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第百三十九話 いざ

「キャアアッッ!!」


 ものの数分の後に、執務室から悲鳴が聞こえた。

 僧兵は迷った。

 法王が年若き乙女達に執心し、性的な暴行を加えているという噂は、おそらく事実なのだろう。だが、一方で被害者達が多大な恩恵を受けているというのも事実だ。だからこそ、法王に乱暴をされたという声が一度も出てきたことがないのだ。いや、ただ脅迫されているだけなのかもしれないが。

 しかし、今の声はどうだ。

 聖女ラエティティアといえば、大聖堂の中でも評判の高い聖女だ。今はどこかの聖騎士団に所属しているはずだが、大聖堂に居た頃は、僧兵達や事務官達とも関係が良く、大聖堂全体のムードメイカーだった。一癖も二癖もある聖女達の間を取り持っていたとも聞く。

 何より、自分には彼女への憧れを抱いていた時期があった。いや、今でも抱いているのかもしれない。彼女の年齢は自分よりも十以上は下だというのに、なんとも埒のない話だ。

 だからこそ、彼女の意見を却下することが出来ず、執務室まで護衛するという特別なことを引き受けてしまったのだ。

 そんな彼女が、部屋の中で悲鳴を上げた。

 彼女は、悲鳴を聞いたら中に入ってきて欲しいと言った。

 だが、それは法王に対して刃を向けることになるのではないか。

 自分が職を失ったら、実家の年老いた両親はどうする。瘴気による被害は拡大しつづけており、農家の細々とした稼ぎなど何かの拍子で吹き飛んでしまう。自分が稼がなければ、そして仕送りをしなければ、家族を飢えさせてしまうのは必定なのだ。

 しかし、聖女の悲鳴を聞いて行動を起こさなくてよいのか。ましてや、あのラエティティアの、太陽のような笑顔が失われるのを、このまま見過ごすのか。

 救えるのは自分しかいないのだ。

 ああ、父さん、母さん。

 正義を行う息子を褒めてくれますか。

 いざ――


「ちょっと、悲鳴を上げたらすぐに来てって言ったじゃん」

「えっ、あっ?」


 がちゃ、と扉を開けて、ラエティティアが顔を覗かせた。衣服に乱れはなかった。


「聖女ラエティティア」


 混乱を表情に浮かべる僧兵に、ラエティティアは言葉を次いだ。


「法王サマが、急に倒れちゃったんだ。意識を失ってるみたいだから、すぐにお医者を呼んできた方がいいかも」


 なるほど、さっきの悲鳴はその――だが、一体、何があったというのだろう。

 僧兵が恐る恐る部屋の中に足を踏み入れると、そこには確かに、前のめりに倒れたらしい肥えた体があった。

 急病だろうか。

 受け身も取れずに倒れるほどとなると、命に係わる。


「とりあえずボクが看てるから、誰か呼んできてくれる?」

「わ、わかった」


 僧兵が慌てて駆けていくのを見送って、ラエティティアはにやりと笑い、僧兵から見えないように持っていた戦棍バトルスタッフの先端を見た。

 うん、血はついてないな。

 次にプドルの後頭部を見る。

 したたかに打ち付けたが、見て分かるようなこぶはない。さすが、たっぷりとした脂肪が鎧になってくれたようだ。


「さて、こうしてもいられないな、っと」


 聖女はウィルトゥスに教わった、貴族達が大切な物を隠す場所を思い出しながら、そこを中心にあらためていった。

 インユリアからの要望書――違う。

 フォルミード商会からの目録――違う。

 ロクス・ソルスの大臣からの書状――違う。

 ストゥルティ卿からの手紙――違う。

 引き出しの中にはなさそうだ。

 そもそも、血判状って、どういう形をしているものなんだろう。

 確か、名前を書いて、その横に自分の血をインクにして指紋を印すものだったはずだ。指紋の形が崩れないように折りたたみはしないだろうし、紙自体もかなり質のよいものにするはずだ。

 ふと、巻物の形が頭に浮かんだ。

 机ではなく、後ろの飾り棚に目が行く。

 いくつもの筒が並んでいる中に、革のケースが潜んでいるのが目に入った。ひとつだけ、埃をかぶっていないものがある。


「もしかして……」


 筒を開け、厚手の、しかも大きな羊皮紙をくるくると開いていく。

 これだ。

 プドル、ストゥルティ、ファルサ、インユリア、その他十余名の名前が記され、赤黒い指紋の印が押されている。下に目をやると、つらつらと文章が書かれてある。ざっと読んだだけでも悪だくみをしていたのが明白だ。

 聖女は素早く羊皮紙をケースに戻し、ごそごそとローブの背へと忍ばせた。


「こっちです」


 遠くから、僧兵の声と、数人の足音が聞こえた。

 にわかに緊張が高まる。

 ここからが勝負だ。

 この血判状を持ち出し、ウィルトゥスはじめ良識のある者達の力を借り、法王を追い詰めなければならない。

 目を覚ました法王が、急に後頭部を叩かれたと証言するのは考えにくい。極めて速く、そして完全な死角から打ったから。しかし、医師達の見聞によって、後頭部に打撃の跡がある、と判明するのは時間の問題だ。


「聖女ラエティティア、法王様の容態は」

「なんの変化もないよ。呼吸はしてるから、命に別状はないと思うケド――」


 素知らぬ顔をして、聖女は言った。法王が倒れるという不測の事態の中で、聖女のローブの後ろ側が変に盛り上がっていることに気付く者は、誰一人いなかった。

 ここで血判状を見つけられたということは、ウィルトゥスは何も見つからない部屋に決死の覚悟で侵入していることになる。彼の無事を祈りながら、ラエティティアは成り行きに従った。

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