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紅い傷の令嬢

作者: あがり

 宴もたけなわ。そんな時には事件が起こる。婚約破棄であったり、決闘であったり。

 今日もそんな波乱が起きるような気がしたのだ。

 皆がちらちら視線を送る中、壁の花と化していた令嬢が声を上げる。


「閣下」


 閣下と呼ばれる人間がここには大勢いる。幾人かが動きを止める中、振り向きもせず杯をあおる「閣下」に向かって黒衣の令嬢は歩み寄った。


「ご機嫌麗しゅう」


 白々しい挨拶を受けて、やっと男は令嬢と対面する。夜会には相応しくない、肌を覆い隠す黒衣とベールを見て、僅かに目を細めた。


「お久しぶりです」


 武人らしく飾り気のない挨拶を返す。その様に何故か令嬢の口元は艶然と歪んだ。血の気のない肌に朱色の口紅が悪目立ちをしている。

 何もかもが不自然で異質だ。令嬢がやってきた時からそれとなく注視していたが、どうやら意図的なものだったようだ。

 レースの手袋で覆われた指が、ベールを摘み引き上げる。

 武人が目を見開いた。

 どこかの御婦人が小さく悲鳴をあげる。


「この傷に、覚えは」


 右頬と鼻にかけて、真新しい切傷が走っていた。抜糸もされていないその傷に、思わず顔を顰める。


「その傷はいったい」

「閣下が、切ったのです」


 今度こそ、武人は驚きを見せる。


「何を言うのですか」

「三日前、貴方は決闘をなさいましたね」


 おそらく、その場にいる全員が俺の方を見た。腫れた頬や切れた唇がより痛み出したような気がして、気を紛らわすために手にしていた酒を口に含む。


「その際に切られたのです。手元でも狂ったのか、他の思惑があったのか」

「まさか。そんなはずはない」

「閣下ともあろう方が、弁解だなんて」


 ベールを下ろし、ため息をつく。


「本当に傷物にしてくれるとは、思いもしませんでした」


 武人を見ると、なかなかに面白い表情をしていた。困惑やら絶望という感情が彼にもあったのだと、感心する。

 ドレスの裾を翻し、令嬢は立ち去る。

 靴音と後ろ姿がすっかり無くなった頃、周囲のどよめきは最高潮となった。


「おい」


 下心を隠せない顔で悪友が近づいてくる。


「なんだよ」

「お前、彼女が近くにいたの知ってたのか」

「知らん」


 確かに俺は武人と決闘とすら言えない私闘をした。結果は見ての通り軽くあしらわれたようだが。

 ようだ、というのは、俺がその時のことをまるで覚えていないからだ。したたかに酒を飲んで、何を思ったのか王国一の兵に挑み、叩き潰された。これは全て屋敷のベッドの上で目覚めた後、真っ青な顔をした父親に聞いたことだ。その後幾らかの手土産を持って武人に謝罪をして丸く済んだと思っていたが、まさかの事態だ。


「あのさ」


 悪友が声をひそめる。


「隊長の刃先が狂うなんて、あり得ると思うか?」

「実際ああなってるんだから、あり得るだろ」

「……本当はお前が切ったんじゃないのか」

「馬鹿言え」


 笑う。

 途端、周囲がこちらを未だ注視していることに気がついた。

 当の近衛隊長は既にいない。当事者の片割れである俺は、取り敢えず残った酒を飲み干してその場を後にした。




 父の怒号で目が覚める。どこから聞いたのやら、一晩で既に夜会での出来事は父の耳に入っていたようだ。


「お前、決闘をしたと言っていただろう」

「一緒に頭も下げに行ったじゃないか」

「……まさか他に怪我人がいたとは。それも伯爵令嬢、傷は顔……」


 頭を抱える父を横目に迎え酒をあおる。二杯目を注いだ途端、手刀を打たれ杯が手から飛んでいった。


「どうしてくれるんだ!」

「俺がやったと決めつけないでくれ」

「じゃああの男がやったのか!?」


 辟易としつつ、諦観もする。誰も彼もが隊長ではなく俺が害したと決めつけているのだろう。自分自身でも、あの夜に何かしでかしてしまっていたのではないかと不安になる程だ。


「……行くぞ」

「どこに」

「伯爵のもとにだ!謝って済むことではないが、何もせずにいるよりはマシなはずだ。酒を飲むな、吐き戻せ!」


 無茶苦茶なことを言い出す父に生返事を返して寝台から離れる。この様子だと大人しく従った方が良さそうだ。気がすむようにしたらいい。

 一方で、令嬢の言葉を思い返す。彼女は確かに、あの武人に傷つけられたと言っていた。その証言を素直に信じるのならば俺には何の非も……いや、争いの発端ぐらいの非はあるか。喧嘩を吹っかけなければ武人が剣を抜くこともなかったはずだ。

 ずきりとあざの残った右目が痛む。何か違和感があった。それを考える前に、落ちた杯を拾って酒を注ぐ。酒精に痛みも違和感も溶けていった。




 酒が入ったまま伯爵邸へと向かう。父が見繕った詫びの品を抱え、伯爵と面会した。

 あまり話すこともない真っ当な貴族の一員である伯爵は、忌々しげな目を向ける。へへへと苦笑いを浮かべると、父が声を荒げた。


「貴様何だその顔は」

「卿、おやめください……今日ここに来た理由はわかっています。娘のことでしょう」


 伯爵はため息をつく。憔悴が顕になった。


「近衛隊長殿との縁は、悪縁になってしまったようです」


 なった、と言うからにはかつては良縁だったのか。

 元から悪縁だったから、令嬢は婚約破棄なんてされたのだろう。

 かつて伯爵令嬢と武人は婚約を交わしていた。無論、家同士の結びつきや政治的な側面の強い婚約だ。それでも皆祝福していただろうし、当の本人である伯爵令嬢は同年代の令嬢から羨ましがられるほどだった。彼女自身も心から喜んでいたのだろう。地味な女ではあるが、一時期は少し色気づいた風であったからだ。

 それがある時、婚約を破棄された。いや、外に出てきた話を鑑みるに、破談自体は時間をかけて進められてきたらしい。全てが露出したのは、何もかもが終わってからだった。

 理由は武人の恋だった。修道院から呼び戻された王家の末妹と、いつの間にか心を通わせていたのだ。元々顔見知りであったとか親同士が友人だったとか何やら恋愛小説じみた出来事があったというような噂もあったが、何にせよ、武人の心は最初から伯爵令嬢のもとには無かったようだ。

 諸々の処分を言い渡され、武人は令嬢の婚約者ではなくなった。非情な男と悲劇の令嬢。そう言われていたのも、ほんの数日だった。

 思い返してみれば、武人には何の不利益もなかった。婚約を解消するために幾らか身銭を切ったとしても、近衛隊長という地位にいる彼には痛くもない。心変わりをしたわけでもなく、寧ろ王妹との関係の方が長く深いというのも風評が落ちなかった理由だろう。何より彼は強い。地位があり、権力がある。多少の後ろ指など気にも介さない。表立って非難する無謀な人間は、まずいなかった。

 先日の令嬢を除いては。

 そうだ。あの破談騒ぎで最も不利益を被ったのは伯爵令嬢だ。婚約者を失い、未来の将軍夫人という地位を失った。先立って取り交わされていた家同士のちょっとした取引も無くなった。後に残ったのは「捨てられた傷物の令嬢」、「愛し合う二人を隔てる邪魔者」といった風評だけだ。

 だからだろうか。ここ最近は見かけることもなかったのだ。


「今は何をしているのです、彼女」


 酔いに任せて聞いてみる。あからさまに伯爵は顔を顰め、父は青くなった。


「……臥せっております。無理もない」

「当時の詳しい話とか聞きましたか?」

「貴方の方が詳しいのではないのでしょうか」


 怒気の滲んだ声に気圧されつつ、笑う。


「恥ずかしながらその時は酔っていたので覚えてないのです。だから私も彼女の証言だけが頼りでして。当然、不愉快なのですよ。婦女子の顔に傷をつけた極悪人だと思われるのは」


 おそらく伯爵も俺を「極悪人」だと思っていた口なのだろう。顔を赤やら紫に変色させ青筋を立てる。


「覚えていない、か。どうやら役には立たないようですね」

「お力になれず申し訳ありません。でも彼女は武人がやったって言ってるのでしょう?信じてあげてくださいよ」


 一瞬、伯爵は目を逸らす。娘の言葉を素直に受け取れない理由でもあるのだろう。何にせよ、俺としては今の主張が変わらなければそれでいい。


「隊長殿よりこっちを責める方が気が楽なのはわかりますがね。もっと大々的に言ってくれませんか。私の名誉回復のためにも」

「貴方は何をしにきたのですか。謝罪をしにきたのか、愚弄しにきたのか、どちらなんだ」

「いや別に……」


 父に連れてこられただけです、とも言いづらい。さっさと退散しようかと思った時、客間のドアが開いた。

 反射的に目を向ける。そして、細める。

 真っ先に視界に入ったのは、あの甚だしい切傷だった。


「……ご機嫌麗しゅう」


 令嬢は挨拶をする。昨晩の暴露の熱はすっかり抜け切っているのか、冷ややかな表情だ。あの凄みさえ感じた微笑みも、今は口の端にも滲んでいない。


「休まなくてもいいのか」


 形ばかり心配そうに伯爵は声をかける。どこかぶっきらぼうなのは、余計なことをしでかした娘への当てつけなのだろうか。


「ええ。お客様が来たのなら、顔を見せておくのも礼儀かと思って」


 そんな顔をか。

 愛想笑いを返しながら、腹の中では嘲笑う。少し神経の細い人間なら令嬢の顔を見ただけで血の気がひくだろう。それほどによく目立つ傷だ。そしていつまでも残る傷だということも、察することができる。

 傷に負ける程度の存在感の瞳が、じとりとこちらを見据える。


「お久しぶりですね。お見舞いか何かでしょうか」


 令嬢の物言いに眉を跳ね上げる。

 こんな人を突き放すような語気の女だったか。


「まあそんなところです」

「……本当のところは、予防線を張りにきたのでしょう」


 お見通しのようだ。わざとらしく肩を竦めると、両者の父親が目を吊り上げる。

 かたや令嬢は口元を隠し、優雅に笑った。


「ご安心を。私はちゃんと覚えております」


 そして笑顔を引っ込め、言い聞かせるような口調で告げる。


「この傷をつけたのは、元婚約者です」

「……滅多なことを言うんじゃない。確証はないだろう」

「確かですとも。それとも、傷と私の言葉以上の証拠があるのですか」


 何とかの証明、か。しどろもどろになる伯爵を見つつ、父に目配せをする。

 これでいいだろう、という意思表示だったのだが、生憎父にはうまく伝わらなかったようだ。


「倅ではないのですね?」


 念を押すように尋ねる父を凄まじい形相で伯爵が睨む。一方の令嬢は再び微笑みを浮かべた。


「ええ、もちろん。この傷は彼ではなく、あの方がつけたのです」


 こちらも念を押すような言葉だった。微笑みがどこか、陶酔のそれに近づく。

 腑に落ちない。

 多少なりともこちらを責める言葉が出てくると思っていたが、一言も無い。令嬢にとって俺は「第三者」でしかないのだろう。

 責められることがないのは喜ぶべきことだ。だが、尻の座りが悪い。

 ともかく、その日は形だけの謝罪のみで伯爵家を後にした。




 翌日の宮殿は令嬢の話で持ちきりだった。俺の「濡れ衣」はまだまだ晴れることもないようで、遠巻きに何やら失礼なことを吐かす同僚もいる。今更下がる信用も無いので、気にせず隠し持った酒を飲む。


「おいおい。伯爵令嬢に詫びは入れたのか」


 こんな時にも話しかけてくる悪友が、杯を攫った。


「やけ酒かよ」

「いつものことだ」

「そうだな」


 悪友は流石に仕事中に飲むほど人間性を失っているわけでは無い。瓶に酒を戻して蓋を閉めた。


「没収」

「なんの権利があって……」

「それよりだな。本当にお前はやってないんだよな」


 むっとする。


「やってない。令嬢もああ言ってるんだから信じてやれよ。みんな冷たいな」

「いやだってさ、あの人の敵にはなりたくないだろ?」


 悪友は声をひそめる。


「……陰で面白がってるやつはいっぱいいるけど」

「お前もそうだろ。気に食わん」

「まあまあ」


 宥められている気もしない。酒は諦めて書類に向かう。


「これがきっかけで、殿下と破談になると思うか?」


 悪友の問いに首を傾ける。


「もしかして王妹殿下を狙ってんのか?お前風情が」

「変な勘繰りはしないでくれよ。もしもだ、もしも」


 そうは言っても下心は隠せていない。

 将軍とのあれこれを差し引けば、王妹は「清廉潔白」な人だ。ただ一つのスキャンダルである破談騒ぎの時ですら、段階を踏んだ手続きと真摯な謝罪で世論を味方につけ、伯爵家を捩じ伏せた。

 そんな彼女が今回の件でどんな反応をするかは興味がある。謝礼を与えて、それで終わりなのだろうか。


「隊長に責任を取らせると思うんだよな」


 暢気に悪友はそう言うが、どうだか。婚約を破棄するほどに、させるほどに、二人は愛し合っているのだ。寧ろ伯爵令嬢を徹底的に調べ上げて、少しでも綻びがあれば追及するだろう。

 そうなれば、嫌でも俺は弾劾に引き摺り出される。ともすればそのまま「加害者」に仕立て上げられるのかもしれない。

 どうにかして逃げられないか。

 王妹の素晴らしさを語り出す悪友をよそに考え込む。酒が手元に無いせいか、暗鬱な予想ばかりが湧きあがった。


「……なあ。お前は決闘騒ぎの時のこと、覚えてるのか」

「うん?まあ、お前が絡んでたのは見たぞ。肝心なボコボコにされてる様子は見れなかったが」


 ふと思いついて尋ねたが、悪友は頼りにはならないようだった。


「てことは、伯爵令嬢が怪我したのも見てないのか。というよりそもそも、あの人夜会にいたか?」

「いたいた。あの出来事以来公の場にはあまり出てないんだけど、偶々なのか隊長がいたからか……どちらにせよ可哀想な人だよ」


 可哀想とは、また随分と見下した言い方だ。かの令嬢の不憫さにはため息が出る。


「他に現場を見てそうな奴は」

「さあ。庭に出た時も、お前を夜風に当てて酔いを覚ますためって言ってたからなあの方」


 悪友や他の参加者が私闘騒ぎを知ったのも、翌日の無残な俺の姿を見てかららしい。ということは目撃者はいないというわけだ。

 これは当事者に聞くしかあるまい。

 公務のスケジュールを確認して、執務室に向かう。自分達のような閑職部署とは造りから違う扉を叩くと、秘書官が音もなく開けた。取り敢えず所属と名を告げると、ごく真面目な顔で秘書官は告げた。


「急ぎの要件ですか」


 取り付くしまもない。感心しつつ帰ろうかと踵を返す準備をすると、中から低い声に呼び止められた。


「通してくれ」


 目を丸くする。俺以上に驚きを隠せていない秘書官は、動揺しながらも戸を大きく開け放してくれた。


「失礼します」


 一礼して、部屋の主を見据える。相変わらず堂々たる佇まいの男は席を立ち、威圧感と共に歩み寄る。


「かけてくれ」


 そう告げて、客用に設た小さな卓と椅子を指す。お言葉に甘えて腰掛けた。


「席を外してくれないか」

「は、はい」


 ご丁寧に秘書官を立ち去らせる。ここに来た理由はお見通しのようだ。

 向かい合うように近衛隊長も掛ける。


「申し訳ないですけど、率直に聞きますね」


 前のめりになる。


「伯爵令嬢を斬りましたか」

「害していない。私も、貴殿も」


 不躾な問いに、武人は思いもよらない答えを告げてくれた。


「私も、ですか」

「倒れた貴殿を邸に運んだのは私だ。互いに彼女を傷つける余地などなかったはずだ」


 そういえばそうか。父の言葉を思い出しつつ、「その節は」と頭を下げる。


「私闘の最中も、周りには誰もいなかったはずだ」

「夜風に当ててくださって助かりました」

「聞いていたか……出まかせだ」


 ありがたいことで。お陰で無様な負け姿は誰にも見られず、令嬢が傷ついた瞬間も闇の中というわけだ。


「それにあの傷、並の人間なら悲鳴を抑えられないだろう。そういった証言もない」


 やはりというか、既に粗方調べはついているようだ。これではほぼ確定しているようではないか。

 令嬢は嘘をついている。


「……私の落ち度だ」


 武人も思うところはあるようだ。つい、口走る。


「責任を取ろうとは思いますか」

「一先ず腕の良い医者を。それから謝罪に」


 悪友の言っていた責任の取り方を行うつもりは毛頭ないようだ。最早他人事ながら、笑いが出そうになる。


「だが、この騒ぎの顛末は周知しなければならない」


 続く言葉はどうにも不穏なものだった。思わず姿勢を正して尋ねる。


「周知ですか」

「ああ。貴殿の名誉のためにも」


 ここに来て、当事者に引きずり戻されてしまった。確かにこの不名誉な噂が無くなれば良いとは思っている。しかし彼の言う「周知」は、それとなく火消しをするとかそういう規模ではないのだろう。


「場を設けて、彼女から言葉を引き出す」

「そこまでするんですか」

「……我々三人だけの問題ではない」


 三人「以外」が誰なのか、見当はついた。

 伯爵令嬢をここで完膚なきまでに叩き潰しておけば、今度こそ物申す人間はいなくなるだろう。

 恐ろしいことだ。

 目をつけられないためには、ここで武人の言葉に従う振りでも見せるしかなさそうだ。


「そうですか。なら、やむを得ないでしょうね」


 笑う。顔の筋肉が痺れそうだ。


「此方に任せてくれるのであれば貴殿にこれ以上は迷惑をかけないようにする。自分は誰も傷つけていないと、自信を持ってくれ」


 実のところ、これは俺への指示なのだろう。余計な手を出すな。ただ都合のいい主張はしてくれ。

 唯々諾々と従うしかあるまい。背かなければ不利益はないのだから。

 適当な応対をして執務室を後にする。扉を閉めた途端、廊下の角から秘書官が現れた。会釈をして隣を通り抜け、部屋に入る。

 どうするか。どうしようもないのにそんなことを考える。正直なところ、何も言われなければもっと首を突っ込みたい。悪友は今回の件を面白がっている輩もいると言っていたが、他でもない俺自身がそういう輩なのだ。あの令嬢がもっと暴れ回ってくれるのなら、これ以上の見せ物は今後そう無いだろう。

 将軍と現婚約者が引っ掻き回されているところを見てみたい。

 うきうきと部署に戻る。酔いとは違う高揚を感じた。悪趣味なことだと自分のことながら呆れて、残りの業務に程々に励む事にした。




 きっちり終業の時刻に席を立つ。向かう先は「事件」が起こったと令嬢が主張する庭園だ。まだ日の昇っているうちに痕跡を探す。芝生の広場には多少踏み荒らされた形跡がある。これは私闘の跡だろう。少なくとも此処で俺が打ちのめされたのは確かなようだ。広場を一周し、周囲の植え込みを覗く。

 血痕ぐらいは残っていると思ったが、どこにもない。

 というより、明らかに昨日今日で手入れが入っている。

 たまたまか、誰かの指示か。俄然面白くなってきた。

 綺麗に刈り込まれたトピアリーを眺めていると、足音が近づいてきた。


「ご機嫌よう」


 足音の主が声をかける。振り向いて、ほんの少し顔を顰めた。


「ご機嫌麗しゅう、殿下」

「造園に興味でも」


 華奢な少女が小首を傾げた。斜陽に照らされた髪と瞳が、目も眩むばかりに輝く。

 王妹その人の登場に、居心地が悪くなる。


「いやあ、最近庭の造りを変えようと思って」

「そうでしたか」


 宝石のような目がこちらを見据える。庭の話など欠片も信じていないのだろう。


「……実際のところは、先日のことを思い出しにきたのですよ」

「正直ですね。今日はお酒が入っているのでしょうか」


 観念して告げると王妹はころころと笑った。後ろに控える侍女の真顔との温度差に居た堪れなくなる。


「少しは控えましょう。お父上を安心させてくださいな」

「こうでもしないと誠実に生きられないもので」

「でもお酒のせいで、此処に来る羽目になったのでしょう」


 王妹が自身の血色の良い頬に触れた。鏡を見るように頬に手を伸ばす。まだ痣も唇の切り傷も色濃く残っている。


「何か思い出せましたか」

「……婚約者殿に酷い目に遭わされたような」

「貴方にも原因はあります。でも、やり過ぎですね。文官と軍人では力の差もありますのに」

「まあ、一日寝込む程度で済んだので手加減はしてくれたのでしょう」


 互いに笑う。口元を上品に覆い隠して、袖の裏で少女は囁く。


「彼から聞きました。かの令嬢のことも」


 本題に入った。そんな気がした。


「何か、当日の様子は思い出せましたか」

「いいえ。彼女に関しては何も」


 それを探りにきたのだろう。王妹の静かな問いに答える。残念ながら彼女の役に立ちそうにもない。努めてそう見えるようにする。


「……あの方が、人を間違えて斬りつけることなどありません。酒を嗜んだ後は絶対に抜剣しないとも言っていました」

「そうなのですか」

「ええ。その証拠に」


 再び王妹は、指し示すように頬に触れる。そこで腑に落ちる。傷は打撲痕ばかりだ。


「体術でしょう?」

「どうりで手も足も出なかったわけです」

「あら、剣なら分がありましたか」

「手厳しい」


 昔から一言多い少女は、微笑んだ後に声をひそめる。


「……私と彼の意見は同じです」


 ふん、と鼻を鳴らす。誰もが同じ結論に辿り着くだろう。証拠だけの問題ではない。

 王妹の表情が翳る。


「彼女を納得させられなかった。そのために、あのような形で一層傷つけてしまったのは……悔やんでおります」


 納得。

 納得か。

 納得できる人間がいるのだろうか。遥か上の階級の女に婚約者を掻っ攫われて、傷物になってしまったことを。自分の知らないうちに育まれていた愛でそれまでの日々を否定されたことを。


「次こそは、双方納得のいく形になると良いのですけど」


 そう告げて、再び笑顔を浮かべる。


「貴方にもいくらかご迷惑をおかけするでしょうが、どうかお付き合いください」


 踵を返す。不自然なほどに見通し良く刈り込まれた茂みの合間へ王妹は消えていった。すっかり足音も遠ざかった頃、ため息をつく。従姉妹とはいえ気心が知れているわけでもない。正直苦手だ。

 最後にもう一周広場を散策する。王宮付きの庭師は流石に腕が良いということしかわからなかった。




 屋敷に戻るなり晩酌の準備をする。今更小言を言う人間もいない。何種類か瓶を選び、客間を占領する。

 硝子の杯に琥珀色の蒸留酒を注ぐ。味わう間もなく空にして、酒臭い息をついた。

 審判の時はいつになるのか。いつもなら他人の不幸は喜び勇んで心待ちにするのに、今日はそんな気分になれなかった。ただ火の粉を振り払うようにしか見えないからか。度が過ぎた死体蹴りだからだろうか。当事者に蜻蛉返りしてしまったからか。

 何にせよ、賭けにもならない。令嬢は何を思ってこんな手段を取ったのか。何も得るものはないだろうに。強いて言えばあの武人の評判に多少泥をかけるぐらいか。婚約破棄の件で痛み分けにすらならなかった腹いせにしては、捨て鉢が過ぎる。

 ぼんやりと空の杯を眺める。カッティングが光を散らした。

 令嬢は嘘をついている。ならば、あの傷は何なのだろうか。本当は……本当に、酩酊して喧嘩をふっかけた夜に彼女を斬りつけてしまったのかもしれない。それを令嬢が見誤ったか、あるいは。


「利用されてるのかね」


 酒を注ごうとして、瓶の口に直接口をつける。

 不愉快な酔いがまわった。




 「見舞い」という名目をつけて、伯爵邸を訪れる。使用人に見繕わせた花と茶葉を手にやって来た男を見て、屋敷の主人は訝しげに眉を跳ね上げた。


「これはこれは」


 追い返されなかったのは幸いだった。こんな人間でもそれなりにもてなさなければならないと踏んだのか、伯爵は屋敷の中に招き入れる。愛想笑いを浮かべて、先日と変わるはずもない広間に踏み入る。


「ご用件は」


 椅子にかけるなり尋ねられる。苛立っているのは承知の上だが、相手も隠すわけではないようだ。指を組み、背を丸める。


「もちろん、ご令嬢をお見舞いに来ました」

「それだけではないようにお見受けしますが」

「少しお聞きしたいことがあるのです。例の夜会の件ですが」

「娘に配慮してもらえないでしょうか。この件で随分と傷ついております」

「このままですと、より一層傷つくかと。この家の名も」


 相手は体を少し引く。焦りは見えない。「わかりきっている」とでも言うような表情だ。

 なので、もう少し押す。


「それとももう既に、お話し合いは済まされているのでしょうか」


 伯爵が呻く。使用人が淹れた紅茶を一口含み、ため息をついた。


「……界隈では、噂になっているのでしょう」

「まだそこまでは。近衛隊長か王妹殿下が気を使ってくれていると思いますよ」


 彼も板挟みなのだろう。苦悩が見てとれる。

 口には出さないだけで、伯爵自身武人や王家には思うところがあるはずだ。なおかつ娘の味方になりたいというのは、世の父親なら当然のことである。それでも黙せざるを得ない取引があったのだろう。

 今なら娘の糾弾ぐらいで済ませてやる、ついでに慰謝料がわりに少しばかり口聞きするとでも言われて、飲んだのか。娘が政略に使えなくなった今ならそれだけでも万々歳、泣き寝入りしてもらう十分な理由になる。


「……王府や軍、もちろん貴方にも、ご迷惑をおかけしているのは重々承知なのです」


 あくまで低姿勢に父親は呟く。


「しかし娘は、言葉を撤回するつもりは全く無いようで」


 感心する。国の中枢が動き、父の説得を受けてもなお令嬢は自分の意思を貫き通そうとしているのか。ほお、と思わず感嘆の声を漏らすと、伯爵はまたもや面白くなさそうな顔をした。


「……失礼、やはり貴方には関係のない話でした」

「いえいえ、関係は大いにありますとも」


 鷹揚に告げる。


「貴方の娘を問い詰める側になりそうなので」


 今度こそ、相手は苦虫を噛み潰したような表情になった。


「なのでですね、少しご令嬢とお話をしたいのです。うまく情報を引き出せれば……情状酌量ということもあるでしょう」


 伯爵は息をつき、腕を組む。暫し黙した後、一つだけ問われた。


「今日は素面でしょうか」

「わりあい」


 その問いで何を測られたのかはさておき、令嬢にお目通り叶うことになった。本人に断られては意味がないのでまずは伯爵が確認に行く。

 紅茶をすすりながら待っていると、視界の隅で何かが揺れた。気になって注視した先に黒衣の令嬢が佇んでいた。慌てて居住まいを正す。


「ご機嫌麗しゅう」


 前回と抑揚の全く変わらない挨拶を、扉の前で令嬢は告げる。頭を下げると、ドレスの裾が滑るように動き席に着いた。

 耳が痛いほどに、静かだ。


「……ご加減は」


 令嬢から口を開く気はないと察して、先に尋ねる。


「調子が良いぐらいです」


 似合わない朱色の唇を歪めて、令嬢は微笑んだ。


「痛みは」

「もちろん、まだ引いてはいません」

「跡は残るのでしょうか」

「ええ。消えることはないと、医師からもお墨付きをもらったのです」


 お墨付きとは、随分とポジティブな言い方だ。はは、と乾いた笑い声を漏らす。


「……このままだと、取り返しがつかなくなりますよ」


 紅茶の杯へと伸ばした細い指がぴくりと震える。


「何をおっしゃいますか」


 そうして何事もなかったかのように、取手に指を絡めた。


「もう、取り返しがつかないことばかりです」


 それならなぜ、と尋ねる。


「取り返しがつくと踏んだから、こんな馬鹿げたことをしでかしたのでは」

「馬鹿げた、ですか」


 卑屈げに、痛々しく傷を引き攣らせて令嬢は笑う。


「傷つけたことを非難する。それが愚かだと?」

「いいや。だがその先で君が望んでいることはとてもじゃないが」

「私の望み、とは」


 かくん、と首が横に倒れ、ありふれた色の髪が肩を流れ落ちる。別に不可思議な動きではないはずだが、令嬢の纏う雰囲気と相まって不気味なことこの上ない。


「あんた、あの男がそんな傷で責任を取ると思うか?」


 怖気を振り払うように、ついつい素の言葉遣いが飛び出る。

 令嬢の顔から感情が抜け落ちた。


「……憐れんではくれるでしょう」

「憐れみで買収できるとも思えん。操や子供ならまだしも」

「子供」


 ふふ、と令嬢は笑う。

 想定通りではあるが、近衛隊長殿は相当に堅物なようだ。傷なんかよりも子供の方がずっと取引材料としては使える。それが出来ないということは、そういうことなのだろう。


「私に触れたことなんて、婚約中は一度も無かった」


 そう呟いて、令嬢は頬の傷に触れる。


「これが初めて」


 爪の先が瘡蓋を引っ掛ける。うっすらと血が滲み出て、指を染めた。

 その様を見て舌を巻く。

 こんな女を糾弾するのか。何も失うものなんて無い女を。

 無意味なことだ。


「……家名に泥を塗っても、そう言い続けるのか」

「貴方からそんな言葉が聞けるなんて、思いもしませんでした。家名なんてどうでもいいと思っているのでは」

「まあ、まあ」


 違うアプローチは見事に失敗した。令嬢の言う通り、「どの口が言うか」と自分でも思う。


「ここで発言を撤回するほうが、ずっと無様ではありませんか?真実を押し通すことなく折れてしまうなんて」


 どうあっても引くつもりはないらしい。

 考え込む俺の目の前で、優雅に令嬢は紅茶を口に運ぶ。


「この傷は、あの方がつけたのです」


 幾度目ともしれぬ言葉を、カップの中に向かって令嬢は呟いた。




 結局、説得はできなかった。令嬢が頑なな以上、便宜を取り計らう隙も生じそうにない。

 大人しく晒し上げの日を待つか。スキットルを片手に書類を眺める。

 傷物の令嬢と近衛隊長、そして酔っぱらいについての噂話はまだまだ流布している。だがその形は、いくらか変遷しているようだ。


「婚約破棄の謝罪をめぐって、令嬢と隊長が決闘をしたって本当か?」

「そんな面白い見せ物、俺が忘れるわけないだろ」


 神妙に伝えてきた悪友をスキットルで小突く。だよなあ、などと調子のいいことをほざく悪友の後ろで、執務官が何人か同様の話題で盛り上がる。


「しかし、隊長も不憫だな」


 一際大きく、声が響く。発言者本人も周りも、それに気付く様子はない。


「あの令嬢がいなければ、婚約破棄なんてケチも付かなかっただろうに」


 それは令嬢も同じだろう。

 椅子に深くもたれ、天井を眺める。あの、今にも倒れそうな青白い顔を思い出す。たった一つの執着で命を繋ぎ止めているような顔。


「一時期は物凄い悪漢みたいに言われてたしな。もはや風評被害だろ」

「前の婚約が無ければ殿下ともっと早くに婚約できたはずなんだろ?その分上のポストへも早く」

「お前ら私語かぁ?俺も混ぜてくれよ、何せ当事者だぞ」


 自分のことは棚に上げて執務官に絡みに行く。ぺこぺこしながら業務に戻る姿を見届け、悪友に書類を渡す。


「酔いを覚ましに行く」


 何事か喚いた悪友に背を向け、執務室を出る。底冷えするような静寂に満ちた廊下をあてもなくふらつく。

 本末転倒だ。何のために酒を飲んでいるのか。

 酒臭いため息をつく。

 酒を飲むと、余計なことを考えなくなる。余計なことを考えないから、思考を言葉に変換しやすくなる。業務が捗る。従姉妹の言う通り、正直になる。良いことづくめじゃないか。何が良いことかも、ぼやけた頭ではわからないけど。

 歪む廊下の向こうで、黒い人影が佇んでいる。おぼつかない足取りで近づいて、顔の造形をかき消すような傷に目を凝らす。


「……おや、また会いましたね」


 令嬢に挨拶をすると、眉を顰められた。


「業務中もお酒を?」

「ええ。良いもんですよ」


 夜会の時と同じ黒衣を纏っているが、顔を隠すためのベールのついたカクテルハットは今日は身につけていない。傷が剥き出しだからこそ気付けたのだ。

 この傷を、本人はけっこう気に入っているのだろう。だから隠しもしない。


「どこかに御用です?」


 酒の勢いもあってか、気が良くなって尋ねる。


「言わなければならないのでしょうか」


 にべもない。苦笑いを返すと、令嬢は会釈をして横を通り抜ける。振り向いて後ろ姿を目で追う。

 服も同じなら化粧も同じだ。夜会や先日会った時と同じ朱色の唇がやたらと目を引く。あまり似合わないその色が、赤黒い傷を相対的に霞ませているようだった。

 廊下の角を曲がろうとして、令嬢は立ち止まる。

 武人の姿が現れた。

 鉢合わせた二人と遠巻きに眺める一人。それぞれ黙したまま、妙な間があった。

 ご機嫌よう、といつも通りの抑揚で令嬢は会釈をする。


「奇遇ですね」


 花が綻ぶように令嬢は微笑む。こんな顔もできるのかと、少し驚く。一方武人は僅かも表情を変えることなく、真っ直ぐに元婚約者を見つめる。


「……医師の治療を断ったと聞きました。何か不手際でも」


 武人から返ってきた言葉は挨拶ではなかった。有言実行、確かに彼女の元に医師を向かわせたようだ。しかし当の令嬢には治療を受けるつもりはないらしい。


「無意味なことだと思いまして」

「まだわかりません。今からでも経過次第では」

「傷が無くなってもキズモノですもの」


 女は嗤う。


「経過次第では、などと仰りますが。今更この傷が消えても自己満足にしかならないと思うのです」


 返す言葉も無いのか武人は閉口する。令嬢の諦観に、無配慮に励ましの言葉をかけられるような立場ではないと察したのだろう。「自己満足」とは誰に対しての言葉なのか。


「見苦しいでしょうか」


 そう言い切らないうちに令嬢は眉間に皺を寄せた。傷が引き攣れたようだ。

 その様を見てもなお、武人は表情を変えない。

 ただ、令嬢を見つめているだけだ。


「……そういえば、あなたは」


 令嬢もまた武人を見上げる。


「この傷から目を逸らしたりはしないのですね」


 二度目に屋敷を訪ねた時に見たものと同じ、総毛立つような笑顔が薄く唇に浮かんだ。常人なら思わず退くような笑みに、しかし武人は動じなかった。


「傷から目を逸らす理由が無いからです」


 ある種の宣言だった。笑みを浮かべたまま、令嬢は項垂れる。

 当たり前だ、などと誰が令嬢に言えるのか。


「……貴女には」


 言葉を探すように、時折口を閉ざしながら男は告げる。


「貴女には、憎むだけの理由がある。声をあげる権利がある。それを迎え撃つことしか、私は貴女にしてあげられません」


 ほんの僅かな邂逅は終わり、隊長殿は一礼をしてこちらへ向かってくる。

 何事も無かったかのように会釈を交わす。何処ぞへと去っていく足音を気にしながら、立ち尽くす令嬢に近づいた。


「用、済みましたか」


 令嬢は顔を上げる。既に笑みは消えていた。


「……ええ」


 涙でも滲んでいると思っていたが、いつも通りの無表情だった。先程とは打って変わって上品なカーテシーをして、令嬢は踵を返す。

 どこか危うい歩みを見て思わず声をかける。


「ああいう人達ですよ、貴女の相手は」


 立ち止まる。

 決してとどめを刺したかったわけではない。ただ彼女が行こうとしている道は茨の道だと、忠告したかっただけだ。


「憐れんでいるでしょうし、きっと思うところもある。それでも貴女の言い分を『正しいやり方』で捻り潰す。そういう人達です」

「……」


 振り向くこともなく、令嬢は立ち去った。

 釈然としないまま庭園へと向かい、風通しの良い東屋でぼんやりと花々を眺める。

 何故、居た堪れないと思うのだろうか。肩を持つ理由などない、寧ろ隊長殿へ喧嘩を売るだしにされているような節もあるのに。同情や憐憫と呼ぶには苦い感情が、悪酔いに似た胸焼けを起こす。


「具合でも悪いのですか」


 物思いに耽るあまり、感覚も鈍ったようだ。声をかけられて初めて、側に佇む貴人に気づく。


「申し訳ありません」


 一歩引き、深々と頭を下げる。くすりと王妹が笑った。


「少し、休憩を」

「長い休憩ばかりとっているのでは?」

「まあ……殿下こそ、人も連れず何故こんなところへ」


 辺りを見回しても、人影はない。それとも何処ぞに身を隠しているのだろうか。


「約束がありまして。少し早めに着いたもので、散策をしていたのです」


 そうして、同じように花々を眺める。


「途中、伯爵令嬢とお会いしました」

「そうですか」

「夜会の招待状を渡しました。ぜひ来てほしいと」


 しれっと告げた言葉に身震いする。この夜会が、おそらく王妹の用意した処刑場なのだろう。


「来てくれますかね」

「来ます。彼女の弁明の場でもあるのですから」


 穏やかだが、冷たい鋼が一本通ったような声だ。その声が武人とどこか似ていて納得する。

 だから惹かれあうのか。


「彼女は言葉を翻すつもりはないようです。なら、こちらもその言葉を受け止めなければ」


 こんなところも似ている。思わず苦笑すると、王妹は口を尖らせた。


「……嘲笑うのも、理解できます。悪いのは私と婚約者なのですから」

「私からは何も言えませんね」

「良いのです。貴方が考えていることは大体わかります」


 寛大な従姉妹はそう告げて、ため息をついた。


「けれども、彼女の嘘は正します」


 今度はこちらがため息をつく番だった。

 こういうところが苦手なのだ。側仕えを何人か潰して修道院送りになった頃と何も変わっていない。


「……これで、彼女は諦めるんですかね」

「諦めてもらわないと。伯爵令嬢が苦しむだけではありませんか。諦めて、忘れて、次に踏み出してほしいのです」

「正直、踏み出す余力も残らないと思うんですよ」

「誰かに支えてもらうのです」

「もう彼女にはそんな人間もいませんよ」

「随分と、理解しておられるのですね」


 あ。

 口を閉ざす。

 先程まで花を眺めていたはずの王妹は、目を妙な期待に輝かせてこちらを見つめている。


「彼女に興味が」

「勘弁してください」

「一考していただけませんか。伯爵も安心するはずです」

「私が安心できません。おちおち酒も呑めなくなる」

「良いことでしょう?」

「殿下」


 つい語気が荒くなる。少し気を落とした様子の王妹を横目に、息を落ち着ける。

 この会話を令嬢が聞いたらどう思うのか。廃品回収にでも出されたと取るだろう。王妹なりの救済策なのだろうが、趣味が悪すぎる。


「……私が後ろ盾になれば、話が面倒になるだけです」

「軽率でした。申し訳ありません」


 謝る相手が違うような気もしたが、指摘するのも煩わしい。

 それでも、一つくらいは小言を言いたかった。


「普通は、婚約破棄された女に寄り付く男はいないんですよ。ましてや元の相手があの隊長で、傷の騒ぎが起きたと言うケチもついてる」

「知っています。だから、私も彼も心を痛めているのです」


 王妹はなおも宣う。


「貴方はそんなことを気にしないと思って」

「割と気にするんです。器が小さいので」


 途端、王妹の表情が落胆するようなものに変わった。


「こんな人間をあてにしないでください」


 これでこの話は終わり。そう叫びたい気持ちを堪えて、慇懃無礼な言葉を並べて立ち去る。

 机に戻っても興奮は冷めやらず、苛立ちついでに仕事をこなす。妙に捗るのがまた不愉快だ。

 悪友も何かを察したのか、遠巻きに見ている。


「酔いが覚めたようなのは良いが、苛立つのはやめてくれ。いよいよって感じだ」

「まだその領域には行きついてないから、安心しろ」


 震えてもいない片手を差し出す。


「残り、くれ」

「酒か」

「書類だ書類」


 追加の紙束を貰う。頁を捲り、目を通して、捺印。時々訂正。そんなルーチンを繰り返していると、朱色が嫌に目につく。

 令嬢の差した紅と同じ色。何だってあんな、人を選ぶ色を。珊瑚よりも夕暮れに近いあの色が似合うのは王妹ぐらいだ。

 ふと手を止める。嫌な想像が脳裏をよぎった。

 真似ている。あるいは、朴念仁からの贈り物を後生大事に使っている。

 頁を捲る。

 健気だと感心するべきなのか。止める人間もいない程見放されているのかと憐れむべきなのか。どちらも自分が慮ることではない。

 そうは思っていても、脳裏では令嬢の唇を勝手に塗り替えていく。

 あの女に似合うのは深紅だろう。あの傷と同じ、黒いほどの紅。




 当然のように招待状は送られてきた。質の良い紙をためつすがめつ、カウチに寝転がる。父の小言を流し聞き、傍らの卓に放った。

 行かない、という選択肢も恐らくある。隊長や王妹も、俺のことなど居たらそれで良いとしか思ってないだろう。事を見届けるなどという大層な義理もない。ただ王宮主催を跳ね除ける良い言い訳も思いつかない。

 もやもやとしたまま寝転がっていると、使用人が忍び寄る。


「伯爵家の御令嬢が、お見えに」


 少し間を置いて起き上がる。

 何が目的だ。不穏だが、まずは会うしかあるまい。身なりを整えて客間に向かう。

 大きなソファにこじんまりと腰掛ける令嬢の姿は、なんだか冗談のように思えた。

 此方はぎこちない一方、向こうは何でもないように会釈をする。


「お恥ずかしいのですが、一つ頼み事を」


 全く恥いる様子も見せず、無表情のまま令嬢は告げる。


「今度の夜会に同伴してもらえませんか」


 何か間抜けな声が出そうになったが、淑女相手にそれはまずいと堪える。


「同伴、ですか」

「正確に言えば、馬車を借りたいのです」


 使用人が出した菓子や茶には目もくれず、手を膝の上に揃えたまま呟く。


「当日、父は夜会に行かないつもりです。家からは出ず、馬車も出さないと」


 それは困ります、と眉を顰める。


「私は用があるのに」


 一人で行って、一人で責められてこいというわけか。肩をすくめ、指を組む。


「……構いませんよ」


 この令嬢が来ない、というのは先方も想定していないだろう。寧ろ現れなかった時の方が恐ろしい。幸い令嬢自身はやる気満々と言うか、死地に赴くような心持なのか。そんな彼女を処刑場に引き出す役割を、誰かに放り投げるような気もしなかった。


「感謝いたします」


 令嬢は目を伏せる。傷がより目立った。


「貴方なら、快諾してくれるとは思いました」


 鼻で笑う。


「最初から当てにしていたんですか」

「ええ。私を憐れんでいるのでしょう?」

「そうかもしれませんね」


 実際のところ、令嬢を憐れに思っているのかどうかは自分でもわからない。

 ただの、気まぐれだ。きっと。


「……貴方はきっと、私の味方ではない」


 ほんの少し、令嬢は口元を緩める。


「でも、彼等の味方でもない。それが救いなんです。大層だと笑うでしょうけど」


 ふふ、と寂しい微笑が溢れる。


「父も母も貴族も民衆も、誰も私の味方にはならなかった。みんな、あの方達の味方」


 音も引くような孤独が、少女の言葉には満ちていた。

 最初は味方もいたのかもしれない。でも彼等は所詮外野だった。無責任に同情して忘れる、そんな優しくもない毒。

 その毒に令嬢は侵され続けてきたのだろう。


「……どうして、こんな事になってしまったのでしょう」


 いつもと声音が違う。

 思わず居住まいを正すと、向かいの令嬢と目があった。


「何がいけなかったのでしょうか。あの人のためにどんな事でもしたのに……それでも、選んではくれなかった」


 涙の一つでも浮かんでいれば、また印象は違ったのかもしれない。

 令嬢の目には何も映り込んではいなかった。


「私に、殿下のような美しさ、賢さ、気高さ……どれか一つでもあったのなら、違っていたのでしょうか」


 どうしようもない。

 何もかも、どうしようもないのだ。


「婚約破棄の理由は、貴女には無い」


 だから、考えるだけ無駄だ。

 そう告げると、令嬢は薄ら笑いを浮かべたまま視線を紅茶の水面に落とした。


「結局、醜く無様に足掻いても、無意味なのね」


 令嬢は、自らの傷を見つめているようだった。


「無力な女に出来ることなんて、それぐらいしかないのに」


 彼女には、本当に手段が無いのだ。血を頼ることも、法を頼ることも、世間を頼ることも出来ない。誰かの心を動かす力を一つとして持っていない上に、一人で立ち向かえるだけの能力も無い人間に何が出来るのか。


「あんたさ」


 そんな無力な令嬢に、せめてもの提案をした。


「無様に晒し上げられるんなら、今度の夜会ではもっと見れる顔になってくれ。弱くて何もできなかったあんたでも、虚勢を張ることはできるだろ」


 相手は目を丸くする。突然の侮辱と取られたか。まあ、似たようなものだ。


「そもそもあんた貧相な顔なんだから、傷はいいアクセントだ。だがその唇はいただけない。似合わん」


 はあ、と一息つく。


「俺の同伴でもあるし」


 付け加えた言葉に、令嬢は少し弱気な表情を見せた。


「……そうですね。無理を言って付き合っていただけているのですから」


 譲歩のようなものが窺えた。朱色の唇に細い指が触れる。


「でも、ごめんなさい。私どんな色が似合うのかもわからないのです」

「紅だ、紅。その傷みたいな」


 食い気味に言う。


「服は黒でいい。いつものだ。いや、青でもいいかもしれん」


 正直センスを問われると閉口してしまうが、今の姿よりはマシだろう。令嬢も何やら真面目な様子で「紅、黒や青」と呟いた。


「……似合うのですよね?晒し上げついでにもっと酷い姿にしようだなんて」

「同伴」


 二度も言わせないでくれ、とばかりに言い捨てる。

 途端、令嬢は吹き出した。


「ええ。申し訳ありません。貴方に見劣りしない姿ぐらいにはなりましょう」


 なかなか捻くれた返答に、どんな顔をすればいいのかわからなくなってしまう。ただ不思議と、同伴を撤回するような気分にはならなかった。




 馬車の中から夜空を見上げる。

 別に星に興味があるわけでは無い。ただ、隣の令嬢とどんな話をすればいいのかわからないだけだ。

 約束通り俺は令嬢を迎え、令嬢も約束通りこれまでとは粧を変えた姿で現れた。血にも見紛う深紅の唇は、傷と共に令嬢の顔立ちを際立たせて見せる。多少増した華やかさは黒いドレスともよく合った。

 青ではないですけど、と令嬢は言ったが、この紅だけで十分だった。

 礼儀程度に手を取って、馬車へ乗せる。その後はただただ、口を閉ざしていた。

 ちらりと隣を盗み見る。令嬢も窓の外を眺めていた。青白い横顔に、紅がよく映える。あの朱色ではこうはいかない。

 視線を落とす。

 膝の上で重ねられた手が、微かに震えていた。


「おい」


 もはや上品に振る舞うつもりもない。粗野な口調を飛び出すままにする。


「今更震えているのか」


 きゅ、と令嬢は服を握り込む。抑えたつもりなのだろうか。それでもまだ、震えは見てとれる。


「武者震い、と言うでしょう?」


 低く笑う。小さく令嬢は鼻を鳴らした。


「……冗談です。当然、怯えております」

「それだけ口が叩けるなら平気そうだ」

「まさか」


 馬車が小石にでも乗り上げたのか、大きく跳ねる。衝撃に抵抗することもなく令嬢の体は大きく揺れた。


「虚勢を張れと言いましたね。私はもうずっと、長いこと、虚勢を張り続けていたつもりなのです」


 俯く。まとめ上げずに取り残した髪が、顔を隠した。


「いつまで、持つのかしら。もう疲れてしまった」


 切々とした言葉に、ただ黙って耳を傾ける。

 今はそれぐらいしか、彼女にはしてやれない。


「私」


 王宮が近いのか、馬車の走りが滑らかになった。大きな振動もない箱の中で、令嬢の声が嫌に響く。


「あの人の汚点ぐらいには、なれるのかしら」


 髪の合間から紅が覗いた。

 総毛立つ。

 意地と言うにはあまりにも悍ましく、直向きな想いが込められていた。

 こんな女を、あの武人なら受け止め、支えることができたのだろうか。

 白い指が髪を拾い、耳にかける。泥のようなものに満ちた瞳が此方を捉えた。

 いや、実際のところ、俺のことなんて見ていないのだろう。


「ああ……着いたようです」


 令嬢は嘆息する。私刑を待つようには思えない、陶酔にも似た声。溶け落ちる寸前の、辛うじて形を保っているような女に問う。


「あんたのその傷は、誰につけられたんだ」


 彼女の中身が染み出したような罅が歪む。


「勿論、あの方です。この傷は、あの方がくれたのです」


 消え入りそうな声で、呪いのように呟く。

 その言葉が真実か嘘かどちらでも良い。ただ、その狂気に多少の敬意を見せようとした。


「多分、あそこにはあんたの言葉を信じてる奴なんて一人もいない」


 妙に呂律が回る。

 そうか、今日は酒を一滴も飲んでいない。

 この女が、酔い潰れている間に何かしでかしそうだったからだ。


「俺ぐらいは信じてやるよ」


 少しだけ、令嬢の瞳に光が宿った。汚泥が澄んだのか、深淵が射干玉のように光を照り返したのか、どちらでも良い。とにかく彼女はまだ、諦めてはいない。そう確信して、止まった馬車から降りた。

 黒いレースで覆われた手を取る。


「……晴れ舞台はあれで最後と、思っていたのです」

「傷を見せに来た時か」

「ええ。きっと、これが本当に最後」


 浅く呼吸をして、令嬢は胸を張る。


「信じているのなら、どうか私がどんなに無様でも、目を逸らさないでいただけますか」

「つまらん会合の余興だ。最後まで見といてやる」


 階段を令嬢は一足先に進む。

 振り向き、此方を見下ろした顔には華々しい傷と、引けを取らない満面の笑みが浮かんでいた。

 こんな女に付き合うなんて狂気の沙汰だと、他人事のように思った。

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