3
怪鳥が、鳴いている。
夜が更けたのだ。
私は浅い眠りから覚め、背伸びをした。
月が出ているのか、水はうっすら青く光を帯び、水底も僅かに明るんでいる。普段はもっとあたりは暗く、何も見えないほどなのだが。
もの珍しさに、私は辺りをぐるりと見回した。
「ん?」
思わず声をあげる。
遠くに小さく、浅葱色の光が見えたのだ。ゆらゆらと、水の中を揺れながら動いているように見える。
生き物だろうか。
蛍——なら、水の中は泳げまい。
ホタルイカ——は、海の生き物だ。
チョウチンアンコウ、クラゲ、デンキナマズ、——さすが私だ、思いつくもの全て、ほぼ確実に間違っている。
あれは一体、なんだろう?
じっと目を凝らしていたせいで、すっかり周りへの注意がおろそかになっていた。
だから、突如耳元で轟音が鳴りひびき、ものすごいスピードで視界が回転したとき、私は心臓が止まるくらい驚いた——心臓、もうないけど。
何かが水の中に落ちてきて、その衝撃で吹き飛ばされたのだ、と気づいたのは、全身を薄く覆う痛みに我にかえってからだった。
驚くべきことに、硬いはずの石の体が、痛みを訴えている。
石になってから、一度も外からの痛みを感じたことがなかったのにだ。
——まさか、私はまた死ぬのだろうか?
つい、嫌な想像をしてしまう。
体がばらばらに割れていたらどうしよう。
そこまででなくても、ひびくらいは入っているかもしれない。
石だから自然治癒なんてしないのに、一体どうすればいいのだろう?
こわごわと、背伸びしてみる。
幸い、私は粉々になってはいなかった。影になっているところはよく見えないが、目立ったひびなどもなさそうだ。
そして、さっきまで私がいたはずの場所、白いあわと舞い上がった砂で薄く濁る中に、ゆらりと揺れる黒い影が見えた。
私を吹き飛ばしたのはあれだ、と直感した。
じゃば、と音を立てて、影が動く。
こちらへ近づいてくるようだ。
じっと目を凝らす。
これは、——人間の素足だ。
暗い色の、ズボンのようなものを履いている。すそは一応めくり上げてはいるようだが、すでに水に浸かって濡れていた。
じゃば、じゃばと音を立てながら、足は水の中を歩いてくる。
そう、確実に、こちらに近づいてきている。
「——見つけた。見つけた、見つけた、」
笑みを含んだ低い声が、不思議な抑揚をつけて、歌うように言う。
水ごしなのに、ひどく鮮明に聞こえてくる。声音は明るいのに、どことなく不気味な響きだ。
声は、何かの歌を歌い始めた。知らない歌だ。時折鼻歌がまじる。外国語のようで、うまく聞き取れない。
痛みはおさまったが、今度はだんだん気分が悪くなってきた。吐きそうな感じだ。石なので吐けないが。
多分、この歌のせいだ。
聴くのをやめたかったが、手がないので耳を塞ぐこともできないし、足がないので逃げることもできない。
まさか、石にこんなデメリットがあったとは。
今ほど人間に戻りたいと思ったことはなかった。
なすすべもなく苦しむ私を憐れむように、怪鳥がひときわ高く不吉な鳴き声を上げた。
まるでそれが合図だったかのように、足は私の目の前で立ち止まった。
整った形の、きれいな足だ。
しかし、右の足首を丸く囲む、傷痕のような、刺青のような紋様が目を引く。それを美しいと感じるかどうかは、人を選ぶかもしれない。
歌声が、止まった。
広がった一瞬の静寂のあと、水面から伸びてきた手に、私はとうとう掴み取られた。
◇◇◇
じゃば、という水音とともに、私の体はひんやりした風に包まれた。
初めての、水の外だ。
水の外はどんなところか、ずっと想像していた。
こんなふうにでなかったなら、胸もときめいただろうが、残念ながら気分は最悪だ。
気持ち悪いし、何より寒い。
まさか水の外が、こんなに寒いとは思わなかった。
体が濡れているせいだろうか。それとも、夜の冷え込みのせいだろうか。
背伸びをし、目を開けてみて、私は絶句した。
見渡すかぎり、褐色の砂地が続いている。
砂漠だ。
つまりここは、オアシスということだろうか。
背の高い樹々が、私たちのいる水辺をまばらに取り囲んでいる。赤い月が、夜空に滲む血のように浮かんでいた。
さっきまでの青白い水の中からは、想像もつかない景色だ。
「ごめんごめん。びっくりさせたかな?」
低い声に、我にかえった。
私を手のひらに載せ、持ち上げながら話しかけてきたのは、やわらかな微笑みを浮かべた老爺だった。
「……すごく。」
少し遅れて答えると、老爺は笑みを深くした。金色の虹彩が、細められた目の奥できらめく。
目尻にも、頬にも、無数の皺が刻みこまれており、まるでそこから闇が滲み出たかのように暗く翳っていた。
それらの皺から、私はとっさに、彼を老人だと思った。
しかし、見ているうちにだんだん分からなくなってきた。
砂漠の強い陽に灼けたような浅黒い肌は、皺こそあるが、不思議とみずみずしく生命力に満ちており、夜風に乱れる長い銀髪にも艶がある。
何より、水の底で見た足は、老人のものとは思えないほどつるりとして美しかった。
「悪かったね。時間がなくて、急いでたんだよ。今夜を逃したら、しばらくチャンスがなかったから。」
「チャンス?」
「あなたを盗み出すチャンス。」
悪戯っぽい笑みを浮かべる老爺の瞳は、明るい金色に透き通っている。
どこか、蠱惑的な瞳だ。
皺の落とす影さえなければ、魅了されていたかも知れない。
「あなたは、誰? どうして私を探していたんですか?」
老爺の顔から、笑みが消えた。まるで死体のように力の抜けた、無表情だ。
「——なるほど。そうか。
あなたは、何も、覚えてないんだね。」
笑みとともに皺も消え、その顔はまるで若返ったかのように見えた。
美しい顔だ。
人形のように整っているわけではないが、どこか人の目を惹きつける。
しかしその分、翳った瞳の底によどむ暗さが際だった。
底の見えない崖っぷちに立った時のような、ぞっとするような瞳だ。
幸い、その顔には、すぐにまたやわらかな笑みが戻ってきた。
「話をする前に教えてほしい。あなたのことは、なんて呼べばいい?」
——うーん。
私は、一瞬迷った。
確か、悪魔や妖魔の類には、本当の名前を教えるとまずいのではなかっただろうか。
もちろん、ただのおとぎ話の中での話だが。
吹き飛ばされた時の痛み。水の中で聞いた歌の、どこか不気味な感じを思い出す。
こうして微笑む顔を見ていると、本当に、まるきり善良な老爺だ。
しかし、時々感じるなにかが、どうにも引っかかる。
——まあ、いい。
別に名前を聞かれているわけではないのだ。ただ、呼び名を答えればいいだけだ。
「それじゃ、石、でお願いします。」
言ってしまってから、我ながらひどい呼び名だなあと思った。
だが、急に言われても、すぐには思いつかない。
それに、実際、今、私、石だし。分かりやすさは最高だと思う。
「ええー、っと……。」
しかし、老爺は、間違えて変なものを飲みこんでしまったように、口を開けたり、閉じたりした。
また、顔が若返っている。
「——あのさ、理由を聞いてもいい?
つまり、わざわざ自分をそんなふうに呼ぶ理由、ってことだけど。」
「わざわざ?」
私も話がうまく飲みこめず、首をかしげた。
「だって、私、石じゃないですか。」
「——いや、違うけど?」
「——えっ?」
私たちの間に、一瞬、沈黙が流れた。
なんていうんだったっけ、こういうの。天使が通る、とかいうんだったっけ。
真顔の謎めいた美しい老爺と向き合いながら、どうでもいいことばかりが頭に浮かんでくる。
先に口を開いたのは、老爺の方だった。
「だってあなた、亀でしょ。
かめ。
まさか、気づいてなかったの?」
私は、改めて老爺の顔を見た。
真剣な顔をしている。
念のため、瞳を覗きこんでみたが、全く曇りがない。
おまけに、よくよく見ると、その瞳には、丸い目をぱちくりさせている謎の生き物の顔が、小さく映りこんでいる!
亀かどうかは分からないが、確かにこれは、石ではない。
頭がくらくらする。
——うん、気づいていなかった。