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第三十七話 今日ではない

「アルさん、目を合わせないで!」

「承知!」


 この怪物の名はうつむく者を意味し、その強大な力は瞳に備わっている。目を合わせれば、その眼光によって瘴気が送り込まれ、極めて重篤な瘴疽に侵されてしまうのだ。視線を分散させながら、挟撃するのが得策だ。

 左右に分かれて――とリラが言うより早く、アルが左に大きく跳んだ。空中で剣を振るい、魔物の注意を引きつける。

 リラもそれに合わせて怪物の下半身に駆け込み、強く踏み込みながら戦鎚メイスを力いっぱい振るった。骨も砕けよとばかりに渾身の力を込めたつもりだったが、ぶ厚い皮膚に跳ね返されて打撃は効果を成さなかった。


「つぅっ!」


 金属の板に戦鎚メイスを打ち付けたような感触に苦悶の声を上げると、魔物の後ろ脚が動くのが見えた。蹴り上げだ。リラは慌てて後ろにステップを踏み、距離をとる。黒鉄のような蹄が鼻先をかすめる。

 グブゥ、と鈍く重い声が魔物から漏れる。アルの斬撃が魔物の首を深く切り裂いていた。カトブレパスの硬く厚い皮膚ですら、アルの剣の一撃を防ぐには十分でないようだ。


「ブモォゥッ!!」


 痛みか怒りか、あるいはその両方か、カトブレパスが全身をよじらせて暴れまわる。

 近づけない――そう思ったのは、リラだけだったようだ。

 アルは暴れまわる魔物と一緒にステップを踏むかのように、無駄なく、なめらかに接近し、小刻みに皮膚を切り裂いていく。間合いをあけてその光景を見ているリラからは、なぜ彼が無傷でいられるのか理解できなかった。

 剣の舞は勢いを増し、次第に魔物の動きが小さく、そして弱くなり始めた。

 とどめは、頭部への痛烈な突きだった。ドッ、という音を最後に、剣は眉間から奥深くまで差し込まれ、カトブレパスはその名の如くぐったりとうなだれた。

 勇者――リラの頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。


「リラ」

「はっ、はい!」

「呼吸が整ったら、一曲頼む」


 リラはハッとして、周囲を見渡した。

 瘴気はいまだ渦を巻いていて、すぐにでも新たな魔物が誕生しかねない。たった今絶命した魔物ほどではなくても、面倒な相手が出てくる可能性はある。

 休んではいられない。他の部隊の救援だってある。


「いきます」


 そうは言ったものの、戦闘直後で気が立っていて、歌うべき歌が思いつかない。普段は街の広場で、明るい気持ちで、楽団のみんなと笑顔で歌っているのだから、当然と言えば当然だ。


「えっと……」

「今日ではない――苦難に膝を折る日が、やがて来る――」


 アルが小さな声で口ずさむ。

 労働者達が、労働者達のために歌い始めたという曲だ。農業、漁業、鉱業、あらゆる場所で歌詞が自由に変えられ、広く親しまれている。題名がないのに、おそらくもっとも知られている歌のひとつだ。弱音や愚痴をメロディに乗せて誰かが歌い、合いの手で「今日ではない」と高らかに歌う、あるいは叫ぶ。

 リラは頷き、アルに続いた。


「だが、今日ではない――道具を放り投げる日が、やがて来る――だが、今日ではない」


 走って、戦って、息が上がってはいるが、おかげで体は熱く、喉が開いていて、声の通りがいい。

 歌声はどんどんのびやかに広がって、峡谷に残響をつくりはじめた。

 このまま、全力で歌ってしまおう。

 うまくいけば谷底の瘴気を広範囲で打ち消すことが出来るし、聖騎士団の耳に届けば能力が強化されるかもしれない。そして、仮にそれらの希望が叶ったとしても、その結果と歌声との因果関係に気付く者はいないだろう。


「――だが、今日ではない!」


 目に見える範囲の瘴気は消え失せた。心なしか、空気の澱みも収まった。

 シュワァァ、と音を立てて、自然の岩井戸から炭酸水が湧き出ている。


「歌い終わりに、喉を潤していかなくていいか?」

「もう、そんな暇はないですよ、アルさん! 他の人達を助けに行かないと」

「了解だ、隊長殿」


 見晴らしの良くなった藪の道を、二人は颯爽と駆け始めた。




 ペリスの街を出てひた走る一人の影があった。

 青いポニーテールを靡かせて、疾風のようにワリスの谷へ向かう。


「谷の瘴気が晴れ始めている……?」


 トリステスは状況が刻一刻、いや、ほんの数分ごとに変化しているのを見ながら走っていた。

 街に残っていた騎士達から聞いた話では、桃熊聖騎士団が谷底へ瘴気の対処に向かったという。しかも、旅の剣士と聖女のふたりを引き連れて。

 そのふたりは、まず間違いなくアルドール王子とリラだろう。せめて一度宿に戻ってきて、自分やモディを連れて行ってくれればよかったのにと苛立ちが募る。

 街の状況を鑑みて、ベルムとモディは待機した。

 本来なら三人全員で主君の元へ駆け付けたかったが、空中から飛来する魔物の群れがそれを許さなかった。ある程度防衛にも戦力を割く必要があったため、そしてベルムは桃熊聖騎士団に接触させられないために、自分だけがこうして谷底へ救援に向かっている。

 どうか無事で――トリステスは既に魔物が骸を連ねている坂道を、風よりも速く走った。

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