第八十七話 他の何にも代えがたい事柄
中央都市ゲンマ――
その名称の通り、テラ・メリタ共和国の中央部に位置する、四大都市でもっとも人口の大きな都市。建国当初から在る二つの鉱山、ミネラ鉱山、フォディナ鉱山からは永続的に霊銀が算出し続けており、その恩恵はこの街の住民のみならず、テラ・メリタという国全域に影響を及ぼしている。
ウェルサス・ポプリ音楽団は西方のサクスムの街を離れ、数日の旅路を経て、その新たな街へとたどり着いた。
「お待ちしておりました。リラ殿と、ウェルサス・ポプリ音楽団の皆さまですね」
一行は、どうやらナトゥラが既に手配してくれていたらしい、居心地のよさそうな一軒家へと案内された。
「いわゆるお宿、じゃないのね」
「旦那様から、いろいろと融通が利く物件の方がよいだろうと仰せつかっておりましたので。一通りのものは用意してございますが、他に入り用なものがあれば正面の商店にお申し付けください。周辺の店は一通りオーウォ商会のものでございます」
それでは、と言って、使いの者は立ち去っていった。
ふー、と長い息を吐いてベルムが口を開く。
「さすがは若旦那だぜ。至れり尽くせり、色々とよく気が利くこった。それにこの家、俺とモディの家よりも二周りはでかいぜ」
「恥ずかしいから、いちいち言わなくていいわよ、そんなこと……」
モディが荷物を置いて、スッとその場を離れる。
「モディさん?」
「ん、ちょっと用足し……」
疲れたような足取りで歩いて行ったモディを横目に、アルとベルムが今後の動き方について話をスタートさせた。
ふたりの話に耳を傾けながらも、リラはモディの様子が気になっていた。
一緒に食事をとり、彼女が色々なことを教えてくれたときにも気になっていたが、明らかに食事の量が減っているのだ。それはサクスムの街を出て、このゲンマの街に向かっている旅路でも同様だった。
どこか、具合が悪いのではないだろうか。
公演が無くても歌うようにしているから、瘴疽に罹っているということはないはずなのだが。
「どうかしたか、リラ?」
「いえ、その……ちょっと、モディさんの様子を見てきます」
「私も」
ああ、と言いながら首を傾げるアルとベルムを置いて、リラとトリステスがモディの後を追う。
手洗いの扉は半開きになっていた。
「モディさん?」
リラが取っ手を掴み、扉を引くと、中でモディが膝をついて便器を抱えていた。
「モディさんっ!?」
すぐ横にしゃがみ、モディの顔を見る。
真っ青だ。
「どうしたんですか、怪我ですか。それとも、何か病気――」
「ううん、違うの。そうじゃなくて――」
「モディ、貴女、まさか……」
トリステスがハッとした表情で口元に手を当てる。その直後、リラも閃きを覚える。
「モディさん、もしかして――」
胡桃色の髪を小さく揺らして、モディが頷く。
左手は体を支え、右手は腹部を優しくさすっている。
「授かった、かな」
歓喜の驚きが沸き立つ。
「おめでとうございますっ、モディさん!」
「どうしてもっと早く言わなかったの。サクスムからの道のりだって、かなり苦しかったでしょう」
「いや~、もしかしたらそうかもなぁ、って思いながらも確証がなくってさ。なにせ、初めての経験なわけで。ただ、月のものも止まってるから、多分間違いないと思う」
白い顔をして笑うモディに、リラは苦笑した。
「それで、ここ最近、あまり物を食べられなかったんですね。人によっては、妊娠するとまるで食べられなくなるって聞いたことがあります」
「あたしはそのタイプみたい。食べ物も飲み物も、ぜんぜん口にしたいと思えなくって。特にお酒は見るのも嫌なくらいでさ」
「それじゃあ、お腹の子は父親に似なかったのね。安心と言えば安心だわ」
三人の笑い声を聞きつけて、アルとベルムも何事かと顔を出した。モディの体に起きた幸福な変化を聞いて、ベルムは声を上げて感涙を流し、アルも穏やかな笑顔で夫婦の愛を祝福した。
あらためてリビングに戻り、全員が座ると、すぐにアルが口を開いた。
「これから俺が言うことは、王子としての命令だ」
アルの赤い瞳が、モディ、そしてベルムを交互に見る。
「モディはこの家で待機。諜報活動、戦闘行為はもちろん、音楽団としての活動も一旦控えてもらう」
「ちょ、ちょっと――」
「モディ」
威厳を感じさせる声に射抜かれて、モディは口をつぐんだ。
「衰退の途を歩んでいる我がロクス・ソルスにおいて、新たな命の誕生は他の何にも代えがたい事柄だ。王家に血を連ねる者として、それをないがしろにすることは出来ない。分かるな?」
「……はい」
「ベルム」
「はっ、はい!」
「お前も、モディと同様、一時的に全活動への参加を禁止する。ロクス・ソルスに使いを出し、迎えが来るまでの間は、全身全霊をもって妻子の保護に当たれ」
「な、何を言うんですかい。俺が居たって、別に出来ることなんて――」
「ベルム!」
決して攻撃的ではない、しかし有無を言わせない声だった。
「傍に居る、ということをしろ。他に出来ることがないのではなく、ただそれのみをしろ。自分の体の中に新たな命が生まれ、身一つでそれを育まなければならないという重圧が、お前に分かるか?」
「……いえ」
「偉そうな口をきいたところで、俺にも分からん。それは、女性にしか分からないことだからな。だが、伴侶であるお前なら、そんなモディの重圧を、少しでも取り除いてやることが出来るかもしれん。だから、傍に居てやれ。いいな」
「……はい」
リラは素直に感動していた。
王族として、家臣の身を案じる姿。
男性として、母となる女性を貴ぶ姿。
アルという人間の本質が、今の会話に凝縮されているような気がした。




