第百四十三話 それはさておき
スピーナの街を襲った魔物の攻勢が六度に渡って退けられた頃、街の中では王子に対する期待の声が広がり始めた。
「ロクス・ソルスの勇猛な騎士達が、三百人もいるなんて、やっぱりすごいよな」
「これだけの戦力なら、谷に下りて魔物を一掃できるんじゃないか」
「アルドール様なら、やってのけるかもしれないぞ」
「それに、傍らにおわす、あの聖女様がいれば可能だとも」
「その通りだ。リラ様の声は、瘴気を跳ね除け、打ち払う力を持っているそうだからな」
それらの声は、当然のようにアルやリラ達に元に届いていた。
軍議をするために設けられた一室に、音楽団の面々が集まる。
「機に乗じて、という機運が高まるのは自然なことでしょうね。カストル町長も、可能であれば――という趣旨の発言をしていたし」
トリステスの呟きに、ベルムが頷いて応える。
「それぞれの小隊を任せられた隊長連中も、同じような気持ちだぜ。数日前には専守防衛だなんて言ってたやつまで、攻めてもいいんじゃねぇかと言い始めてるからな」
一方で、アルの表情は浮かなかった。
それを心配したリラの問いに、アルは小さく笑って言葉を紡いだ。
「俺が二の足を踏む理由は、ふたつだ。ひとつは、以前伝えたように、君が活躍することでこの国の重責を担わせてしまうことになるだろうこと。仮に谷底の魔物を一掃し、瘴気を払えたとして――」
「アルさん」
リラはきっぱりと王子の名を呼び、言葉を遮った。
「私、もう、覚悟は出来てます。ステラ・ミラに帰るつもりはありません」
「おいおい、それって逆プロポ――」
「しっ」
リラのまっすぐな視線を、アルは受け止め、ゆっくり頷いた。
「それはさておき――」
「おいおい殿下、そりゃねぇだろ。リラがここまで言ってんだから、男としてはよォブッ!」
「あら、ちょっと強すぎたかしら。モディって加減が上手なのね」
悶絶しているベルムを置いて、アルが言葉を紡ぐ。
「理由の二つ目だ。こう言っては何だが、こちらの方が重要だ」
リラとトリステスは、アルの表情を見てごくりと唾を飲み込んだ。
「記録によると、遥か昔、谷底の瘴気をどうにか出来ないかと考えた王家が、大規模な調査を実施したことがあったらしい。保管してあったなけなしの霊銀薬をほぼすべて持参したということだから、あわよくば瘴気を打ち消すことは出来ないか、という狙いもあったであろうことは想像に難くない」
「それで、どうなったんですか」
「三十人ほどで構成された調査団が、一人も帰らなかったそうだ。当時の騎士団長を含め、その代では名の知れた戦士達が集められたにも関わらず、だ」
淡々とした口調のまま、アルは続ける。
「長城が築かれたのはそれからすぐのことだったようだ。以来、谷底の瘴気は触れるべきでないものとして認知され、今に至る。テネブラエという現象についての研究が進まないのも、ひとえにそういった歴史があってのことなんだ。町長のカストル氏も当然それを知っているから、強く要請は出来ないでいるんだ」
「でもよ」
横腹を抑えたままでベルムが言う。
「その時代、その調査団にはリラはいなかったんだろ? 安全を確保しながら、慎重に、リラの歌に頼りながら調査をするってだけでも意味はあるんじゃねぇですかね」
「リラはどう思う?」
リラは大聖堂の記録を必死に手繰り寄せた。
大地の裂け目に関する記述――だが、思い当たるものはない。
「怖い、とは思います。でも、この街に住む、ひいてはこの国に住む人達がずっと脅かされ続けるのを終わらせられるなら、その希望を見出したいとも思います」
「……わかった。態勢を整えて、明日から谷の調査を始めよう。ただし、今回の遠征の第一目的はテネブラエによる魔物の大発生が収束させること。過ぎたる欲は身を亡ぼすという言葉もある。あくまでも、可能な範囲で谷の様子を探るぞ」
アルの言葉に、面々は大きく頷いた。
「具体的にはどうするんですか?」
「俺とリラ、トリステスは決まりだ。ベルムは――連れて行かないわけにもいかないか。ケントゥリアに後詰を任せるとして、小隊を三つ連れていく。選出は任せるぞ、ベルム」
「三十人態勢ってことですね。合点でさ」
「トリステス。今の話をケントゥリア以下、全体に通達してくれ」
「分かりました」
指示を受けて、ベルムとトリステスは部屋を出て行った。自然、アルとリラだけが部屋に残る形になる。
何も言わないままに目が合って、二人がふふと笑う。
「リラ」
「はい?」
「これを」
差し出された物は、首飾りだった。
白く輝く銀色のチェーンに、美しいカットを施された紅玉が取り付けられている。その石は、アルや姉姫のアイテール、あるいはアンゴール王の強いまなざしを思い出させる輝きを放っていた。
「これは?」
「母の形見だ。お守り代わりにと、姉に渡された」
「そんな大切なもの受け取れません」
「そうだったな。清貧を旨とする聖女が装飾品のつけ方を知らないのは、無理もないことだった」
「そ、そうじゃなくて――」
アルは笑いながら首飾りの留め具を外し、リラの真正面に立って首の後ろに手を回した。
息が直接顔にかかる。
カチ、とかすかな音が聞こえ、首飾りはリラの胸元に収まった。そして、ふたりは静かに唇を重ね、すぐに離れた。
「王女殿下は、アルさんの身を案じて預けてくださったんですよね。それを私なんかが――」
「俺にはこれがあるからな」
そう言ってアルは、白い歯と、左腕の腕甲を見せた。
「聖女様のご加護の方が、俺には強いご利益があるはずだ」
「もう……」
苦笑するリラを見て、アルは微笑み、もう一度顔を近づけた。