第百三十八話 共に上層へ
夜、ラエティティアは一人、大聖堂の廊下を歩いていた。コン、コ、コン、と不規則に戦棍が床に当たって音を立てる。
桃熊聖騎士団の専属となって以降も度々足を運んではいるが、上層へと行くのは随分久しぶりだ。かつて、リラと共に呼び出されて叱られた、あの日以来かもしれない。
ただ、あのときは愛すべき親友が傍らにいたが、今は一人だ。
「君がそこまですると言うのなら、僕も危ない橋を渡ろう」
ラエティティアの案を聞いたあとで、ウィルトゥスはそう言った。そして、自らストゥルティ卿の部屋に忍び込み、棚を漁る役を買って出ると宣言した。
ヴィアはそれぞれに反対したが、最後には渋々承諾した。せざるを得なかったのだ。このまま自分達が動かないでいれば、ステラ・ミラという国がロクス・ソルスという国に敵対的な外交をすることになり、もしかすれば戦争になってしまうかもしれない。そうなってしまえば、勝敗がどうあっても、多くの犠牲が出る。最悪の場合、テラ・メリタも巻き込んでの大陸戦争になるかもしれない。
プドルの目的がなんなのかは分からないが、ろくな目的ではあるまい。それを明らかにするためにも、そして阻止するためにも、彼らが密約を交わした証拠品を差し押さえる必要があるのだ。
「止まりなさい」
上層へと続く唯一の階段で、衛兵の一人が聖女の歩みを制した。
「聖女ラエティティア。一体、ここで何を?」
「法王サマに呼ばれたから来たんだけど」
「……貴女の来訪は、約束されておりませんが」
「え? おかしいな、ちゃんと帳簿を見てみてよ」
二人の内の一人が、ぶ厚い帳簿を取り出して手繰り始めた。
「――いや、ないぞ」
「それじゃ、そっちの不手際だと思うよ。だって、今日の日暮れ前に、法王サマから直々に呼び出されたんだもん。伝達が間に合ってないんじゃない?」
「しかしだな……」
三人がそれぞれの顔を見合わせて、困り顔を披露しあう。
ラエティティアは、わかった、と手を打った。
「確か、法王サマ直々の御用達は、事務官の確認が終わってから各現場に通達されるんだよね。ボクが法王サマに言われたタイミングが遅かったから、事務官がとっくに退勤してて、こっちまで届いてないんじゃないかな」
「むう。確かに、以前もそのようなことはあったが……」
「とりあえず、事務室に行って確かめて来てよ。このままじゃ、ボクが法王サマの申し付けに応じなかったってコトになっちゃう。そんなコトになったら、ボク――……」
いかにも不安で胸がいっぱいのいたいけな少女のように、ラエティティアはわざとらしく肩を落として、大袈裟にうなだれて見せた。
「あいや、待たれよ。すぐに自分が事務室へ行って確かめて来よう」
女性の涙を見慣れていないらしい若い僧兵が、一にも二もなく駆けて行った。彼は階下へ降りてほどなく事務室へと入ったが、ちょうどよくそこに現れたマエロルという騎士の対応に当たらなければならなくなり、戻れなくなってしまった。
「もう三十分は経つけど、戻ってこないね」
「まったく、何をしているんだ、あやつは」
訝しむ僧兵の顔を、ラエティティアは潜り込むように見上げた。
「な、なんだ、聖女ラエティティア」
「法王サマって、時々、こうして女の子を呼び出してるよね」
む、と僧兵が頷きかけ、踏みとどまる。
「何してるんだろうね」
「わからん」
「呼び出された子に話を聞いても、教えてくれないんだ」
「それは――そうだろうな」
「貴方はなんでだと思う?」
「分かるはずもない」
「なんで?」
「法王様の御心は、私のような下賤の者には計り知れぬからだ」
ふぅん、と聖女は頷いて、あらためて口を開く。
「ボク、もしかして、これから法王サマに乱暴されるんじゃないか、ってすごく心配なんだ」
僧兵の顔色が明らかに変わった。
「聞いたことあるでしょ、そういう噂」
僧兵は否定も肯定もしない。
「ねぇ。よければ、上までついてきてくれないかな。ボクが法王サマと約束したっていう証拠がない以上、このまま行かせるわけにはいかないだろうし、だからと言ってもう一人の人も戻ってこないし。だけど、いつまでも法王サマを待たせるわけには行かないんだ。だから、あなたが見張りとして付いてくることは自然なことでしょ?」
「まぁ、な……」
「それで、もしも、もしもだよ。もしもボクの悲鳴が聞こえたら、助けに入ってきてほしいんだ。聖女の安全を守ることは、僧兵の第一の任務だから、それだっておかしいことじゃないよね?」
僧兵は腕を組み、しばらく考えた後、聖女の言葉に同意を示した。
ラエティティアは自分の企みが算段通りに進んでいることを大いに喜びながら、しかし表情には不安と緊張を浮かべ、僧兵と共に上層へとあがっていった。
ラエティティアが部屋をノックすると、のっそりと、肥えきった体が現れた。
「――そなたは、聖女ラエティティア。はて……」
その反応を見て、僧兵がすかさず口を開く。
「たいへん失礼いたしました、法王猊下。こちらのラエティティア殿が、猊下に召喚されたと――」
「……おぉ、おぉ。そうだったな。忘れておった」
法王の破顔に、僧兵は寛容を見て、聖女は淫欲を見た。
「さ、入りなさい」
「失礼します」
ギィ、と音を立ててしまった扉の前で、僧兵はどうしたものか、数歩往ったり来たりしてから、少し離れた場所で直立して止まった。