第百十七話 信頼できる人物
新生ウェルサス・ポプリ音楽団の演奏は、三日間、街のあちこちで鳴り響いた。
横笛の高らかな響きに誘われて、祭りが始まるのかと顔を出した者達も多かったが、大半の住人達は伸びやかな歌声に心を奪われていた。
時を同じくして、まるで奇跡のように瘴疽が癒えていったという噂話が立ち、旅の音楽団の働きとそれとを結びつける声も出始めていた。
「聞いていた範囲は、今日で一段落ですね」
リラが額の汗を拭いながら言うと、テスタが自分をじっと見ているのに気が付いた。
「な、なんですか、テスタさん」
「いや、見事なものだと思ってな。儂はこの歳になるまで歌唱で心震えたことなど一度もなかったが、そなたの歌声を聞くと、得も言われぬ心持になる。この三日の間は、ゲンマの街に居た頃は想像もつかなかったような穏やかな時間だった」
「テスタさんの演奏が素敵だったおかげでもありますよ」
皺の深い顔が綻ぶ。
「ほ……歌姫に褒められるとは、嬉しいものだな。昨夜は中盤辺りで息が切れて音飛びが目立ってしまったが、今日は我ながら悪くないと思っていたよ」
ふたりの会話を、トリステスは眉を顰めて聞いていた。
「どうした、トリステス。随分と難しい顔をしているな」
「あの老人の真意を測りかねているのよ。あれだけの剣の腕を持ち、暗殺を稼業としてきた者が、あんな風に――そう、まるで街角で日向ぼっこしているのんきなおじいさんのように笑って喋っているんだもの」
「リラと関われば、大抵の人間は毒気が抜かれるだろうさ。そうでないのは金の鹿の飼い主くらいのものだ。さ、あらためてネニア市長のところへ行くぞ」
アルの横にリラが並び、その後ろでトリステスとテスタが並ぶ。
前の二人が和やかに談笑しているのに対して、後列の二人は長く口を結んでいた。
「儂が笑うのが意外だったか」
「聞いていたの。趣味が悪い年寄りね」
「お互い様というものだ。昨夜、儂がアル殿と話していた内容もしっかり聞いておったろう」
まぁね、とトリステスが短く返す。
「まさか、一時間も音楽についての議論だけで終始するとは思わなかったけれど」
「心配せずとも、今更刃を向けたりはせぬ。そんな気配が微塵でもあれば、誰よりもそなたが感付くであろう」
「ええ。もちろん、貴方が害意をかけらも持っていないのは、分かっているつもりよ。ただ――」
トリステスはテスタを一瞥した。
「人がそんなに簡単に変われるということに、驚いているのよ。少なくとも、ゲンマの街で対峙したときの貴方は、骨の髄、指の先、血の一滴に至るまで殺気に満ちた暗殺者だった。それが、孫ほどに年が離れた相手に笛の音を褒められて嬉しそうに笑っているなんて、まるで出来の悪い冗句だわ」
「願わくば、この変化が一時のものではなく、芯からのものだと信じたいものよ」
ふっと視線を虚空に流したテスタを見て、トリステスは彼もまた様々な葛藤を抱えているのだろうという気がした。自分とて、胸を張って陽の下を歩ける人間かというと怪しいものだ。現に、リラにはとても言えないような経験がいくつもある。
だが、とも思う。
暗い過去があるからこそ、明るい未来を担う者達の為の力に、刃になれることもある。
「まぁ、せいぜい頑張ることね」
「そうさせてもらおう」
市庁舎に着くと、連日の働きを既に耳にしていたらしいネニアは一行を歓迎し、そろそろ来る頃だと思っていたと応接間に通した。彼女の言葉の通り、テーブルには既に人数分の湯茶が用意されていた。
「まさか、これほどのペースで瘴疽に苦しむ市民を癒してくれるとは思わなかったわ。貴女は、素晴らしい力をもった聖女なのね」
深いまなざしが、じっとリラを見据える。
「聖女というのは、みな、貴女と同じように浄化をするの?」
「同じ、というと――」
「私も遠巻きに演奏を聞かせてもらったわ。貴女は誰に触れることもなく、ただ歌を歌い続けた。その結果、確かに瘴疽に苦しんでいた人達が癒されていた。でも、私の知識が確かなら、本来は聖女というのは瘴疽の患部に直接触れて病を癒すはず。これらを繋ぎ合わせれば、出る答えはひとつだわ」
そうだ、とアルが口を開いた。
「リラは、歌声に浄化の力を込めることが出来る。おそらく、本来は両手に備わるはずだった『銀の爪』が左手にしか顕現していないのもその影響だと俺は考えている」
「……その事実を私に伝えて、これから始まる交渉が不利になるとは思わなかったのかしら。浄化の報酬を値切られるどころか、厚かましく脅迫するかもしれないわよ。例えば、その情報を大聖堂はじめステラ・ミラに流して利益を得るとか、それをネタに直接揺するとか」
ネニアがじっとアルを見る。
「少なくとも、リラさんの力について、行く先、行く先で公言しているわけではないのでしょう? もしもそうなら、中央都市ゲンマを経由して無事にここに辿り着くはずが無いもの。メトゥス=フォルミードがその力の詳細を知ったなら、得意の悪行三昧で身柄を拘束していたはずだわ」
緊張感のある沈黙が場を包んだ。
短い静謐を終わらせたのは、アルだった。
「ナトゥラ=オーウォは、貴女のことを信頼できる人物だと言った。だから信じた」
リラは内心で驚きの視線をアルに送っていた。アルからナトゥラに対しては、色々と思うところがあるらしいが、深いところでは信頼や尊敬といった感情を抱いているのだろう。
「まっすぐなのね。打算しないことが人の心を動かすことを知っているのは、経験からなのか、別の理由があるのか。その純粋さが少し羨ましく思えるわ」