第百六話 見覚えのあるもの
テーブルの上には、霊銀、魔晶石、金属製のつまみバサミ、そして小さなナイフが置かれている。
「途中までは、通常の霊銀薬の造り方と同じだ。水の中に霊銀と魔晶石を入れ、魔晶石を水に溶かす」
シュウシュウと泡を立てて、透明な魔晶石が輪郭を失っていく。初めて見るであろうトリステスは、その様子を凝視していた。
「――と、ここで霊銀を抜く。すると、魔晶石だけが溶けた状態の水が出来上がる。当たり前だけどな」
「これにはどんな用途があるんだ?」
「何もない、と思われていたのさ。これをそのまま放置すると、また魔晶石が結晶化するだけだ。だが、俺様は発見した。その前にウリナのお遊びに付き合ってたせいで、指から出血していたのを忘れていてな。それが一滴、この中にしたたり落ちたのさ」
言った通りのことを、メトゥスは再現してみせた。
ぽちゃん、と赤い雫が垂れると、透明だった液体はみるみる赤黒く変色し、水嵩を大きく減らした。
そのおぞましさに、リラは顔を顰めた。
これだ。
この街に来てからずっと感じている、得体の知れない感覚は、この液体から同様に感じられる。おそらく、この液体が街中に散布されているのだ。だから、街中で瘴疽の患者が増えたに違いない。
グラスを手に持ち、メトゥスはにやりと笑って見せた。
「これが完成品だ。色々と試している内に、この美しい液体は、降りかかった部位に瘴疽をもたらすことが分かった。揮発性も高く、空気中に漂って瘴気のように人を侵しもする。あるいは、飲み込めば体内に瘴気を発生させ、強い瘴疽を発生させる――こんな感じでなぁっ!」
振り下ろされた腕の先で、グラスが割れ、赤黒い液体が飛散する。
反射的に身を守った三人に背を向けて、メトゥスが走り出した。その途中、無造作に研究室のものを掴みながら、それ以外のものも撒き散らした。
「待てっ!!」
「馬鹿どもが! 天下のフォルミードに歯向かったことを後悔させてやるぜ!!」
勢いそのままに研究室を出て、メトゥスが階下へとおりていく。
「時間を稼いでいたのね。部下達を起こして、私達を始末させる気だわ」
「救いようのない男だ。思い知らせてやる」
剣を抜いて下に向かうアルの腕を、リラはハッとして引っ張った。
「待ってください、アルさん!」
「どうした? 君の力のおかげで、別に瘴疽には罹っていないと思うが――」
「チャンスですよ!」
その言葉に、アルも同じ閃きを覚える。
「そうか。今なら奴の寝室をあらためられる」
「聖女の『銀の爪』や大聖堂との取引の書状を見つけることができれば、動かぬ証拠になります。それさえあれば、フォルミード商会自体に打撃を与えられるんですよね?」
「アル。ここに侵入するために使ったという秘薬は、まだ残っているの?」
アルは小さく頷く。
「ああ。だが、残り僅かしかない。風に撒いてもほとんど効果は得られないぞ」
「建物一棟くらい?」
「せいぜいひとフロアといったところだ」
トリステスが微笑を浮かべる。
「充分よ。幸い、ここへ来る階段はあの一箇所しかないようだから、それを使って私が迎え撃つわ。ふたりは上で、必要な物を見つけ出してきて」
「気を付けろよ、トリステス」
「御意」
アルに手を引かれ、リラはまだ目にしたことのない三階へとあがっていった。
ステップの途中から、むせるようなアロマの匂いが立ち込めてくる。
「気分が悪くなりそうです」
「同感だ。急ごう」
三階は、広い寝室だけの造りになっていた。
中央に天蓋付きのだだっ広い丸ベッドがあり、その周辺に衣服が散乱している。香の匂いにまじって、すえた異臭も漂っている。
リラは目を細くしながら、きょろきょろと周囲を素早く見ていく。
丁寧に彫刻を施された飾りテーブルに目が留まり、近付いて、棚を開ける。
「あっ――」
「どうした?」
「……見覚えのあるものを見つけました」
棚の中から、封筒のひとつを取り出す。
「それは?」
「大聖堂で使われている封筒です」
「なぜ分かる?」
「ここを見てください」
「封蝋か。発行者が誰かを示すために特有のデザインを施した印章――これは、十本の線か? 誰のものなんだ?」
「大聖堂における最高権力者、つまり法王です。銀色の蝋と十の爪は、まさに聖女を表しています。そして、これがステラ・ミラ以外に出ることはないはず。フォルミード商会と大聖堂、いえ、法王は繋がっています」
なるほど、とアルは大きく頷いた。
「それも証拠になりうるな。文面をひとつひとつ確かめている時間はないが、めぼしいものを持てる分だけ持っていこう」
二人はその棚に保管されていた様々な品を、手近にあった頑丈そうな、そして清潔そうな革袋に放り、淫靡な寝室を後にした。
二階から一階へと下がる階段には、トリステスが警戒感を持って構えているが、リラとアルが最後に見た姿から何の変化もないように見えた。
「首尾はどう?」
「上々だ。まるで空き巣か火事場泥棒にでもなったような気分だったがな。敵方には動きがなかったのか?」
トリステスがこくりと頷く。
「いつ来てもいいように準備したのだけれど。下で陣形を整えて、待ち構えているのかもしれないわね」
「鍛え上げられた軍というわけではない。真正面から打ち崩してやろう」