第七話 歌声に浄化の力
音がした方に向けられた視線の先、二階へと続く階段から姿を現したのはトリステスだった。
「リラは寝息を立てています。ぐっすり寝ているようです。もっとも、もう一度、先程のように興味深い話を大きな声でしていれば、目を覚ますかもしれませんが」
トリステスはほとんど足音を立てずに、三人が掛けていた卓へ腰を下ろした。
「その物言いでは、お前には聞こえていたようだな、トリステス」
「勿論です。階下の会話を盗み聞く程度のことが出来ない者に、王家の密偵は務まりません。ところでアルドール様。話の続きを聞く前にひとつ、お尋ねしたいことが」
「なんだ?」
「リラが広場に来た時点で、夕日は山の稜線にかかって暗く、既に聴衆が黒山をつくってもいました。そんな中で、遠巻きに居た彼女をどうやって見つけたのですか? 瘴疽を患っていた殿下が、通りがかった聖女に浄化を頼もうと考えたというのは分かります。ですが、位置的に爪の色はもちろん、衣服の類もろくに見えなかったはず。リラが聖女だという確信はどのように?」
トリステスの問いに、ベルムとモディの夫婦も「確かに」と頷いた。ところが、アルドールの方でも理由が明確でなかったらしく、赤毛の王子は小さく首を傾げた。
「うまく説明できないが、彼女を一目見て、意識を持っていかれた――という感じだったな。目が離せなかったんだ。そして、見ている内に純白のローブを着ているのに気付いて、彼女は聖女なのではないかと思い至った。そこからは、打算だ。合奏に誘い、その勢いで、あわよくば浄化を依頼できないかとな」
主君の説明を聞いて、ベルムとモディの二人が静かに視線を合わせた。そして、モディがすごすごと遠慮気味に口を開く。
「あの……殿下。最初の部分だけ聞くと、まるで殿下がリラちゃんに一目惚れした、みたいに聞こえるんですけど」
「モディ。俺も王家の人間だ。分別はついているつもりだぞ」
呆れたように鼻息を吐かれて、モディは「でもねぇ」とベルムともう一度目を合わせた。
広場から宿までの撤収の道中、夫婦が話題にしていたのはアルドールとリラのことだった。二人が背中合わせでリュートを引き、見つめ合って笑う姿は、まるで恋人同士のそれだった。冗談で「息ピッタリだったな」「お似合いだったわ」などと言っていた矢先、宴席で王子が勧誘を始めたものだから、夫婦はあれこれと勘繰らざるを得なかったのだ
トリステスが小さく咳払いをして、あらためて主君を見据える。
「余計なことを聞いてしまいましたね。あらためて、先のお話の続き――アルドール様のお考えを聞かせて頂けますか」
「ああ。重要なのは――」
翌朝、見慣れない天井を見上げて起きたリラは、たくさんの出来事が連続した昨日のことを順々に思い出した。そしてベッドから降り、窓際に立ってうーんと伸びをした。
アルの提案は、今の自分にとってこれ以上は望めないくらいのものだったと思えた。
寝食の心配はなくなるし、自分の聖女としての使命も果たせる。数少ない知己と離別することにはなってしまうが、それは優先されるべき事柄ではない。
今度こそ、と思う。
今度こそ、聖女としての使命を全うしたい。
よし、と気合を入れてリラは身支度を整え、階下へ降りた。
「おはよう、リラ」
「おはようさん」
「おはよ」
「おはよう」
あたたかい笑顔と心地よい挨拶。彼らの声は、ただ重なっただけなのにある種の音楽になっているように思えた。
「おはようございます、みなさん。昨日のお話なのですが――」
「話は後にして、まずは朝食にしないか」
アルに促されて、リラは昨日と同じように彼の隣に座った。
上等とは言えないパンと野菜くずのスープ、申し訳程度の果物を食べて、朝食の時間はあっという間に過ぎた。もっとも、話すのが得意とは言えないリラにとっては、たとえメニューが豪華だったとしても味など分からなかったかもしれない。
あらためて、リラは「んん」と小さく咳払いをした。それを見て、ベルムとモディの二人がにこにこと笑った。
「あっ、あの、昨日お話ししていただいた件なのですが」
「その前にひとつ聞きたい」
アルに遮られ、リラの緊張は最高潮に達した。一大決心をしたつもりだったのに、まさか、急に話が変わってしまったのだろうか。昨夜の話はお酒の勢いだっただけ、とか――
「君は、自分の歌声に浄化の力が宿っていることを知っていたか?」
「えっ?」
歌声に、浄化の力?
聞いたことがない。
自分がどうかということはもちろんだが、大聖堂の教えにも、古い伝承にも、蓄積された書物のどれにも、そんな内容は残されていない。
『銀の爪』は女性にしか発現せず、直接触れることでしか浄化はされず、浄化には必ず痛みが伴う。そして、浄化を行う度に『銀の爪』の光が失われる。一度につき、爪一枚。それらは一通り揺るぎのないことだったはずだ。
反動の痛みを軽減すること、あるいはなくすこと。聖女の負担を軽減すべくあらゆる研究が尽くされてきたが、功を奏したことはない。聖女自身に出来る範疇としては、心身を鍛えることで一度に浄化できる範囲を広げたり、浄化の威力を強めたり、爪の色が戻る速度を多少早めることがせいぜいだと言われてきた。
「やはり自覚はなかったか」
微笑んだアルは、自らが負っていた瘴疽について語った。
話を聞きながら、リラはまるで実感がないという表情に終始した。
浄化を行えば、小指から親指まで順に輝きが失せていく。本当に自分が浄化をしたというのなら、小指の爪の色が変わっているはずだ。だが、キラキラと銀色が輝いている。リラは懸命に鍛錬を重ねて回復速度を早めてきたとはいえ、さすがに一晩で全快はしない。