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自分にとって、全く想定外のことが起きたら、どうするか。
まずは受け止めることが重要である、といつかどこかで誰かが言っていた。
慌ててはいけない。落ち着いて事実を認識し、それに基づいて判断するのだ。
「私は、さっきまで確かに、石でした。
が、今見ると、どうも、石ではなさそうです。」
なぜか、片言になる。どうやら全く落ち着けてはいないようだ。
「うん、そうみたいだね。」
苦笑いを浮かべながら、老爺も頷いた。
「見る?」
言いながら、老爺は私を載せた手のひらをゆっくり下ろし、水面を見せてくれた。
澄んだ水に映るのは、なるほど、小さな亀によく似た生き物だったが、甲羅らしき塊から伸びているのは、小さな首だけだ。
手足も出せるのかとじたばたもがいてみたが、うまくいかなかった。
「確かに亀っぽいですけど、手足が出せないんですが。」
「さあ、それは僕にはなんとも。最初からないことだってあるでしょ。あったけど千切れちゃったのかも。」
老爺は、こともなげに恐ろしいことを言う。
そして、物憂げな微笑みを浮かべながら、夜空を仰ぎ見た。
血のように赤かった月は、色褪せ、半ば地平線の向こうに沈みかけている。
まるで夜明けのように、空の端が浅葱色に明るみ始めていた。
ついさっきまで真夜中だと思っていたのだが、違ったのだろうか。
「ああ、ゆっくりしすぎたね。時間がない。」
ひょいと立ち上がって、老爺は歩き出した。
軽い水音を立てて岸辺に上がると、濡れた足が砂にまみれるのも構わず、裸足のまま歩き続ける。
少し歩いたところにある、ひときわ高い樹の下で、老爺は立ち止まった。
樹の根方に無造作に転がっていた靴を拾い、腰紐にはさむと、私を片手に握ったまま、するすると樹によじ登る。
老爺の軽い身のこなしにも驚いたが、その靴にびっしりと施された刺繍に、私は目を奪われた。
靴の元の地が見えなくなるほど、色とりどりの糸で隙間なく紋様が縫い取られている。
これは、金糸、いや、銀糸だろうか。まるで自ら輝いているように、ゆらゆら揺らめく虹色の光をまとっている。
同じように、不思議にきらめくビーズのようなものも使われていて、とても美しい。
そういえば、目立たないが、老爺の服の袖や裾にも、かなり精緻な刺繍が施されていた。
まるで、前に美術館で見た、王族の衣装のようだ。
私がぼんやりしている間にも、老爺はするすると樹を登り続ける。
地面からかなり遠ざかった頃、夜目にも眩しい白い布の掛けてある枝の上で、老爺は止まった。
白い布をぐるぐる体に巻き付けると、小さく口笛を吹く。
間をおかず、くるる、と応える鳴き声とともに、さっきまで確かに何もなかったはずの闇から、巨大な茶色い鳥の顔が突き出した。
一体、いつの間にだろう。
ひとつ下の枝に、鷲に似た巨大な鳥がとまっていた。
——私の息も、止まってしまいそうだ。
巨鳥は、黄色く光る眼をまたたかせ、終わりはじめた夜の中へと静かに翼を広げた。
「話は、後にしよう。
それじゃ、頼むよ。」
一瞬、落ちたかと思った。
しかし、そこは巨鳥の背の上だった。
私は、老爺の手に握られたまま、夜明けを背に、暗く沈み続ける夜へと飛び立った。
◇◇◇
私の甲羅は老爺の手に固定されていたが、首は自由だった。
吹き付ける冷たい風に目を細めながら、眼下を覗こうと首を伸ばす。
巨鳥の翼がとても大きいので、見える範囲はごく僅かだが、やはり砂、砂、砂ばかりだ。
風に吹かれてゆるやかに流れる砂丘が、謎めいた陰影を描き出している。
遠く、背に、夜明けの空が鮮やかなグラデーションを描きはじめているのが、とてもきれいだ。
それにしても、腑に落ちないことが多すぎた。
「どうして、こんなに早く、夜が明けるんですか?」
訊ねると、老爺は私を首元の布の下に押し込んだ。少しだが、風の音が静かになる。
「聞こえなかった。もう一度言って。」
私は、声を張りあげた。
「ずいぶん早く、夜が明ける気がするんですけど。
ついさっきまで、真夜中だったのに。」
くぐもったような笑い声とともに、生あたたかい息がかかる。
「時差みたいなものかな。あなたのいた場所と、ここは、ものすごく遠いから。」
「私のいた場所?
あのオアシスじゃなくて?」
「違うよ。
参ったね、それにも気づいてなかったのか。
ケーシャはずいぶん呑気だな。」
「ケーシャ?」
「あなたのこと。
僕はそう呼ばせてもらうよ。
どうも、今は僕の方があなたのことをよく知ってるみたいだから。」
それは一体、どう言う意味だろう。
確かに、最近の私については、当の私自身も訳がわからなくなっていたところではあるが。
「あなたは、誰?
どうして、私のことを知ってるんですか?」
ふふ、とあたたかな息がかかった。
「僕のことは、オブシディアンって呼んで。」
確か、オブシディアンとは何かの石の名前だっただろうか。
構わないのだが、長い。舌を噛みそうだ。
「オブシディアンさんは、どうして私のことを知ってるんですか?」
オブシディアンは、くすくす笑った。
「呼び捨てでいいよ。舌を噛みそうでしょ。」
ひとしきりくすくす笑いをした後、オブシディアンは小さくため息をついた。
「ケーシャが全部思い出してくれるなら、いいんだけどな。
——昔、僕たち、一緒にいたんだよ。それなりに、長い間。」
「長い間?」
「そう。長い間。
だから、ケーシャは、僕のことをよく知っていた。
僕も、ケーシャのことをよく知っている。——多分ね。」
そこで、彼は、短い間沈黙した。
「——ねえ、ケーシャ。
実は僕も、まだ迷ってるんだ。
正直、あなたには本当のことを話さない方がいいんじゃないか、っていう気もしてる。
話したところで、いたずらにあなたに苦しい思いをさせるだけなんじゃないか、って。」
——いや、待ってほしい。
これではまるで、死病の告知のようだ。
オブシディアンの顔は見えない。
まるで決壊寸前の川の水のように、不安が激しくせり上がってくる。
「——でも。
僕の知ってるケーシャなら、僕がケーシャのために話さなかった、なんて言ったら、たぶん僕のこと、半殺しにしようとすると思うんだ。」
「はあ。」
過去の私は、一体、どういう存在だったのだろうか。
「だから、これは僕のためにする話だ。
信じるも、信じないも、ケーシャの自由だ。
それに、聞きたくなくなったら、そう言ってほしい。
そこで、僕たちの話はおしまいにしよう。」
「——わかった。」
よくわからないが、わかった。
オブシディアンが、ふ、と微笑んだ気配がした。
「まず、僕が、こうしてケーシャを探していた理由から話そう。
どうやら僕は、長い間、睡っていたようなんだ。
でも、たぶん、あなたが危険にさらされたことで、目覚めることができた。
だから僕は、もし必要なら、あなたを助けようと思った。
それが理由のひとつだ。
それと、——そのかわりにってわけじゃないし、まだ迷っているんだけれど。
できればほんの少しだけ、ケーシャに助けてほしいことがあるからなんだ。」
それは一体、なんだろう。
私は、うっすらした不安に包まれた。