザインの標識に取り付けられたプレートを見た。

「何分に来るの?」

「文字がほとんど消えてて……。今、三時だろ。一つ、数字が書いてある。少なくとも、一時間以内に一本はあるってことだ」

「じゃ、ベンチに座って待ってよう」

「そうだな。もし乗り損なったら、また一時間……いや、二時間待つかもしれない」

「二人揃って居眠りでもしなきゃ大丈夫だよよね」

「もう、東京へは永久に着かないのかもしれないな」

 と、僕が言った。

「やめてよ」

 犬子が僕をつついた。

「いや、ごめん、ごめん。」

「わかってるけど……。でも、なんとなく……そんな気配がして……」

「まあ、そうだな。すまん。……僕みたいな大人がグチをこぼしたりして、だめだな、全く」

 僕は頭をかいた。

「そんなことないわ。早く東京へ帰りたいのよね。わかってるわ」

「犬子ちゃん……」

「私は、却ってこれで武田さんとまたいられるから嬉しいくらい」

 僕は笑って、

「君は元気だね」

 と言った。

 ……今、二人はバスから降りて、林の中に立っていた。

 バスの中は小さな明かりが点いているので、バスの周囲も、窓から洩れた光で、いくらか明るい。しかし、ほんの何メートルか行くと、真っ暗である。

 山の中では、携帯が使えない。

 犬子がクシャミをした。……やはり山の中、空気が冷たい。

「犬子ちゃん……東京へ行って、何するの?」

「あのね、まずは、原宿に行って、東京タワーに上って……」

「……。犬子ちゃん……僕たちの旅もこれで終わりにしよう……」

「…………」

「薄々と感じていたはずだろ。こんな旅はどこかで終わらせないといけないことを……」

「そうね……。その方が……いいのかもしれない……」

 山を抜けると、ローカルの小さな無人駅が見えてきた。

「ここが終着駅……」

「今までありがとう」

「こちらこそ今までありがとう。一生忘れません。武田さん、お元気で」

 そのまま二人は別れた……。

 ……帰ろう。僕の家、僕の町へ。大都会の真中で、我が家は果てしなく遠く感じられた……。(了)


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