第十四話 勇敢な少年に
「お姉さんは聖女様……ですよね。爪が、銀色だから」
少年が、リラの左手を凝視する。栗色の髪はぼさぼさに伸びていて、苦しい生活を想像させた。
そして、彼の後ろから、ひょこっと顔を出したのは、間違いなく弟だろう。少年の時間を巻き戻したような顔がそこにあった。
「弟の腕を見てあげてくれませんか。お代は――」
少年が言い終わるより早く、リラは弟の方に駆け寄り、身を屈めた。肘から手首にかけて、打撲のような内出血が広がり、陽が落ちかけた時間帯でも内部の膿が見て取れる。その広がりは、経験的に見慣れているリラですら僅かに顔をしかめるほどだった。
「少年。我々の音楽は、聞いていたかい?」
リラの横に来たアルが、目の高さを合わせて二人に尋ねた。声色は優しく、表情も柔和だ。
少年は首を横に振った。
「最後の方だけ」
「そうか。それじゃあ――」
深い赤の瞳がリラを見つめた。リラが首をかしげて見せると、アルは小さく口を開いた。
「リラ。君の力を試してみる良い機会だ」
「……歌で、ということですか?」
アルが大きく頷く。
「君のことだから、既に無償で浄化してあげるつもりだっただろう。反動の痛みをものともせずに。それを止めるつもりはないし、むしろ、敬意を表したいと思う。だが、それは真実を明らかにした後でも遅くないんじゃないか。この少年は、現時点では君の歌をきちんと聞いたわけではないようだから……」
何のことかときょとんとしている兄弟に微笑みかけて、リラは小さく口を開いた。
「安心してくださいね。もう、大丈夫ですから」
リラは化膿した腕をもう一度見つめてから、そっと目を閉じた。
アルの言う通り、自分の歌に浄化の力が宿っているのか、どうか試すチャンスかもしれない。
歌って駄目なら、これまでと同じように直接触れて浄化すればいいだけのことだ。
浄化の基本は、願いだ。傷口の爛れを、清潔で健康な状態に戻せるようにと、こうあってほしいというヴィジョンを強く思い描く。瘴疽に苦しむ目の前の人が、笑顔で、幸福に時を過ごしているイメージまで膨らませる。それが具体的であればあるほど、浄化の力は高まると言われている。
いつもなら、目を閉じ、精神を集中させて、自分の中で準備が整ったら、そっと目を開け、患部に触れる。すると、歯を食いしばるほどの痛みが反動として伝わってきて、自分はそれを享受する。大聖堂ではこれを『聖女の喜び』と呼んでいた。
果たして、今はどうなるか。
――
星のきらめき ぴかぴか光る
聖なる夜に 子守唄が流れる
ふわり ふわり 小鳥の羽音
やさしく やさしく あなたを包む
ぐっすり ぐっすり 眠りにつく
小さな心に 母なる愛
ほっこり ほっこり 月のやさしい光
そっと そっと あなたを見守る
おやすみなさい 小さな子等よ
小鳥たちが あなたを守る
ふわり ふわり 夜が明ける
安らかな夢を あなたに
――
口から自然と紡がれたのは、都で古くから歌い継がれてきた子守歌だった。
大聖堂に居た頃、もっとも多く歌った歌だ。聖女に生まれついた者なら、誰しもが浄化の痛みで眠れない夜を経験する。そんな聖女達のために、聖女達同士が伝統のように歌い継いできたのが子守歌だった。リラも、まだリュートを学ぶ前から知っていたし、年端のいかない後輩達のために何度も口ずさんでいた。
歌い終わり、ゆっくりと目を開ける。
血色の良い肌が、そこにあった。浄化されている。
視線を落として自分の左手を見る。小指の先まで、銀色は保たれていた。
「決まりだな。伴奏や曲がどうということではなく、リラの歌声には浄化の力が宿る。しかも、反動無しで、だ」
納得したようにアルが独り言ちている傍で、兄弟は抱きしめ合って涙を流していた。
リラは二人の肩に手を置いた。
「瘴疽自体が癒えても、損なわれた部分が回復するまでには時間がかかります。清潔に、そして安静にしてくださいね。出来たら、栄養もたくさん摂って。ところで、おふたりの親御さんは、どちらに?」
「港の作業場です。よくわからないけど、瘴疽に罹っちゃった人がすごく増えてて、ふたりとも朝から晩まで忙しくて、僕達に構ってる暇なんてなくて……弟が瘴疽に罹ってから、霊銀薬を買うためには、もっと。本当は家に居なくちゃいけないんだけど、ずっと中に居たら弟が可哀そうだし、外から音楽が聞こえてきたから聞かせたくて……それで、お姉さんの爪が銀色なのに気付いて……」
俯く少年の肩に、アルが優しく手を置いた。そして膝を折り、目の高さを合わせる。
「弟の身を案じ、一人で守っていたんだな。立派だ。帰りは自分達だけで大丈夫か?」
「うん」
「そうか――ベルム!」
「おーん?」
楽器類の片付けが済んだらしいベルムが駆け付け、アルの説明にうんうんと頷く。
その間、リラはあらためて兄弟を見たが、服は上下とも汚れており、あちこちに穴があった。デンスの街が豊かであることは間違いないのに、そこに住んでいる子供がこのような格好になるとは。富が一極化しているということだろうか。
「勇敢な少年に、これをプレゼントしよう」
アルは、ベルムから受け取った物をそのまま兄弟に手渡した。
それは小さな木の容器だった。リラが大聖堂で学んだ知識では、ロクス・ソルスという国は伝統的に木々をはじめとする植物の扱いに長けている。そう言えば、ウェルサス・ポプリ音楽団の荷物の多くも木製で、金属製のものはほとんど見かけない。
少年が大事そうに両手で受け取り、きゅっと掴む。
「これはなに?」
「遠い場所でつくられた、怪我に効く塗り薬だ。瘴疽そのものを治すことは出来ないが、痛みを和らげ、体が元々持っている治ろうとする力を高めてくれる。皮膚の上から塗っても、効果が奥まで届く優れものだ。弟の傷が癒えるまで、毎日塗ってあげるといい」
「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
兄弟は嬉しそうに大きな声をあげ、深々とお辞儀をして、歩いていった。