第三十八話 生半可な武器では
谷底に辿り着いたトリステスが目にしたのは、澄んだ空気に包まれた森だった。街で聞いた話では、瘴気が立ち込め、炭酸水のガスが噴出し、魔物が大量に跋扈している状況になっているはず、とのことだったが、これはどういうことだろうか。
耳を澄ませる。
先天的に聴力に恵まれた、というわけではない。
血の滲むような努力の果てに、強く集中すれば常人では考えられないほどの範囲で音を聞き分けられるようになったというだけだ。
鳥のさえずりが近い。
既に魔物の脅威が取り除かれた証左だ。
「ありがとうございます、聖女様」
聖女。
リラのことだろうか、それとも、彼女の旧知の仲ラエティティアという人物だろうか。
トリステスは藪に囲まれた道を駆けた。
「何者だっ――」
「トリステスさんっ!」
警戒して構えた聖騎士を抑えて、リラが笑顔でトリステスを迎えた。
「リラ。無事でよかった。心配したのよ」
「心配したのはリラのことだけか」
口元に笑みを浮かべた主君を見て、トリステスは呆れ顔を浮かべた。
「ええ、もちろん、貴方の心配もしているわ。まったく、立場も考えずにとんでもないことをして、ロクス・ソルスに帰ってから姉君にどれほどのお叱りを受けることになるか、本当に心配で仕方ない」
「リラ殿、こちらは?」
槍を下に向ける聖騎士に、リラはトリステスが旅の仲間であることを伝え、強力な戦士でもあることを教えた。そしてトリステスには、自分達が三手に分散してまずは魔物を討伐していることを伝える
「なるほど……であれば、私が来たのは良いタイミングだったわ」
トリステスは腰帯に括った革袋から、木製の瓶を取り出した。
「少量だけど、霊銀薬よ。これを希釈して、まずはこの一帯に撒くわ。そうすれば、後顧の憂いを断つことが出来るでしょう。私達三人がその処理をするから、貴方達は団長さんのところへ急いで。私達もすぐに追うから」
「かたじけない。では、我々はムスケル団長の所へ急ぐぞ!!」
臨時の頭目を務める聖騎士の号令で、一同は猛然と駆けて行った。
その背中を見送って、さて、とトリステスがリラを見る。
「さて、これで歌う準備が整ったわね」
「はい。察していただいて、ありがとうございます」
「彼らの前で歌って瘴気が霧消していくのを見られると面倒だものね。笛を持ってくればよかったわ」
リラの歌声が響く。五分ほど経つと、土の割れ目から見えていた瘴気の黒い靄は消え、塵一つ見えなくなった。
「お見事。地表の瘴気が既に消えているのは、もう既に一度、リラが歌ったからと見ていいかしら」
「はい。でも、さすがに地面の下の瘴気は近い距離じゃないと消せないみたいです」
「逆に言えば、地表全体には一度目の歌が効果を発揮していたと考えていいだろう。ムスケルやラエティティアの方も、魔物は弱体化し、瘴気もほとんど残っていないはず。俺達も行こう」
三人は平静を取り戻した湧き水のスポットを後にして、聖騎士達が進んだ道を進んだ。
残る箇所はひとつ。そこの瘴気を打ち消すことが出来れば、今回の魔物の大発生は解決する。リラはすぐそこに見える終わりを意識しながら、気を引き締め直す。
「せっかく新調した装備をお披露目できそうにはないな、トリステス」
「誰かさんが先走らなければ、その機会もあったはずなのにね」
「ご、ごめんなさい」
「ええ。リラもアルも、後でしっかり言い訳を聞かせてもらうわよ。ベルムとモディがそれを聞き入れてくれればいいけれど」
視界が開けた。
他の二地点よりも広い。奥の岩肌は全体が黒く染まり、染み出る水も黄色く濁っている。明らかに、三ヶ所の中で最も瘴気が濃い。
その真ん中ほどに、巨大な緑色の塊がある。六人ほどの聖騎士がそれを取り囲み、槍を構えて警戒を解いていない。
リラが周囲を見渡すと、団員の浄化をしているらしいラエティティアの姿を見つけた。
「ラエ!」
「リラ! ちょっと待ってね……つぅ…………はい、これでもう大丈夫。まだ疼く感じはするだろうけど、瘴気自体はなくなったよ」
「ありがとうございました、聖女様」
浄化を受けた聖騎士は、よろめきながら立ち上がり、槍を杖代わりにして部隊の後方に行った。
「手伝うよ」
「もう大丈夫。今の人で最後だったから」
「お疲れ様、ラエティティア嬢。それに、リラ嬢とアルちゃんに、こっちの美人ちゃんは――」
「トリステスです。二人の仲間です、お見知りおきを」
「ムスケル殿。ここには何が?」
アルの問いを受けて、ムスケルはあらためて巨大な緑色の塊に視線をやった。
「ドラゴンよ」
誰もが知る魔物の名だ。大蛇を意味する古い言葉を由来に持ち、これまでにいくつもの種類が確認されている。
翼を持つ個体、火を噴く個体、毒を撒き散らす個体、水を操作する個体など、様々な特徴を持つものがいるという。どれにも共通している性質は、極めて獰猛で、全身を覆う鱗が極めて固いことだ。
「どうやって倒した? ドラゴンの鱗、いわゆる竜鱗は生半可な武器ではまるで徹らないと言われているが」




