第百五十一話 難事の中にこそ
宴が進み、多くの者達に酔いが回った頃、アルの名前が口々に語られ始めた。
「この調子で、アルドール王子殿下に谷の瘴気を晴らしていただけないかな」
「そうだ、そうだ。我らが英雄王の剣で、闇を晴らしてもらおう」
「殿下のお話をお聞かせください!」
「お言葉を!」
高まった機運と、今後の方針を定めかねているらしい町長に背中を押され、アルは広場中央に立った。歓声と拍手が鳴り響いた後でほどなく、王子の言葉を聞くべく静寂が用意された。
「俺は、この一年、愛するロクス・ソルスを離れ、大陸を見て回ってきた」
叫んでいる風では決してないのに、アルの声は広場全体に、そしてその先の通りにまで響くように伝わっていった。
「旅の中で、聖女と出会い、霊銀を手に取った。聖騎士と肩を並べて竜に挑み、魔物狩りと協力して巨人に立ち向かった。書物の中でしか知らなかったことが、世界には溢れていた。そしてその経験の中でひとつ、はっきり分かったことがある」
一拍置いて、アルが続ける。
「この世界には、人間の力が及ばない領域が存在するということだ。ステラ・ミラの大聖堂は聖女の力に頼りながら掌握はしておらず、テラ・メリタは霊銀の光に頼みながら詳細は知らない。俺達が、すぐそこで巻き起こるテネブラエについて何も知らなかったのと同じように」
聴衆は、固唾を呑んで次の言葉を待っていた。
まるで一人一人の顔を確かめるようにアルは視線を動かしていき、そしてまた中空を見た。
「大地の裂け目にわだかまる瘴気を晴らすことが出来るかどうか。それは、俺には分からない。聖女の力、そして霊銀の力を用いれば、もしかしたら可能なのかもしれない」
だが、とアルはすぐに言葉を次いだ。
「俺は旅の中で、霊銀を用いれば瘴疽をもたらす毒をも生成できることを知った。ある面だけを見ればよく見えても、それが本質であるとは限らないんだ。光が差すところには必ず影も生じるのと、同じことなのかもしれない」
一筋の風が通り過ぎた。夕日はいつの間にかすっかり姿を消して、夜のとばりが街を包んでいる。
「それをすべきかどうか、ということこそを考える必要があるのだと、俺は思う。谷底の瘴気を晴らすことが、必ずしも人間に良い結果をもたらすとは限らない」
見えかけた希望が潰えたような、そんな憂鬱な沈黙が流れかける。しかしアルの表情は明るかった。
「逆のことも言える。テネブラエが生じる谷の瘴気が、我々に光をもたらす可能性もあるんだ。慢性的に魔物が生じるということは、霊銀薬に欠かせない物質、魔晶石を安定して獲得できるということだ。それは、ロクス・ソルスにとって大きな資源となりうる。うまく用いれば、テラ・メリタと対等かつ有効的な取引が出来るだろう。闇を恐れ拒絶するのではなく、向き合って受け入れるんだ」
「テラ・メリタと対等に――?」
「じゃあ、国が豊かになるってことか――」
「うまくいけば、ステラ・ミラとだって――」
「我らが王子!」
「殿下が居れば、ロクス・ソルスは安泰だ!」
「アルドール様、バンザイ!」
「バンザイ!!」
始まりかけたざわつきを、アルは手の動きで制した。
「難事の中にこそ希望がある。俺にそのことを示してくれたのは、ある一人の人物との出会いだった」
赤い瞳が、一瞬、聖女へと向けられた。
「その人は、生まれながらにして試練を与えられていた。心なき者の揶揄にあい、侮られる宿命を背負わされていた。だが、その人は前を向き続けていた。艱難辛苦を受け入れ、ひたむきに邁進し続けていた。誰もが、その人の持たざる面だけを見ていた。だからだろう。その人の歌声が、瘴気の闇を払い、皆に希望と活力をもたらす力を宿していることに、誰一人として気付いていなかった」
つん、と脇をつつかれ、リラがちらと後ろを見ると、トリステスが笑っていた。
「一人だけ、気付いてくれた人がいたわね」
リラの耳が、カッと赤くなった。
「旅の中で、俺は瘴疽の痛みを味わった。強大な魔物と戦い、危機も迎えた。鍛えた剣が敗北を見た日もあった。決して楽な旅ではなかった。ひとつ間違えれば命を落としていたかもしれない。それでもこうして故国に帰ってくることが出来たのは、その歌声があったからだ。傍らで、癒し、護り、支え続けてくれたからだ。そんな彼女に、俺はいつしか――いや――初めて目にしたその日から、心惹かれていた」
ぐっと押されて、リラは立ち上がらされた。後ろを見ると、ベルムとトリステスがそれぞれ背中と腰を押したらしかった。
千人を超す民に見守られて、恋人達が見つめ合う。
「俺が創るロクス・ソルスの未来は、未だ光に溢れるものではないかもしれない。だが、君の声が傍らに在り続けてくれたなら、明日を迎える歌は常に希望に満ちたものになるだろう」
場の全体が、期待と祝福、そして緊張で満たされる。
紅玉のような瞳がまっすぐに、夜空色の髪の乙女を見る。
王子はスッと跪き、聖女を見上げて口を開いた――
「マジだるい……」
長城から漏れる街の灯が、谷をのぼってきたふたりの人物をわずかに照らしていた。
ファルサとインユリアだった。
重さに負けて鎧を脱ぎ捨ててきたために、ファルサは鎧下の衣だけという、およそ騎士とも貴族ともらしからぬ恰好になっていた。鞘も既に無く、剣は抜身のまま杖代わりとなっている。
隣を歩くインユリアは、欠けた衣装こそないものの、真っ白だったはずの衣は赤と黒のよごれですっかり見る影がない。
両名共に、まさに命からがらといった風貌だった。
「どうにか戻ってこられましたわね、ファルサ様……」
インユリアが、最後の一本だった霊銀薬の瓶を手からこぼし落とした。わずかに残っていた中身が飛び散り、土に沁み込む。
「見てなさい。まずは逃げ帰った連中をすぐに処罰するわ。そして、おそらく谷底で死んだであろう二人の団長と聖女に責任をおしつけて、ウチらは被害者の側に回るのよ。その次は、そもそもストゥルティ家に礼儀を示そうともしなかったあの王女に――」
ワァッ、という歓声がファルサの言葉を遮った。