第百三十二話 当然だろう
アルは、明るい木の扉につけられたドアノッカーを掴んだ。
「モディ、俺だ。アルドールだ」
「ア――殿下! どうぞ、お入りください!」
扉を開くと、中はリビングになっていた。暖炉がパチパチと優しい音を立てている。
モディはその真ん中で、四人掛けのテーブルセットに腰かけ、本を読んでいたらしかった。そしてリラを見て、満面に笑顔を浮かべた。
「リラちゃん!」
「お久しぶりです、モディさん」
「――と、殿下」
「……おう」
「ふたりがここに居る、ってことは、陛下は――」
「大丈夫です。ここに来る前に、きちんと浄化してきました」
表情を無くしたままの王子をさておいて、リラはモディの傍に駆け寄った。モディは座ったまま姿勢を正し、リラを優しく抱き寄せる。
「元気だった?」
「はい。モディさん――と、お腹のほうはお変わりありませんか。横になっていなくて平気なんですか」
まだ目立たない腹部をさすりながら、モディが言葉を紡ぐ。
「平気平気。悪阻はすっかり落ち着いたし、まだ実感が沸いてないってのが正直な所なの。経験者に聞いたら、その内お腹の中で蹴るのが分かるようになるって言われたけど、それもまだだし」
「ベルムはどうした?」
「買い出しに行ってもらってます。旅をしている中で料理をさせてたのが、ここに来て活きてますよ」
立ち上がろうとしたモディを、リラは手で優しく制した。
「お構いなく。私もアルさんも、お二人の顔を見に来ただけですから」
「そうは言っても、一応は王子様をお招きしたわけだし――」
「その王子様に先んじてリラの名を呼んだくらいだ。今更敬意を示す必要もあるまい」
アルが笑って言うと、モディは苦笑して頭を掻いた。その雰囲気は、かつて共に旅をしていた時とほとんど変わらないようにリラには感じられた。
「殿下」
「なんだ」
「リラちゃんは、どういう待遇になるんです? まずは当面の生活をどうしてもらうのか、決めてあげないと。あたし達は『帰ってきた』だけど、リラちゃんにとっては初めての国、初めての場所、初めての生活になるんですから」
モディの言葉に、リラも視線を動かした。そういえば、自分がこれからどうやって生活していくのか、その見通しは立っていなかった。
「リラちゃんさえよければ、うちで生活してもいいのよ。もう、姉妹みたいなものでしょ」
えっ、と声が漏れる。
「さ、さすがにそれは――」
リラは言葉を探した。モディの傍にいられるのは嬉しいとは思うが、さすがに夫婦の邪魔になるのははばかられる。だが、かといって宿の当てがあるわけでもない。
「何を言っているんだ。リラには王宮の一室を使ってもらうに決まっているだろう」
「そ、そうなんですか?」
リラの戸惑いに、アルは大きく頷いた。
「当然だろう。婚約者なんだから」
「殿下……リラちゃんが顔を真っ赤にしてますけど、もちろんあたし達が離脱した後にそういう話をした上での発言なんですよね」
赤い瞳が聖女の方に向く。リラの表情は固まっていた。
「言ってないんですね。まったくもう、立場を隠す必要がなくなったのに、そんなんでどうするんですか。女性には、はっきりとした言葉と目に見える約束が必要なんですよ」
「わ、分かった」
「臣下団に対してリラちゃんの立場を表明する場も設けることになるでしょうけど、それはあくまでも公的な立場を明らかにするためのもの。その前に、ご自分のお気持ちをちゃんと本人に伝えなきゃ駄目じゃないですか」
今更ですけど、とモディがアルを睨む。そして、アルが困り顔で頷く。そんな二人のやり取りは、ウェルサス・ポプリ音楽団で見ていた二人の関係性とまるで一緒だった。元々はしっかりと王子様と部下という関係だったのかもしれないが、長い旅の中で、肩書を越えた関係性が出来上がったのだろうとリラは胸が温かくなった。
一方で、二人の会話によってリラの耳は真っ赤に熱を持っていた。一国の王子と想い合うということは、もちろんその先に婚約、結婚という流れがあって然りなのだろうが、ここに至るまできちんと考えたことはない。リラはアルの方を見ることが出来なくなり、とりあえず家具のひとつひとつに視線を移していく。
ガチャ、と音がして、リラも含めた全員が扉を見る。
「ただいまだ。すっかりパンの値段も上がっちまって――」
蔓籠を持っていた大男が、ぽろりと荷物を床に落とした。
「リラ!」
「お邪魔してます」
「――と、殿下」
「……おう」
表情無く笑うアルを見て、リラはクスクス笑った。そして、モディとベルムも声を上げて笑う。
「あはは、夫婦そろって主君をないがしろにするなんて、重罪だわね」
「いやいや、情状酌量の余地はあるってもんだぜ。なにせ、殿下がこの国に居るのは当たり前のことだが、リラが居るのはとんでもないことなんだからよ」
ドスドスと音を鳴らして、ベルムがキッチンに蔓籠を置き、勢いよく椅子に腰かけた。そして、二人に座るように言い、離れていた間の出来事を聞かせて欲しいとせがんだ。
「ちょっと、ベルム。お茶の用意くらいしてよね」
「おぉ、そうだった、そうだった。すぐに準備してやらぁ」
たどたどしい手つきで人数分の湯茶が用意され、四人の団欒は一時間程続いた。