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 怪鳥が、鳴いている。

 夜が更けたのだ。


 私は浅い眠りから覚め、背伸びをした。

 月が出ているのか、水はうっすら青く光を帯び、水底も僅かに明るんでいる。普段はもっとあたりは暗く、何も見えないほどなのだが。

 もの珍しさに、私は辺りをぐるりと見回した。


「ん?」


 思わず声をあげる。


 遠くに小さく、浅葱(あさぎ)色の光が見えたのだ。ゆらゆらと、水の中を揺れながら動いているように見える。


 生き物だろうか。

 蛍——なら、水の中は泳げまい。

 ホタルイカ——は、海の生き物だ。

 チョウチンアンコウ、クラゲ、デンキナマズ、——さすが私だ、思いつくもの全て、ほぼ確実に間違っている。

 

 あれは一体、なんだろう?


 じっと目を凝らしていたせいで、すっかり周りへの注意がおろそかになっていた。

 だから、突如耳元で轟音が鳴りひびき、ものすごいスピードで視界が回転したとき、私は心臓が止まるくらい驚いた——心臓、もうないけど。


 何かが水の中に落ちてきて、その衝撃で吹き飛ばされたのだ、と気づいたのは、全身を薄く覆う痛みに我にかえってからだった。

 驚くべきことに、硬いはずの石の体が、痛みを訴えている。

 石になってから、一度も外からの痛みを感じたことがなかったのにだ。


 ——まさか、私はまた死ぬのだろうか?


 つい、嫌な想像をしてしまう。

 体がばらばらに割れていたらどうしよう。

 そこまででなくても、ひびくらいは入っているかもしれない。

 石だから自然治癒なんてしないのに、一体どうすればいいのだろう?


 こわごわと、背伸びしてみる。

 幸い、私は粉々になってはいなかった。影になっているところはよく見えないが、目立ったひびなどもなさそうだ。

 そして、さっきまで私がいたはずの場所、白いあわと舞い上がった砂で薄く濁る中に、ゆらりと揺れる黒い影が見えた。


 私を吹き飛ばしたのはあれだ、と直感した。


 じゃば、と音を立てて、影が動く。

 こちらへ近づいてくるようだ。

 じっと目を凝らす。


 これは、——人間の素足だ。

 暗い色の、ズボンのようなものを履いている。すそは一応めくり上げてはいるようだが、すでに水に浸かって濡れていた。


 じゃば、じゃばと音を立てながら、足は水の中を歩いてくる。

 そう、確実に、こちらに近づいてきている。


「——見つけた。見つけた、見つけた、」


 笑みを含んだ低い声が、不思議な抑揚をつけて、歌うように言う。

 水ごしなのに、ひどく鮮明に聞こえてくる。声音は明るいのに、どことなく不気味な響きだ。

 声は、何かの歌を歌い始めた。知らない歌だ。時折鼻歌がまじる。外国語のようで、うまく聞き取れない。


 痛みはおさまったが、今度はだんだん気分が悪くなってきた。吐きそうな感じだ。石なので吐けないが。

 多分、この歌のせいだ。

 聴くのをやめたかったが、手がないので耳を塞ぐこともできないし、足がないので逃げることもできない。

 まさか、石にこんなデメリットがあったとは。

 今ほど人間に戻りたいと思ったことはなかった。


 なすすべもなく苦しむ私を憐れむように、怪鳥がひときわ高く不吉な鳴き声を上げた。


 まるでそれが合図だったかのように、足は私の目の前で立ち止まった。

 整った形の、きれいな足だ。

 しかし、右の足首を丸く囲む、傷痕のような、刺青のような紋様が目を引く。それを美しいと感じるかどうかは、人を選ぶかもしれない。


 歌声が、止まった。

 広がった一瞬の静寂のあと、水面から伸びてきた手に、私はとうとう掴み取られた。




◇◇◇




 じゃば、という水音とともに、私の体はひんやりした風に包まれた。

 初めての、水の外だ。


 水の外はどんなところか、ずっと想像していた。

 こんなふうにでなかったなら、胸もときめいただろうが、残念ながら気分は最悪だ。

 気持ち悪いし、何より寒い。

 まさか水の外が、こんなに寒いとは思わなかった。

 体が濡れているせいだろうか。それとも、夜の冷え込みのせいだろうか。


 背伸びをし、目を開けてみて、私は絶句した。


 見渡すかぎり、褐色の砂地が続いている。

 砂漠だ。

 つまりここは、オアシスということだろうか。

 背の高い樹々が、私たちのいる水辺をまばらに取り囲んでいる。赤い月が、夜空に滲む血のように浮かんでいた。

 さっきまでの青白い水の中からは、想像もつかない景色だ。


「ごめんごめん。びっくりさせたかな?」


 低い声に、我にかえった。

 私を手のひらに載せ、持ち上げながら話しかけてきたのは、やわらかな微笑みを浮かべた老爺(ろうや)だった。


「……すごく。」


 少し遅れて答えると、老爺は笑みを深くした。金色の虹彩が、細められた目の奥できらめく。

 目尻にも、頬にも、無数の皺が刻みこまれており、まるでそこから闇が滲み出たかのように暗く翳っていた。

 それらの皺から、私はとっさに、彼を老人だと思った。

 しかし、見ているうちにだんだん分からなくなってきた。

 砂漠の強い()()けたような浅黒い肌は、皺こそあるが、不思議とみずみずしく生命力に満ちており、夜風に乱れる長い銀髪にも艶がある。

 何より、水の底で見た足は、老人のものとは思えないほどつるりとして美しかった。


「悪かったね。時間がなくて、急いでたんだよ。今夜を逃したら、しばらくチャンスがなかったから。」


「チャンス?」


「あなたを盗み出すチャンス。」


 悪戯っぽい笑みを浮かべる老爺の瞳は、明るい金色に透き通っている。

 どこか、蠱惑的な瞳だ。

 皺の落とす影さえなければ、魅了されていたかも知れない。


「あなたは、誰? どうして私を探していたんですか?」


 老爺の顔から、笑みが消えた。まるで死体のように力の抜けた、無表情だ。


「——なるほど。そうか。

 あなたは、何も、覚えてないんだね。」


 笑みとともに皺も消え、その顔はまるで若返ったかのように見えた。

 美しい顔だ。

 人形のように整っているわけではないが、どこか人の目を惹きつける。


 しかしその分、(かげ)った瞳の底によどむ暗さが際だった。

 底の見えない崖っぷちに立った時のような、ぞっとするような瞳だ。


 幸い、その顔には、すぐにまたやわらかな笑みが戻ってきた。


「話をする前に教えてほしい。あなたのことは、なんて呼べばいい?」


 ——うーん。


 私は、一瞬迷った。

 確か、悪魔や妖魔の類には、本当の名前を教えるとまずいのではなかっただろうか。

 もちろん、ただのおとぎ話の中での話だが。


 吹き飛ばされた時の痛み。水の中で聞いた歌の、どこか不気味な感じを思い出す。

 こうして微笑む顔を見ていると、本当に、まるきり善良な老爺だ。

 しかし、時々感じる()()()が、どうにも引っかかる。


 ——まあ、いい。

 別に名前を聞かれているわけではないのだ。ただ、呼び名を答えればいいだけだ。


「それじゃ、石、でお願いします。」


 言ってしまってから、我ながらひどい呼び名だなあと思った。

 だが、急に言われても、すぐには思いつかない。

 それに、実際、今、私、石だし。分かりやすさは最高だと思う。


「ええー、っと……。」


 しかし、老爺は、間違えて変なものを飲みこんでしまったように、口を開けたり、閉じたりした。

 また、顔が若返っている。


「——あのさ、理由を聞いてもいい?

 つまり、わざわざ自分をそんなふうに呼ぶ理由、ってことだけど。」


「わざわざ?」


 私も話がうまく飲みこめず、首をかしげた。


「だって、私、石じゃないですか。」


「——いや、違うけど?」


「——えっ?」


 私たちの間に、一瞬、沈黙が流れた。


 なんていうんだったっけ、こういうの。天使が通る、とかいうんだったっけ。

 真顔の謎めいた美しい老爺と向き合いながら、どうでもいいことばかりが頭に浮かんでくる。


 先に口を開いたのは、老爺の方だった。


「だってあなた、亀でしょ。

 ()()

 まさか、気づいてなかったの?」


 私は、改めて老爺の顔を見た。

 真剣な顔をしている。

 念のため、瞳を覗きこんでみたが、全く曇りがない。


 おまけに、よくよく見ると、その瞳には、丸い目をぱちくりさせている謎の生き物の顔が、小さく映りこんでいる!

 亀かどうかは分からないが、確かにこれは、石ではない。


 頭がくらくらする。


 ——うん、気づいていなかった。



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