第百十三話 取り上げた責任
「その口ぶりでは、朝から一通りの会話を盗み聞いていた、ということね」
「儂は、この年にしては耳が良い方でな。そなたと似たようなものだ、トリステス」
殺気立つトリステスに対して、テスタの雰囲気は穏やかそのものだ。首元に致命の刃が突きつけられているというのに、まるで夜の散歩の途中で花を見かけて足を止めたかのように悠然としている。
「影に生きる者が、やすやすと主君を変えて新たに忠誠を誓うはずがないわ」
「そう信じられるだけの主君に、そなたが恵まれたというだけの話だ。死に場所を求め、枯れた骨を動かして剣を振るだけの日々など、想像もつかんだろう」
「死に場所を求めていたですって? なら、私がこの場で――」
「トリステス」
アルの一言でトリステスは短剣を引きかけて、しかし留まった。
「理由を聞こう」
「心も体も衰えてあとは技のみが残るだけと思っていた儂を、そなたは打ち負かした。そして、なおかつ儂の命を救い、人々の為になれと言ったな。だが、二本の剣で救える命などたかが知れている」
テスタは一度視線を落とし、あらためてアルを見据えた。
「しかし、そなたは違う。剣の技量もさることながら、それとは違う力で以って、より多くの命を救う男だ。それだけの器を見た。儂の中にくすぶるわずかな灯火は、そんな人物の命を守るために費やしたい。それが答えだ」
リラから見て、テスタの目には偽りの光は無いように見えた。少なくとも、メトゥスの目に宿っていたような闇も無ければ、ウリナの目にあったような濁りもない。
アルは一度言葉を呑み、それからトリステスを一瞥し、視線をテスタへと戻した。
「お前の剣を受け取ろう」
「殿下」
「お前の気持ちは分からないわけじゃない、トリステス。だが俺には、この男から死に場所を取り上げた責任がある」
ただ、とアルは続けた。
「簡単に信頼を勝ち得るとは思わないことだ。その両手が血に濡れていることを問い質すことはしないが、お前の存在によって仲間達に害が及ぶ可能性があれば、俺は迷わず首を斬る」
「構わぬ。あのとき儂は言ったはずだ、とどめをさせと。それは今この瞬間にでも、あるいはそなたの気まぐれにでもよい」
明朝また来る、と言ってテスタはその場を去った。
トリステスは何か言いたげだったが、その言葉をすべて飲み込んだらしく、自分の旅支度を終えると部屋へと引っ込んで行った。
リラがふぅ、と息を吐きながらアルを見ると、目が合った。
「緊張しました」
「向こうは暗殺者だからな。纏っている雰囲気は独特だ」
「テスタさんもですけど、トリステスさんが……」
確かにな、とアルが言う。
「一度不覚をとった相手を目の前にして冷静でいるのは難しいものだ――今、俺がナトゥラにやられたときのことを考えただろう」
「そっ、そんなことありませんよ」
明らかに動揺したリラを見て、アルの眉間に皺が寄る。
「リラはすぐに顔に出る。確かに俺は彼に一度不覚をとったが、あの時は遊びのようなものだったからな。実際、次の試合では勝っているし、最終的に剣を使っての戦いでは誰が見ても――」
「紙一重」
「そう、紙一重……ではなく、圧倒的に勝っていただろう。大体、彼は――」
憮然とするアルの反論が続くのを聞き流しながら、リラは先行く不安を少なからず感じていた。
翌朝、ナトゥラが早い時間に家を訪ねてきて、紹介状の入った革のケースをリラに渡した。
「本当はご同行できればよかったのですが、ゲンマの街の情勢が大きく変わったせいで、サクスムを離れるわけにはいかないのです。申し訳ありません」
「大丈夫です。忙しいはずなのに、ひと月もの間、こっちに留まってくれてありがとうございました。それって、ずっとアルさんに付き合ってくれていたからなんですよね」
リラが言うと、ナトゥラは頬を掻いて頷いた。
「正確に言えば、それが貴女のためになると思えたのです。以前も申しましたが、彼との関係に疲れたなら、いつでもサクスムの街を訪れてください。私はいつまでも待っていますから」
「まったく、よくもまあ自然な流れで手を掴むものだ」
離れた場所でそれを見ていたアルが、呆れ顔でぽつりと呟く。
「まだまだ本気ということね、彼は。純情一途だわ」
「さて、もう一人一途な男が来たな」
相変わらず独特の気配を漂わせて、老剣士が音もなく姿を見せた。
「よい頃合いだったようだな」
「ギプスムまでは道が険しいらしいわ。せいぜい遅れないようにしてね、おじいさん」
トリステスの冷たい視線に、テスタは小さく肩を竦めてみせる。
「よろしくお願いします、テスタさん」
「こちらこそよろしく頼む」
微笑みとも言えないわずかな口元の変化だった。
ナトゥラや、滞在中お世話になった人達に別れを告げ、顔触れの変化したウェルサス・ポプリ音楽団は中央都市ゲンマを後にした。
「そういえば聞いていなかったけれど、おじいさん」
「なんだ、小娘」
「貴方、何か楽器は扱えるの? 一応、貴方も音楽団の一員なのだけれど」
「楽器? ふむ……」
馬を繰りながら、テスタが顎の髭を撫でる。
「長いこと触れていないが、ステラ・ミラに居た頃は手慰みにと笛を吹いてはいたな」
複雑そうな表情のトリステスを見て、リラとアルは思わず笑い声を上げてしまった。