第百四十一話 その必要はありません
「……マジだるい」
「ん? 何かおっしゃったかしら」
赤毛の王女に見据えられ、金鹿聖騎士団の団長ファルサは慌てて首を振った。
玉座が空けられたままの謁見の間で、王女と聖騎士団長がまっすぐ向き合っている。また、聖騎士団長の傍らには、淫靡な目つきをした聖女が立っていた。
「いえ。アイテール第一王女殿下のご尊父にして偉大なる国王アンゴール陛下が無事であると聞いて、感嘆の息が漏れただけのことでございます」
丁寧な言葉を音にしながらも、ファルサの胸の内にはどす黒い感情と罵詈雑言が溢れていた。
話が違う。
こんなはずじゃなかった。
アンゴール王は危篤状態で、明日にでも死ぬという話だったはずだ。そのはずが、王は一命をとりとめるどころか、瘴疽に罹る前よりも元気になったというではないか。
それに、魔物が大発生して混乱しているという風もない。予定では、崩御と魔物の襲撃が重なり、国は混乱し、若い王家の若輩者達ではどうにも出来ず、そこに自分達が颯爽と現れて、救国の英雄となるはずだったのに。
しかも、その王子が年若く無能であるというのも、まるっきり誤情報だった。聞けば、北にある氷山の異変を解決し、帰還するや否や近衛騎士団を率いて大地の裂け目の魔物を一掃すべく出立したらしい。
唯一確かだった話といえば、王女の美貌くらいだ。
目も眩むほど、といえばよいのか。あの世俗と肉欲にまみれた法王が一瞬にして虜になったというのも頷ける。これならば、弟王子の方も、かなり顔立ちが整っているのは間違いないだろう。
「あらためて――」
アイテールがファルサを見据える。
「大国であるステラ・ミラ聖王国が、この北の小国に支援の手を差し伸べてくださったことには、深く感謝を申し上げます」
ただ、とアイテールは目の力を強めた。
「不思議なものです。父王の体調の急変をどこから聞きつけたのか。テネブラエ――大地の裂け目に生じる異変の情報をどこで伝え聞いたのか。まるで以前からロクス・ソルスに関心をもってくださっていたかのよう」
まるですべてを見透かしているかのような視線を向けられて、ファルサは言いようのない怒りをたぎらせた。
勘違いするんじゃないわよ。
立場が上なのは、ウチの方。あんたは確かに王家の人間かもしれないけど、明日にでも滅びそうな国だっていうことは紛れもない事実。
表情を凍らせたままのファルサに、王女は言葉を重ねる。
「しかも、大臣のスクリーバが、以前から幾度も、支援について相談する文書を送付していたはず。にも関わらず、貴国からは色よい沙汰が返ってきたことはないと聞きます。それが、我が国に危機が訪れたという情報を掴むや、前例のない連合軍を結成して助力を申し出てくるとは、何か別の狙いがあるように思われても致し方ないのでは?
ファルサは表情を変えずに口を開いた。
「我らが法王プドル猊下の御心は、ワタクシごときには測りかねます。ただ、ワタクシ個人の思いとしましても、苦しみに喘ぐ民を救いたいのです。例えそれが、国の境を越えた先であったとしても。だからこそ、要らぬ誤解を招かぬよう部下達を野に留め、ワタクシと、この聖女インユリアがお伺いを立てに参ったのです」
「恐れながら、進言させていただきますわ」
インユリアが言った。
「プドル猊下の崇高な願いは、ただひとえに瘴疽にあえぐ民を救いたいというもの。他の意図はございませんわ。わたくしを含め、こちらには聖女が三名おります。差し出がましいようですが、せめて、こちらのセーメンの都で瘴疽に罹っている方々に浄化を施させていただければと存じます」
深々と頭を下げるインユリアの横で、ファルサは表情を変えず、しかし内心では満面の笑みを浮かべていた。よくやった、インユリア。霊銀が産出せず、聖女が生まれず、霊銀薬を買うための資源ももたないこの田舎では、この申し出は何にも増して代えがたいはず――
「その必要はありません」
「は?」
「このセーメンの都に、瘴疽に罹った患者はおりませんから」
ファルサの眉間に皺が寄る。
何を言っているんだ、このお姫様は。
常識というものを知らないのか。
そんなことがあり得るはずがない。
国や街の代償はあれど、瘴気は大陸のあちこちに生じるものだし、それによって瘴疽に罹る者も少なからず出る。人口の少ない小さな村ならまだしも、国の都で瘴疽患者が一人もいないなどということがあれば、それはもはや奇跡と言われる範疇だ。
いつだったか、どこかで同じような話を聞いたような気がしながらも、ファルサはどうにか思考を巡らして二の句を告いだ。
「であれば、大地の裂け目に現れたという魔物の討伐に助力を――」
「その必要もありません。既に優秀かつ勇猛な騎士達が立ち向かってくれていますから。何よりも、我が弟のアルドール自ら、大地の裂け目の戦列に加わっていますので」
語勢を強めた王女に、ファルサは自覚なくたじろいでいた。
張り詰めた沈黙が謁見の間を支配する。
どれほどの時間が過ぎてからか、口を開いたのは大臣のスクリーバだった。意を結して喋り始めた拍子に、帽子がずり落ちそうになり、彼はそれを両手で止めた。
「殿下。こうしてわざわざご足労頂いたわけですから、相応の歓待をしてはいかがでしょうか」
それを聞いたファルサが顔を真っ赤にした。
何を馬鹿げたことを。
こんなに貧相な宮殿に住んでいる者達が、歓待など出来るはずもない。
大体、謁見の間だというのに寒すぎるではないか。
これならば、途中で立ち寄った街の民家の方がよほど暖をとれていた。
「結構です。ワタクシどもステラ・ミラの力が必要になるかと思い駆け付けましたが、不要だというのならば帰るのみ」
ただ、とファルサは付け加える。
「せっかく差し伸べられた手をはねのけ、後悔などなさらぬよう」
吐き捨てるようにそう言って、踵を返した聖騎士団長はそのまま聖女を引き連れて出て行った。
居合わせた家臣たちが、口々に安堵の息を漏らす。
「貴方はアレと手を組もうとしていたのよ、スクリーバ大臣」
「返す言葉もございません」
「ファルサ=ストゥルティと名乗ったわね。確か、トリステスからの報告の中にその名があったはず。後ろ暗い企みをもってこの国を訪れたのは間違いないでしょうから、暗部の監視をつけさせなさい」