紛争
# 紛争
眠れない。次々と考えが、思考が、妄想が渦を巻く。「夜とは何か」「眠るとは何か」「そういえば別れた彼女は何をしているだろうか」「こんな課題があったな」「単位は足りるのか」「留年しないだろうか」
そんなことばかり頭に浮かんでくる。寝ようとすると眠れないので寝ようと思わず、別のことをしたらよいらしい。そんな話を聞いたことがある。
「またそうやって逃げるのか」と、頭の中の冷静な声が言う。
「いや、これは積極的な対処だ」と、別の声が反論する。
とりあえず煙草を一本手に取り、ヴェランダに出て火をつける。ヴェランダからは建物が影となった飲み屋街の明かりが見える。秋風が強くなかなか火がつかない。
「タバコなんか吸って。健康のことを考えろよ」と、内なる声が叱責する。
「いいじゃないか、たまには。ストレス解消だって大切だぞ」と、もう一つの声が擁護する。
隣人は未だにエアコンをつけているようだ。この室外機の音も不眠の原因だったことを思い出し、少々苛立つ。
やっと火のついた煙草をふかしていると、別れた彼女のことを思い出す。華奢で、長く細い髪、少し細い目に、エロティックを感じるほどの妖美な唇。
「またそんなことを考えているのか。もう終わったことだろう」と、理性的な声がたしなめる。
「でも、忘れられないんだ。あの時間は確かに存在した」と、感情的な声が応える。
こんなこと思い出しても意味はない。もはや他人で連絡すら取ってない。頬にあたる少し冷たい風をワンルームの小さなヴェランダで独りで感じる。
そうしているうちに、少しずつ眠気を感じてくる。煙草をコンクリートの床でもみ消し、空き缶に入れる。遠くからは呑気な雑音が聞こえてくる。
「早く寝ろよ。明日の講義、大事だぞ」と、責任感のある声が催促する。
「いや、もう少しこの時間を楽しもう」と、自由を求める声が誘う。
こんなことを思って傷心にふけっている自分を痛いと感じつつも、明日のためにベッドに横になる。枕元に置いている「吾輩は猫である」を手に取り仰向けになりながら読む。できる限り現実の思考から遠ざかりたいのだ。
猫、猫と言えば彼女は猫のような人だった。いや、今はこんなこと考えても寝られなくなるだけだ。
「お前はいつまでも過去にとらわれているな」と、冷徹な声が指摘する。
「でも、それが自分なんだ。受け入れるしかない」と、受容的な声が諭す。
そういう紛争を頭の中で繰り広げる。文語体は全く頭に入ってこない。
争いが終わる前に、本を読むのをやめて消灯した。真っ暗な中、頭の中の対立する二者の間に悪い第三者が現れる。
「どうせ眠れないんだ、さんざん考えて悩んでしまえ」
こいつは悪である。圧倒的悪である。
「そうだ、もっと苦しめ」と、自虐的な声が同意する。
「いや、それは違う。自分を大切にしろ」と、優しい声が諭す。
私にも生活があるのだ。明日は一限から民法を受けねばならない。そういえば、例の彼女とやらとは刑法の講義で出会ったのだったな。
訳の分からない第四者が出てくる。ああ、五月蠅い。五月蠅くてたまらない。
こうなったら最終手段である。できる限り使いたくなかったが、それしかあるまい。私は、ゆっくりと起き上がり薄手の長袖を着て携帯と財布を持つ。
「また逃げるのか」と、批判的な声が呟く。
「いや、これは自分との向き合い方なんだ」と、肯定的な声が応える。
それらを乱暴にポケットに押し込み、重い金属製のドアを開けて繁華街の方へ歩いていく。
酒は飲めないが、散歩程度にはいい場所だ。騒音と酔っ払い。艶やかな男女。それらを見ながら頭の中の停戦を呼びかけるのは効果的だ。
だが、この日は出ない方がよかった。よっぽどか静かに文語体で話す猫を読む方がよかった。男女の中に彼女を見つけるとは。
「ほら見ろ、現実から逃げられないんだ」と、皮肉な声が笑う。
「いや、これも人生の一部。受け入れるんだ」と、達観した声が諭す。
そして私は、自分の中の多様な声に耳を傾けながら、夜の街を歩き続けるのだった。不思議と声は五月蝿くない。




