第二十二話 尊敬の念
「内陸で生まれ育ったせいかな。正直、波の音を聞いていると落ち着かなくなる。臆病者の戯言だと笑ってくれていい」
自嘲気味に笑うアルは、昼間に見た勇壮な戦士の姿とは別の人物に見えた。それでも、むしろリラはその姿に好感を覚えていた。剣を振るっているときの勇敢なアルとも、リュートを奏でているときの凛々しいアルとも違う、どこか親しみを持てるような姿だった。
「そんな、臆病者だなんて……そんなことありません。今日の戦闘だって、アルさんが居なかったらどうなっていたか。適切な言い方じゃないかもしれませんけど、その……素敵でした」
アルは照れたように頬を掻き、手近にあった流木に腰を下ろした。ちょうど一人分のスペースが空いている。リラはどこか気恥ずかしさを覚えながら、その隣にちょこんと座った。
「リラに高く評価してもらえるのはありがたいが、実際のところ、俺が居なくてもベルム、モディ、トリステスの三人がいれば多頭蛇は倒せただろう。多少、時間はかかったかもしれないが」
だが、とアルは続ける。
「君の存在は別だ。君がいなければ、あの洞窟内の瘴気を消すことは出来なかった」
「……」
「しかし、君はそれを受け入れかねているように見える」
リラはハッとして横を見た。アルは穏やかに微笑をたたえていた。自分が不安に思っていた事柄を見抜かれて驚く一方で、内心を吐露してしまいたい衝動に駆られる。
戸惑いを覚えながらも、リラはアルにだったら話してもいいような気持ちになり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「……正直に言って、怖いんです。瘴気そのものを打ち払うことは、不可能だと言われています。霊銀薬を撒いたとしても、完全には消えません。長い歴史を記録している大聖堂で教わったことが、間違いだったとも思えない。それが、出来損ないの『半聖女』の私が歌っただけで、あんな風に霧消してしまうなんて……あり得ません。確かに目の前で起きたことですし、目の当たりにしたのは私だけじゃない。それでも、理解が追いつかないことが、なんだか怖くて――」
「火がなぜ熱いのか、知っているか?」
唐突な問いに、リラは首を横に振った。
「俺も知らない。そして、似たようなことが世界にはいくらでもある。風はなぜ巻くのか。水はなぜ上から下に流れるのか。草木はなぜ太陽に向かって伸びるのか。この世界の多くのことが、俺には分からないことばかりだ」
話がどこに向かっているのか分からないまま、リラはひとまず頷いた。少なくとも、今アルが口にした疑問に対する答えはリラも持ち合わせていなかった。
「そして、瘴気。人の歴史は瘴気との戦いの歴史だと言われるが、俺達は戦っている相手のことをろくに知らない。ろくに知らないのに、立ち向かわなくてはならないから仕方なく立ち向かっている。これも、考えてみれば妙な話だ」
リラは小さくこくりと頷く。
「君を前にして言うのもなんだが、聖女の存在や力についても謎は多い。なぜ『銀の爪』が女性にしか発現しないのか、大聖堂はその理由だって分かっていないんだろう?」
「……はい」
「詰まるところ、大聖堂だって絶対の存在じゃない。むしろ重要なのは、仔細が分かっているかどうかではなく、君が力を行使することで多くの人が救われるという事実、その結果の部分だと思う。少なくとも、俺は君の力を偉大なものだと思うし――」
そこまで言って、アルはふっと一度言葉を切り、それからあらためてリラを見た。
「君自身に、尊敬の念を抱いているよ」
言ってすぐアルは立ち上がり、着ていたジャケットを脱いでリラに羽織らせた。
「俺は先に戻る。疲れもあるだろうから、あまり体を冷やさないようにな」
「あ……」
お礼を言わなければ、とリラが振り向いたときには、既にアルは足早に去ってしまっていた。
君自身に尊敬の念を抱いている――ついさっき言われた言葉を反芻して、リラは顔が急に熱くなった。旅の仲間としての言葉で、異性としてのものなわけじゃない。必死にそう言い聞かせるが、海の風がぬるく感じるほどに顔が熱い。アルのぬくもりをジャケットに感じ、リラはそれをきゅっと握った。
「世話になったな、村長さん」
「いえ、こちらこそたくさんの助けを頂きました。カウム洞窟の脅威が除かれ、当分は平穏に暮らしていけるはずです。こちらは感謝のしるしと村民の気持ちですので、お持ちになってください」
ベルムは村長から羊皮紙と魚や貝の干した物を大事そうに受け取った。羊皮紙には感謝の言葉がつづられているのだろうことがリラにも分かった。善行の担保というやつだ。
一方、夫の口元からよだれが垂れかけているのをモディが鋭く見咎める。
「今度二日酔いになったらタダじゃ済まさないからね。アンタの酔い覚ましの為に出発が遅れたんだから。リラちゃんの歌の力があるからってバカみたいに飲みすぎなのよ」
「おぉ、怖ぇ怖ぇ。急ぐ旅でもねぇってのに、叩かれすぎて尻が割れてきちまうってもんだアダダダダダ」
夫婦の会話を聞いた村長が声を上げて笑った。
「聞いた所、ペリスの街に向かうとか。あそこで二日酔いを避けるのは、少々難しいかもしれませんぞ」
きょとんとしてリラが首をかしげると、隣のトリステスが少し身を屈めて耳打ちした。
「ペリスの街のすぐそばに、ワリスの谷という場所があるの。そこは天然の炭酸水が湧出していて、それを使った酒造が有名なのよ」
聖騎士団に所属していた頃、ペリスの街に滞在したことはあったのに、そんなことはまるで知らなかった。つくづく、大聖堂や聖騎士団という組織の中で聖女は隔離されて扱われていたのだと分かる。
十日ほど滞在した漁村を離れ、楽団は海を背に北西方向へと向かった。途中、小鬼との遭遇はあったものの、火の粉を軽く払うようにそれらを土に還し、数日ののちには一行は目的地に到着した。




