第七十話 目を閉じたら
「リラ」
「はっ、はいっ!?」
頭の中でモディの言葉がぐるぐると回っていたリラは、不意に声をかけられたせいで変な声を出してしまった。その声に、アルがクスッと笑う。
「宿に帰る前に、少し寄りたいところがあるんだが」
「は、はい」
店を出てすぐ、ふたりはどちらからともなく手を繋いでいた。腕を組んでいた時よりはずっとスムーズに歩き、背の高い木が林立している広場へと辿り着く。
「いい風……」
「ここで公演をするのもよさそうだろう?」
アルに促されて、リラはベンチに腰かけた。
「こうして木々に囲まれると、ロクス・ソルスを思い出すよ」
「珍しい植物がたくさんある国なんですよね」
こくりとアルは頷いた。
「テラ・メリタにも、ステラ・ミラにも、あるいはアクア・ヴィテにもないような草花がたくさんある。他国に知られているのは薬効のある草ばかりだが、美しい花も多いんだ。俺の表現力ではとても言い表せられないような彩りの花が、あの小国には咲き乱れている」
「素敵な国ですね」
「ああ。だが、それら草木が生い茂るがために、暗がりが生まれ、瘴気が満ちやすく、魔物が跋扈しやすいのだという説もある。その真偽は定かではないが、それを信じて国を離れる者もいる。いつか、あの国からは人が消えて、植物の楽園だけが残るのかもしれないな」
ふう、と息をつくアルの目は、当然ながら寂しげだった。
しかし、アルの口から祖国の話を聞いたのは初めてではないかと思うほど、珍しい気がした。
「祖国を失えば、俺は帰る家を失う。そうなれば、旅を棲家として一生を終えるようなことになる可能性だってあるだろう」
アルの視線が、隣に座るリラにまっすぐ向けられる。
「祖国を失い、俺がただの根無し草になったら、君の目に、俺はどう写るだろうか」
「どう、って――」
アルの目を見ると、適当にはぐらかしたり、曖昧に答えたりしてはいけないような気がした。
いくつかの言葉が浮かんでは瞬間的に消えた。
モディに言われたように、恋心を打ち明けるタイミングのようにも思われたが、そうではないような気もした。
どれくらいの時間を見つめ合ったか、リラはふと、アルが自分に何かの返答を求めているわけではないのだということに気付いた。
彼もまた、何か、言葉にならない何かをわだかまらせているのだ。
たくさんの言葉が浮かんでは消えて、しかし、それを声に出すと嘘のように思えてしまう。
確かなのは、気持ちの高鳴りだけに思えた。
「私の目に、アルさんは――」
深い赤色の瞳がまっすぐ向けられている。
鼓動が高鳴る。
リラは、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「アルさんは、アルさんです。私が目を開けていても、閉じていても」
言いながら、ゆっくり瞼を閉じる。
同じタイミングで、彼も瞼を閉じたのが見える。
次に訪れた感覚は、唇に触れた柔らかさだった。
「ね~、トリステス、お願いだってば~!」
「頼む、トリステス! 後生だっ!」
「駄目なものは駄目。気になるのは私だって同じよ。だけど、いくらなんでも、二人の様子を見に行くなんて、不敬が過ぎるわ。リラに対しても、殿下に対しても」
頑として聞かない青髪の美女に、夫婦は揃って口を尖らせた。
「旅に出てちょっとは柔軟になったかと思ったが、これだぜ。王女殿下付の氷の美女、ここにありだな」
「そんな呼び名もあったわね。でも、私としては、考え方は充分変わったと思うわ」
それは確かにね、とモディは頷いて続けた。
「こんな言い方したらなんだけど、二人の関係をはっきりさせない方がロクス・ソルスのためになるってことはあたしにだって分かってるのよね。ただ、あたしはリラちゃんが可愛いから、国よりも個人を優先しようとしてるだけで。でも、トリステスって、立場的には殿下のお目付け役なわけで、どっちかというと個人より国の利益を優先すべきなわけでしょ?」
「そうね。確かに、私が自分の感情に従ってリラのために行動するのは、本来的な務めではないと思う。でも、彼女を引き入れたときに殿下が言っていたでしょう。リラに関することはあくまでも、同時並行させる腹案だと。そちらがどうなったとしても、私達の元々のねらい、外交を有利にするための材料さえ手に入れられれば使命は果たせるわけだから……」
言いながら、トリステスは腕を組み、空を見上げた。
「だから、ふたりの成り行きがどうなったとしても、それを受け入れようとは思ってる。男女のことだから、第三者の私達がどうこうできるものでもないでしょう?」
「それはそれとして、気になるから覗きに行こうって話をしてるんであってよぅ」
「そうそう、トリステスだって気になるでしょ?」
「あぁ、もう! これじゃ堂々巡り――あっ」
トリステスの視線が空から地上に向けられた。
ベルムとモディもつられて視線を下に向けると、リラとアルが連れ立って歩いているのが見える。
その距離の近さを確かめて、三人は顔を見合わせて思わず笑みをこぼした。




