5
人間、できることとできないことがある。
いや、人間だけじゃない。
ミミズだって、オケラだって、はたまた亀や石だってそうだ。
そして私の乏しい経験上では、できないことを頼まれたら、早いうちにはっきり断った方がいい。
それが結局一番お互いのためになると、いつかどこかで誰かが言っていた。
「オブシディアン。」
名前を呼ぶと、オブシディアンは苦笑混じりのため息をついた。首元に息がかかって、くすぐったい。
「分かる気がするよ、ケーシャの言いたいことは。
でも、僕が頼みたいのは、ケーシャには本当に簡単なことなんだ。
ケーシャがその気になってくれさえすれば。」
オブシディアンには悪いが、私の抱いた感じを一言で言うなら、怪しいなあ、だった。
昔、うっかり宗教の勧誘に絡まれてしまった時のことを思い出す。
その時は早足でその場を離れさえすればよかったが、今の私は逃げることができない。
言葉で納得してもらうしかないが、そもそもその余地はあるのだろうか。
彼は、今も一方的に私をどこかへ移動させ続けているというのに。
「まず、そもそも、よくわかりません。
危険、って、一体なんですか?
私自身も、自分の状況が全然わかってないですし。
本当に、なにも覚えてないんです。
そんな状況で、あなたを助けられることなんてないと思うんですけど。」
嘘はない。全て、本当のことだ。
ふう、とオブシディアンが息をつく。
「僕だって、全てを知って、理解できているわけじゃないんだけどね。
——あなたの危険が分かったのは、これが割れたからだ。
もとはケーシャのだよ。どうだろう、思い出せないかな?」
ややあって、布の中にそっと差し込まれたのは、おそらくピアスだった。
細かな金のレースが、緑がかった乳白色の石をくるみ、そのまま長い金色のフリンジへと続くデザイン、だったのだろう。
しかし無惨にも、レースにくるまれた大きな石は、不揃いの大きさに割れてしまっている。
残念ながら、見覚えはない。なにも感じることはない。
だが、きれいなピアスだった。
「見た?」
「はい。」
返事をすると、ピアスはゆっくりと引き抜かれた。かすかに、甘い香りが残る。
「——覚えてないだろうけど、別れるとき、ケーシャが僕にくれたんだよ。
これにはもともと身代わりのまじないがかけてあって、ケーシャに死の危険が迫ったとき、代わりに割れるようになっていた。」
「死の危険。」
オウムのように繰り返してみるが、正直ぴんとこない。オブシディアンは私を待たずに話を続ける。
「その衝撃で、僕は目覚めたみたいなんだ。
過程はあまり大事じゃないから端折るけど、僕は、急いでケーシャを探した。
そしたら、ケーシャは水糸葉宮の奥庭なんかにいたから、焦ったよ。
たぶん覚えてないだろうけど、あそこの川は禁足地だ。
普通はまず近づけないし、近づいたとしたらただではすまされない。」
本当だろうか。あんなにあたたかくてきれいな場所が、そんなに危険な場所だとは思いもしなかった。
確かに、生き物の気配が全くないのはなぜだろうと思ってはいたが。
「それで、これも詳細は端折るけど、僕はいくつかの条件を満たして、さっきのオアシスと時止まりの川を繋いだ。
そしてケーシャをここに連れてきた、ってわけだ。」
離れた場所どうしを繋ぐなど、私の常識の範囲外のことだが、それもオブシディアンの言うまじないの力なのだろうか。
そして、オブシディアンの言うことが本当なら、あの白い手は、なぜ私をそんな場所へ連れていったのだろうか。
——わからない。
「やっぱり、なにも思い出せません。
私が覚えているのは、今ここに来る前に、人間として生きていたときのことだけ。
本当は、まだ死ぬはずではなかったみたいなんです。
でも、どうしてかはわからないけれど死んでしまった後、大きな蜘蛛の巣で白い手と会って、それであの川へ連れていかれたんです。
その時は、確かに私は石だったはずなんですけど。」
「——そうか。」
まとまりのない私の話を聞いて、オブシディアンは、はっとしたような声を上げた。
「ケーシャをあそこへ連れて行ったのは、もしかして、罔象さまか。
罔象さまなら、確かにあそこへ自由に出入りできる。
それに、人間として生きていた、ってことは。
ケーシャは、水の世界で生きていたってことかな?」
水の世界とは、何だろう。
地球は水の惑星とも言われていたが、そのことだろうか。
「——わかりません。」
答えると、静かな溜め息が聞こえた。
「——そうだったね。今のケーシャにわかるはずがないのに。
ごめんね。」
まるで、小さな子供のように頼りなく呟いて、オブシディアンは沈黙した。
なんだか、急に後ろめたくなる。
私のせい、かどうかすら分からないのだが、オブシディアンの傷ついた声は、妙に私を動揺させた。
思い出せないのは、やはり私が原因なのだろうか。
白い手——罔象さま?——も、私は3度死んでいると言っていた。つまり、3回分の生の記憶が、本来私にはあるはずなのだろうか。
直近の1回が人間としての生なのだろうが、残り2回のことは、あったことすら覚えていない。
「ケーシャは確かに、ちょっと普通の状態じゃないみたいだね。記憶がないことも、他にも、色々。
原因には心あたりがなくもないけど、確証はないから今話すのはやめておく。
ただ、普通は、この世界に帰ってきたら、魂に紐づいた記憶は全部戻るはずなんだ。
——たとえ、その魂がどんなにすり減っていても。」
体が傾いた。慌てて首を伸ばして布の端を噛む。オブシディアンの手が、外からそっと支えてくれた。
「そろそろ降りるよ。続きは後だ。」
どこに降りるのだろう。布にくるまれているので、ここがどこだかさっぱり分からない。
「じっとしててね。少しうるさいかもしれないけど、気をつけて。」
じっとしていても何も、文字通り手も足も出ないのでそうするしかない。
それに、何に気をつければいいというのだ。
文句を言う前に、ふわりとした浮遊感に包まれた。
——もしかして、私、また落ちてる?
多分、そうなのだろう。
オブシディアンの手が、私の甲羅を掴む。
「いくよ。」
次の瞬間、遮られていた視界が急にひらけたかと思うと、凄まじい風切り音に包まれた。
眼下に、無数の巨岩に覆われた、乾いた大地が広がっている。
そのうちの、特に大きな双つの岩の隙間へ、私たちは凄まじい勢いで落下していた。
ただでさえ暗い夜の中、その隙間はさらに濃い闇に沈み、何があるか全く見えない。
「ギャアアアアアアアアア!」
我慢できなかった。恥も外聞もなく、私は絶叫した。
「あははははは! ケーシャ! いい声!」
後で覚えてろよと涙目で振り返ると、オブシディアンは、白い布をまるでムササビの飛膜のように広げ、風の勢いを殺していた。
風の音だろうか。高い音が耳元で聞こえる。まるで何かの歌のようだ。
星明かりの中、ほんのりと光る白い布越しに、上空を旋回する巨鳥の影が見える。
白い布のふちに縫い取られた複雑な紋様が、淡く光っている。
おそらくこれも、オブシディアンのまじないのひとつなのだろう。
オブシディアンの顔が、濃い影に包まれた。
両側から迫る断崖が、夜空を細長く切り取ってゆく。
まるで、星の川のようだ。
いつくるか分からない着地に備えて目をつむる直前、巨鳥がその川の上を横切っていった。