第七十六話 伝えなければ
「今の時点でリラ殿とアル殿がどういった関係であったとしても、この気持ちが変わることはありませんよ。いつか、そう、貴女が何かで深く心を傷つけて、そこにアル殿がいないようなことがあれば、きっと私こそが貴女の心の隙間を埋める人間に成り得るでしょう。心の片隅に、私の存在を留めておいてください。では!」
それだけ言って、砂塵のように颯爽と出て行ったナトゥラを、ウェルサス・ポプリ音楽団の面々は呆然と見送った。
「なんつーか――」
「あそこまでやられると、あっぱれとして言えないわね」
「商人ならではの切り替えの早さってところねー。ひとつの失敗を引きずっちゃったら、次の商機を取り逃すもん」
リラは彼の言葉の別の部分に首を傾げていた。
「私が何かで心を深く傷つけて、アルさんがいないって、どういう意味なんでしょう?」
「……さてな」
「それもそうだけど、賭けって何よ?」
「ああ。彼が勝ったら俺が彼の言うことを聞く、俺が勝ったら俺達にあらゆる協力をする、という賭けだ。無事に勝ったから、何か頼みごとを考えてお願いするとしよう」
アルの言葉を聞いて、リラがまた首を傾げる。
「ナトゥラさんの言うことを聞く、ってどういうことですか?」
「まぁ、彼としては、俺にリラを諦めるように求めてきただろうな」
「じゃ、じゃあ、負けたら本当にそうしてたんですか!?」
「勝ったんだからいいだろう」
「し、信じられません! あれからまだ一週間も経っていないのに――」
「リラッ」
アルが顔を赤くし、続けてリラも顔を真っ赤にした。
それを見て、モディがおもむろに立ち上がる。
「あ~あ~、もう、こっぱずかしくて見てらんないわ。大市は夜更けまで続くみたいだから、二人きりで遊んでらっしゃいな。ついでに、お互いに言いたいことがあるならさっさと言っちゃいなさいね」
「ベルム、立てる?」
「おっしゃ……痛でででで!!」
慌てて手をかけようとするアルの手を、モディがそっと制した。
「旦那の面倒を見るのは妻の仕事。で、今夜のアルの仕事はリラちゃんと過ごすこと。いい?」
「あ、ああ」
ベルムはモディとトリステスのふたりに肩を借りて、相当歩きづらそうな様子で道を歩いて行った。人々はその姿を見て笑いながらも、彼の健闘を讃える拍手と声援とを送り続けていた。
「ベルムさん、大丈夫でしょうか」
「両手に花で、鼻を伸ばして歩いているさ」
アルがスッとリラの手を取り、きゅっと握る。
「迷子になるといけないからな」
「――はいっ」
大市の賑わいは通り一杯に広がっていて、広場から離れても喧騒は続いていた。
冗談のつもりが、本当にはぐれそうになりながら二人は人波にもまれ、いくつかの屋台で適当に食べるものを調達していく。
最後に小瓶に入った果実酒を二本買い、アルとリラは少し落ち着いた様子の、こじんまりとした公園に腰を下ろした。
ここまでの喧騒が嘘のように、そこには人影がひとつもなく、月明かりには二人だけが照らされていた。
ふーっ、と息をつきながら、二人同時に石造りのベンチに座る。
「たいへんな人ごみでしたね」
「まったくだ。旅商人と思しき顔も多かったから、この大市を目指してあちこちから集まってきているんだろう」
そう言って、アルがリラに小瓶を渡した。
リラはそれを受け取って、簡素な蓋を抜き、クピ、と少しだけ口に含んだ。爽やかな味が口に沁みる。
月と星の話をしながら、リラはアルがどこか上の空になっていることに気付いた。激しい戦いの後だから仕方ないのかもと思いながら、それとは少し違うようにも思え、あえて何も聞かずに口数を減らした。
リラがゆっくりと小瓶を呑み、半分ほど空けたところで、アルがリラの方に向き直った。
「……君に、伝えなければならないことが、ふたつあるんだ」
こく、と果実酒を飲み込みながら、同時に小さく頷く。
剣劇が始まる前、彼は何かを伝えようとしていた。慌ててそれを止めてしまったが、戦いが終わればこういう場面があるかもしれないという覚悟はしていた。
でも、一体何を伝えようというのだろう。
ふー、と細く長い息を吐いて、アルはベンチを下り、リラの前に片膝をついた。
「俺の本当の名は、アルドール=シレクス=ロクス=ソルスという」
「ロクス=ソルス――?」
きゅっと口を一度結んでから、再度言葉を紡ぐ。
「俺は、ロクス・ソルス王国における王位継承権第二位をもつ、第一王子だ。今まで身分を打ち明けることができずにここまで来てしまったことを、許して欲しい」
リラは何も言わず、ただ赤い髪の青年の深い瞳を見つめた。
「これを秘したままで、自分の気持ちを君に伝えるわけにはいかなかった。どうか、何も言わずに、もうひとつのことまで伝えさせて欲しい」
青年はまっすぐ、聖女のまなざしを受け止める。
そして、あらためて口を開いた。
「リラ。君を心から愛している」




