第百四十二話 捧げる覚悟
薄暗い宮殿の冷え切った廊下を、ふつふつと怒りをたぎらせてファルサが歩く。
とんだ茶番だ。わざわざ大袈裟な軍を率いて北の地まで来て、なんの成果もなく帰ることになるとは。
それに、あの王女。自分のことを、まるで何者でもない相手のように扱った。ストゥルティ家の嫡子にして栄えある金鹿聖騎士団の団長である、このファルサを。
許せない。
あの澄ました顔を恥辱にまみれさせられたらどんなに心がすくことだろう。プドル法王自身が望んでいる通りに、いや、それ以上に、自分の望みとして彼女を跪かせてやりたい。否、そうしなければ気が済まない。
「ファルサ様」
「今ウチに話しかけるなんて、いい度胸してるわね」
「まぁ、怖い。ですが、言わせていただきますわ。まさか、このままコルヌに帰るおつもりですの?」
ファルサは立ち止まり、インユリアを睨んだ。
そのつもりはない、と言いたいところだったが、他にどうしろというのか。
ファルサは周囲に衛兵が立っているのを知りながら、インユリアに迫った。
「何か、考えがあるならさっさと言いなさいよ」
インユリアが声を潜めた。
「王子ですわ、ファルサ様」
「王子? アルドール王子が、どうしたっていうのよ」
「近衛騎士団を率いて大地の裂け目へと行った、と言っていたでしょう。そこに向かい、わたくし達も参戦するのです」
ファルサが顔を顰める。
「他国の領土で勝手に戦闘行為をしたら、さすがに問題になるわ。あくまでも、混乱している王家から承諾を得るのが最初のステップだったはずでしょ」
「そこですわ。要は、王家の者から承諾を得ればよいのです。谷から無数に湧き出る魔物を相手にして、ただ一人の瘴疽傷病者も出さないなどということは不可能ですわ。そこにわたくし達聖騎士団が現れれば、その助力は喉から手が出るほど欲しいはず」
なるほど、とファルサが口元を歪める。
「確かに、戦場において予期せぬ援軍ほど助かるものはないわね。でも、一時的に共闘したとして、それからどうするっていうの」
「肩を並べて戦い、街へ帰還した後も、行動を共にしましょう。寝食も、その後の時間までも」
「その後の時間って何よ」
「もちろん、夜ですわ」
インユリアの淫靡な笑みを見て、ファルサは彼女が何を言わんとしているかを察した。篭絡しろ、ということか。
「簡単に言うわね」
「わたくしがこの数ヶ月でどれだけの殿方を虜にしてきたか、貴女はご存じのはず。共に王子様を惑わそうではありませんか」
それに、と悪女は笑った。
「あの王女の美貌からして、王子もかなりの美丈夫でしょうし」
すっかり色に囚われている様子の女の言葉は、ファルサの中にあっさりと入り込んだ。
この女が床上手なのは、おそらく間違いのないことだ。現に、名の知れた貴族の子息達が、すっかり彼女の虜になってしまっている。その技術を用いて王子との関係をつくるのは、なるほど、不可能ではないかもしれない。
二人はあらためて歩き出し、宮殿を出て、そこでインユリアがまた声を潜めて口を開いた。
「時に、ファルサ様は、野望の為に純潔を捧げる覚悟はおありですか?」
「なんですって?」
「名門ストゥルティの娘を傷物にしたとあっては、一国の王子にとって多大な醜聞となりますもの。既成事実さえつくってしまえば、立場がある者ほど逃れられません」
ファルサの脳裏には、血判状が映像として蘇っていた。
連合軍を発足させること、ロクス・ソルスへの支援を進めること、ロクス・ソルス王家が瓦解した際にそれぞれが望むものを手中に収めること、そしてその詳細だ。
法王プドルは、王女アイテールを囲うこと。
父は、ロクス・ソルス全域を領土とすること。
聖女インユリアは、新たに設置される聖堂の長となること。
他にも、ステラ・ミラにおける大臣の座や、次期将軍の地位、聖騎士団ひとつの私物化、聖女の個人的保有権など、様々な願望があそこには書かれていた。
全員に対して義理を感じているわけではない。
だが、この一連の画策の中核を担う自分が下手を打った際に失われるものを想像すると、腹の底に苦しい重さを感じる。
引くわけにはいかない。
引いて失うか、進んで得るかだ。
「自信はあるんでしょうね」
「もちろんですわ。この小国は絶えず瘴気と魔物の影におびえ、国としての財産が底を尽きているのは見てきた通り。そんな中では、王子に伽の欲求があったとしても、実際に及ぶような真似は誰も許さなかったでしょう。つまり、向こうは何も知らないただの男の子。わたくしが手ほどきをして、それから貴女に委ねることなど、造作もありません」
ファルサは、なぜ父がこの聖女を自分に近付けたのかがようやく分かったような気がした。
自分に足りないもの――つまり、女であることを武器に出来る人材を、傍に置いておかせたかったのだろう。父はなんらかの流れでインユリアの存在をプドルから聞き、自分の団の専属となるように計らったのだ。そしてそれは、まぎれもなく先見の明だったと言える。
街の外に待機させていた騎士達が、二人を出迎えた。
「おかえりなさいませ、ファルサ様」
「全団員に通達。これより、南東の街、スピーナへ向かう。到着次第、戦闘に入れるように各自用意をさせよ」
「はっ」
翠羊、朱牛の団長らがファルサに首尾を尋ねている傍らで、聖女達も情報を共有しあう。
一方、集団の端で、若き騎士ラティオがかすかな期待に胸を膨らませていた。聖女ラエティティアからの無茶な要望に応えている中で、彼女から、慕っていた聖女リラがロクス・ソルスから来た旅の音楽団と行動を共にしていたと聞いた。
もしかしたら、この北の地で、およそ一年ぶりに彼女に会えるかもしれない。いや、彼女に会いたいというよりも、彼女の歌を聞きたいのだ。あの声に勇気づけられていた頃は、今よりももっと勇敢に、そして強靭に戦えていた気がするから。
シュアッ、と音を響かせて、ラティオは剣を研いだ。