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そして目覚めると、そこは死後の世界だった。
なぜ死後の世界だと分かったのか?
一言で言うならば、説明してもらったから、ということになるのだろうか。
辺りは真っ白な、ふわふわとした霞のようなものに包まれていた。
見れば見るほど現実感がなくなる白さで、どういうわけか足元はよく見えなかった。
まるで地面を踏みしめている心地がしなかったので、私はあのクラシックな足のない幽霊スタイルだったのかも知れない。
そして私の目の前には、雲のような蜘蛛がいた。
冗談で言っているわけではない。
その丸い胴体は、通り雨を運ぶ薄墨色の雲のように、ふんわりと柔らかそうで、外周部が透けて見えた。
小山のように大きな蜘蛛なので、本当に雲を見上げるような具合だ。
しかしそれが雲でないことは、天上に伸び、折れ曲がって地面へと突き刺さる八本の脚が示していた。
それぞれの脚には、まるで虹のように鮮やかな光の帯がまとわりついている。小ぶりな頭部の中央に整然と並ぶ八個の瞳も、まばゆいばかりの七色にきらめいていた。
口があったなら、ぽかんと開いていただろう。
最初に思い浮かんだのは、水神、という言葉だった。
これまでの私のイメージでは、水神とは龍や蛇など長い姿のものだったが、この蜘蛛には不思議とその言葉がしっくりきた。
しかし蜘蛛は、その神々しさに不似合いな、どこか焦ったような様子でもじもじと前脚を摺り合わせると、こう口火を切ったのだった。
「まことに申し訳ありません。
さぞ驚かれたことと思いますが、少々説明のお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
話しかけている先が私かどうか、今ひとつ確信が持てなかった。だが辺りは真っ白で、他に影もない。とりあえず私は頷いた。頷けたかどうかは分からなかったが。
蜘蛛は、そのふわふわした胴体をふわりと縦に揺らし、言葉を続けた。
「結論から申しますと、ここは、いわゆる、死の世界です。
どうやら、あなたの生糸を、私が誤って切ってしまったようなのです。
本当に、本当に、申し訳ありません。
とても償いには足りないと存じてはおりますが、切れ端の処理は、責任を持ってさせていただきますので……、」
蜘蛛の説明は、立板に水を流すがごとく続いた。
それはありがたいのだが、如何せん、彼は焦りすぎているようだった。
私が話の前提条件となる知識を持ちあわせていないことを、すっかり失念しているようだ。口を挟む隙もなく、結局、私が理解できたのは、蜘蛛の言っていることの1%以下だった。
すなわち。
一、私は死んだ。
二、どうやら、神様的なものの手違いによって。
三、今私の置かれた状況は、決して良くはなさそうだ(よく分からないけど、雰囲気的に)。
◇◇◇
私は、死んだ。
私はしばし、その事実を吟味した。
呆然としていた、とも言う。
ただでさえ、疲れすぎていて思考力が低下しているのだ。
死というものがイメージとずいぶん違ったこともあり、どう反応すべきなのかよく分からなかった。
しかし、それにしても。
疲れとは、死んでも取れないものなのか。
感覚が麻痺しているのかもしれないが、今はそれが一番ショックだった。
死とは全ての苦しみからの解放だと信じていたのだが、体感——体もうないけど——してみると、全然そんなことはない。
前と変わらない。どこがとは言えないが、とにかく全体的に痛くて、重い。
つい、溜息をつく。
疲れているときにそうするのはあまりよくないらしいが、ついついついてしまうのが溜息というものなのだ。
突然、蜘蛛のふわふわした体が、ふるりと震えた。
「こ、これは!」
おや。どうかしたのだろうか。
動揺しているらしい蜘蛛のふわふわした体を見る。
本当に、はっとするくらい見事にふわふわだ。色さえもっと白くて、ついでに地面が緑の芝生だったなら、午後のうたたねにぴったりの景色だったことだろう。
かすかに、風が立つ。少し水気を含んだ、やわらかな匂いの風だ。
そうだ、この匂い。
どこかで、かいだことがある。
一体、どこだっただろう?
少し、ぼんやりしていたらしい。
気がつくと、目の前にいたはずの蜘蛛は、私の隣に並び、静かにその身をかがめていた。
そして、今まで蜘蛛のいた場所には、蜘蛛と同じくらい巨大な白い手が、おりてきていた。
◇◇◇
それは、美しい手だった。
手のひらは、こちらに向けられている。
ふっくらと、柔らかそうな手のひらだ。
指はほっそりと長く、透きとおるように白く、みずみずしい。
小指の先が、白銀に光る鱗のようなものに覆われているのが、目をひいた。
手首から上は、ふわふわした白い雲にさえぎられて、よく見えない。
「——これは。」
雲の上から、声が降ってきた。
やや低いが、澄んだ声だ。
決して大声ではないはずなのに、地面がびりびりと震えた。
虹色の光が、目の前で揺らめく。
急に視界が一回転し、私は声にならない声をあげた。
何かあたたかいものが、体の中を——体はないはずなのだが、感覚的に——ゆっくりとめぐる感じがする。
「ごらん。
この魂、まだ3度しか死んでいないはずなのに、軽すぎる。それに、随分、傷んでる。
この子は、生糸の繭に入っていたんでしょう? 妙だね。」
えっ? 今なんて?
色々と衝撃的な内容が含まれていたが、のどに何かを詰め込まれたような感じで、声が出ない。
まるで手術中に麻酔が中途半端に切れて、意識だけ戻ってしまった悲惨な患者のようだ。
四苦八苦する私を知ってか知らずか、蜘蛛は身を低くしたまま答える。
「申し訳ありません。わたしも先ほど気づきまして。」
「そう。——ともかく、これでは、話が変わってくるね。
あなたは、ただの手違いで、予定外にここに来たわけではない、のかもしれない。」
あなた。
それが、自分に向けられた言葉だということに、少し遅れて気づいた。
何かが、私を見ている。
何か、得体の知れないものだ。
背中の毛が、ぞわぞわと逆立った。
「——それにしても。
あなたは、似ているね。
誰かに。
何かに。
——ああ、思い出せない。あと少しなのに。」
白い手が、もどかしげに揺れた。小指の鱗が、光をはじいてきらきらと光る。
「あなたは、思い出せない?
どうして、ここに来たのか。」
声は、私に訊ねた。
だが、そんなことを言われても、わかるわけがない。
私はただ、眠ろうとしていただけだった。
疲れていた。痛くて、重くて、押しつぶされそうだった。
だから休みたかった、それだけだ。
体の奥から、あたたかい何かが、ゆっくりと引き抜かれていく。
寒い。
とても寒い。
寒すぎて死にそうだ——もう死んでるけど。
ああ、それにしても、死、か。
どうして私は、こうして死ななければならなかったのだろうか。
「——わからない。」
気がつくと、わたしは白い手の上にいた。
持ち上げられている。
見上げるような場所にあったはずの蜘蛛の瞳が、ちょうど目の前に見えた。
「ごめんよ、美しい子。
おかしなことを訊いたようだ。忘れておくれ。」
声は、優しく、しかしどこか寂しげに響いた。
私は、どこまでも上へと持ちあげられていった。
蜘蛛の背中が、どんどん遠くなる。
驚くべきことに、さっきまで私たちがいた場所は、白く輝く蜘蛛の巣の上だった。
まるでレースのように複雑な編み模様を描く、広く、丸い巣だ。
きらきらと光る蜘蛛の巣を見ていると、頭がくらくらした。
ふと、声が出た。
「私はこれから、どうなるんでしょうか?」
聞きたいことは山ほどあったが、それ以上声が出てこない。
全てが重くて、思うようにならない。
さっきよりも、随分疲れがひどくなっているようだ。
やわらかく湿った風が、ふう、と吹き抜けた。
「——さて、どうだろうね。実は、わたしにも分からないんだ。
でもとにかく言えるのは、今のあなたは、傷ついて、弱りすぎているってことだよ。」
また、風が吹いた。
ほんのりと、あたたかい。懐かしい匂いだ。
「そうだね……、そうだ。しばらく、ここで休むといい。」
声がそう告げた次の瞬間、私はもう落ち始めていた。
金色の光が、視界いっぱいにひろがる。
ぱちゃり、と何か膜のようなものにぶつかったが、そのまま突き抜け、私は落ち続けた。
そして私は、深く、短い睡りの底に沈んでいった。