第三十三話 足りない物
食堂には誰もおらず、リラは椅子をひとつ引いて腰かけた。
ケースを開き、リュートの首を見る。自分の目では分からないが、やはりあちこち痛んだりしているのだろうか。
ポロン、と二、三本、弦を爪弾く。調律は合わせていないが、取り立てて音がおかしいようには感じない。
「すまない、待たせてしまったか」
慌てた様子で階段を下りてきたアルはいつも通りだった。
だが、あらためて見ると、彼は毎日身だしなみを丁寧に整えているのだと分かる。ベルムは寝癖がついていることが多いし、昨日再会したムスケルも剃り残した髭が目立っていた。思い返すに、大聖堂に勤めていた僧兵らなども身だしなみには無頓着だったような気がする。
気品を感じさせる佇まいのまま、アルが首を傾げる。
「どうかしたか?」
「い、いえ。アルさんって、あらためて、品があるなぁ、と」
「品がある。俺が。リラにはそう見えているんだな。そうか。それはいいことだ」
顔をほころばせたアルに、今度はリラが首を傾げる。
「なんでもない。さぁ、行くとしよう」
朝というには遅い時間で、大通りは既に多くの人で賑わっていた。
いかにも商人風の出で立ちで大荷物を担いでいる者、甲冑を纏って剣を腰に提げている者、くたびれたドレスで足早な者。様々な人でひしめいている。
「今日は戦鎚を持ってきたんだな」
アルが口元に笑みを浮かべる。
「昨日のことは本当に反省しました。アルさんが来てくれなかったら、どうなっていたことかと――」
そこまで言って、リラはハッとしてアルを見上げた。
「そうだ。私、昨日のお礼をします。何か、贈り物をさせてください!」
「何を言ってるんだ、あんなのは当たり前のことで――」
「駄目です。最悪、命を失っていたかもしれないし、少なくともかどわかされていたのは間違いないと思いますし。もっとも、あまり値の張る物は差し上げられませんが」
ふむ、と言ってアルは顎に手を当てた。
「そうは言ってもな……」
リラの目は真剣そのものだ。
数ヶ月の時間を共有してきて分かったことは、この小柄な聖女は見た目に反して信じられないくらい頑固だということだ。やると言ったらやる。しかも、周りの了承などと考える暇もなく、勢いで動くことまである。
ラエティティアがしてくれた話のいくつかは、彼女のそういう気性を示してもいた。
ここで固辞しても彼女の気は済まず、いつまでも訴え続けてしまうのは目に見えている。
「分かった。何か、考えてみる。こういうのは気持ちの問題だというしな」
「はいっ!」
溌溂とした笑顔を向けられ、アルは思わず目を逸らしてしまった。
目を逸らさざるを得なかった理由を二つ、アルははっきり自覚していた。
ひとつは、彼女に対して事実を隠しているせいだ。そして彼女はそれを知る由もなく、僅かな疑念もなく、こうして笑顔で自分と接してくれる。それが心苦しいのだ。
もうひとつは、自分が彼女に惹かれているせいだ。ロクス・ソルス王家の第二子、長男として生まれた自分は、自由な恋愛など望むべくもない。頭では分かっているが、リラに対して尊敬の念とは違う、思慕の情を抱いているのも、無視できないレベルだった。
ベルムとモディに対して、それぞれに信頼と尊敬の念はあったが、二人の関係性に羨望が芽生え始めたのはいつ頃からだったろうか。あの二人のような距離感に、自分とリラがなっている夢想をしてしまう瞬間がある。
「アルさん」
「ん?」
「急な提案ですから、そんなに考え詰めないでください。お礼のはずが、悩ませてしまってごめんなさい」
「いや……それにしても、あらためて何か欲しいものはないか考えてみると、特段無いような気がしてきてな。足りない物はいくらでもあるんだろうが、足りている物に目を向けるように心がけているせいか、思い当たらない」
大通りにはたくさんの店がひしめき合っている。行商が行き交い、活気のある街だ。もしかしたら、求めて無い物はないのかもしれない。ロクス・ソルスとは大違いだ。
剣――は、名工グラディウスの剣がある。これ以上のものは大枚をはたいても難しいだろう。
鎧――は、旅の間は邪魔になる。それに、国に戻れば先祖代々の品もある。
楽器――は、木材加工に優れたロクス・ソルスの職人が特別に仕上げた特注品だ。これも除外。
これら以外で自分が必要とする物など、何かあるだろうか。
一応、古い民謡を集めているという設定にしてあるから、そんな楽譜が都合よく見つかればそれはありかもしれない。
考えている内に、アルは目当ての楽器店の前まで来てしまったことに気付いた。
「あぁ、ここだ」
「ここって……」
「そうだ。昨日、リラが例の男に引っ掛かった場所がすぐ向こうにある。何事かと眺めている内にどこかへ連れ立って行ったから、大丈夫かと遠巻きに後を尾けたというわけだ」
「それなら、すぐに声をかけてくれればよかったのに」
「そういうわけにもいかなかった」
アルは首を振る。
「初めに思ったのは、かつて恋仲にあった人物と再会したとか、一日限りの恋とか、何かしら男女の人情沙汰だったからな。もしもそうだったら、俺が出て行っては完全に邪魔者で出歯亀だろう?」
「そんなはずないじゃないですか。これでも一応、慎ましく清らかな聖女だったんですから」
「もしかして、聖女は恋愛禁止なのか? 婚姻も?」
「そういうわけではありませんけど――」
ゴォォォン――……
ずっと遠くで、聞き慣れない音が響いた気がした。




