第八十話 よりよい人生
「マジだるい……」
ステラ・ミラ聖王国の北方に位置し、すぐそこに小国ロクス・ソルスとの国境を臨む街ラムラの一角に、金鹿聖騎士団長ファルサの大きなため息が落ちた。
暖炉をごうごうと燃やしても、石壁からは外の冷気が伝わってくる。
インユリアの要求を受けて、瘴疽患者の多い街を遠征先にすべく手を回した。結果的に彼女の望みは叶ったわけだが、自分としては面白くない。まさか、これほどまでに気温の低い土地に足を運ぶことになるとは。
もっとも、瘴気は北から広がっているという俗説を思えば、瘴疽患者は北に集中しているというのは当たり前のことではあったのだが。
それでも、喜ばしいこともあった。
「そろそろ、顔出しくらいしとこうかしら」
ファルサは厚手の上着の上にさらに毛皮のコートを羽織り、さくさくと雪を踏んで領主の館に足を向けた。
ファルサが寝泊まりをしている場所と同様、冷たい石によって建設された大きな館には、多くの人が肩を寄せ合っている。
そのすべてがラムラの住人だというわけではない。
ステラ・ミラとロクス・ソルスとの国境ともなっている大地の裂け目にわだかまって久しい瘴気が、日々魔物を生み出し続けているせいで、周辺の人里はどこも致命的な打撃を受け、多くの難民をつくっているのだ。
物好きなラムラの領主は、自らの館を難民の保護のために開放し、自らはあばら家に移り住んでいるのだという。
ファルサにはまったく理解の出来ない行いだったが、瘴疽に侵された人間が一つ所に集まっているという状況は、金鹿聖騎士団としては都合が良かった。
「さぁ、みなさん。配られたものをお飲みになってください」
広間からインユリアの声が聞こえ、そちらへ向かう。
中には二十人ほどのみすぼらしい格好をした者達がおり、全員が木製のカップを大切そうに握り締めている。
「飲み干した方から順に、わたくしが浄化を施して差し上げます。さぁ、どうぞ」
言われた通り、液体を飲み干した者から立ち上がり、聖女の前に歩いていって跪く。そしてインユリアは、患部がどこなのかを聞き、指先で触れる。その光景は人数分繰り返された。
それが一段落すると、広間に残ったのはインユリアとファルサだけになった。浄化を受けた者達は広間を出てあてがわれた部屋へ戻り、騎士達は護衛役を二人だけ入り口に残して別の業務に当たっている。
「相も変わらず、よい手際ね」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
口元を歪めて笑うインユリアに、ファルサは鼻で笑って返した。
「まったく、其方の手際を見るたびに、前の『半聖女』の体たらくを思い出して腹が立つやら笑えてくるやら……いちいち長話はする、浄化に時間がかかる、癒せる人数は限られていると、今にして思えばよくもまあ、三年間もウチの忍耐力がもったと思うわ」
言いながら、ファルサは残された木のカップに視線を落とした。
「まさか、特殊な薬湯を飲ませることで浄化がしやすくなり、聖女への負担が軽減されるなんてね。初めて聞いたわ」
「知る者が少ないのは当然ですわ。わたくしは、これを人に知らせず、密かに行っていたのですから」
首を傾げるファルサに、インユリアは続ける。
「大聖堂の関係者は、みな、頭が固いのです。伝統的でないこのやり方は、彼らには到底受け入れられないでしょう。言うだけ無駄というものです。しかし、この方法で人々を救っていたがために、短い期間でより多くの浄化を施すことが出来ていたのは紛れもない事実なのです」
「ま、なんでもいいわ。この田舎に来てものの数日で、あんたは前例がないほど数多くの瘴疽患者を浄化させた。その功績は、確実にウチら金鹿聖騎士団の評価を高めることになる」
「もちろんでございます。ですが、重要なのは騎士団全体の評価が上がることではなく、その先、貴女様の序列が高まることでございましょう?」
まぁね、とファルサは笑う。
「さらに言えば、私の序列が上がることで、あんたという聖女の名も知れ渡っていくことが重要なんでしょ? 既にあんたがいくつかの貴族の家とコンタクトをとって、独自のコネクションを築いていることくらい、ウチにはお見通しだからね」
「フフ……決して、邪心があるわけではございませんわ。わたくしはただ、持って生まれた能力をもって、よりよい人生を送りたいと思っているだけ。そしてそれは、貴女様も同様でございましょう?」
ファルサが笑うと、インユリアも同じタイミングで、同じように笑った。
まったく、調子が合う者が傍らにいると、こうまでやりやすいものか。
この調子で業績を伸ばし、ストゥルティ家の名声を高められた暁には、彼女が貴族の仲間入りが出来るように取り計らってやってもいいかもしれない。聖女との婚姻を掲げれば、それに群がる貴族の子息などいくらでもいよう。
「そういえば、あんたが手配したっていう荷物、ウチのとこに届いてたわよ。確か、ペリスの街から」
「それは素晴らしい報せですわ。あの街の炭酸水を甘くしたものが、わたくしは大好物ですの。良ければご一緒にいかがです?」
「甘い物ですって? 悪くない趣味ね。ご相伴に預からせてもらおうかしら」
ファルサとインユリアは、肩を並べて館の上階へとあがっていった。




