第二十話 八岐大蛇
楔の間。
その部屋に蠢く何かは当然ながら人間ではない。
それは、神だった。
日本神話に詳しくなくとも、日本人であるなら誰もがその存在を一度は耳にしたことがあるはずだ。
「八岐大蛇」
悠希は呆然と神の名を呟く。
八つの頭と八本の尾を持つ超巨大な蛇である。
神世大戦における八岐大蛇の能力値は以下のとおりだった。
神格《蛇神》
属性《水》《荒魂》
攻撃力《八》。防御力《八》。
攻撃力と防御力の《八》は八岐大蛇ではなく、その八つ首の一つ一つを示す。
八岐大蛇は神世大戦ではレイドボスの立ち位置だった。
複数の巫――最低八人のプレイヤー――がオンラインで共闘して討伐できるか否かの圧倒的な戦力を誇っていた。
一ターン目から攻防力が《八》の神が場に出ているのだ。
対抗策を整えておかないと、何もできずに敗退させられてしまう恐ろしい敵だった。
ゲームでさえ凶悪だった神が、今は悠希が視認できる距離にいる。
本来であれば、悠希たちがいる神社はおろか荒狂河全体に及ぶほど強大な体躯を持つはずだが、悠希が目にする八岐大蛇は体長三メートルほどの小型であった。
彼は八岐大蛇の小ささに違和感を覚えたが、蛇神が偽物である可能性は限りなく低いと判断した。
八岐大蛇は、自らの姿を目にした者を強制的に畏怖させる壮絶な威圧感を放ちながら、氷見華を傲然と見下ろしていたためである。
悠希は眼光に晒されていないの気圧されてしまっている。
(お、落ち着け。落ち着くんだ、俺。奴がその気になれば、ここら一帯は廃墟になってるはず。それをしないってことは……災禍の楔とかいうやつが効いてるはずだ)
悠希は混乱と焦燥が入り混じった面持ちで重兵衛に顔を向ける。
重兵衛も顔を強張らせていた。
「あれが、災禍だ」
「んなもん、言われなくても分かるわっ!」
悠希に大声を出す余裕はないため、小さく毒づいてから呻く。
(……冗談じゃないぞ。分が悪いにも程がある)
彼は災禍が何なのか、あらかじめ予想を立てていた。
明確な根拠がないため、神格《災厄の神》である大禍津日神そのものか、大禍津日神が発動した呪詛の類ではないかと漠然と考えていた。
悠希の予想は軽く超越していた。甘い考えでしかなかった。
悠希が愕然としている間に、八岐大蛇が思念を発する。
『……人間の娘よ、もうすぐだ。もうすぐ貴様の魂もまた、我が贄となる』
氷見華の身体の震えが大きくなる。
八岐大蛇の思念は氷見華に向けられているが、その場にいる巫にはそれが聞こえてきた。
悠希は恐ろしさに身の毛がよだつ。
『怒り、憎しみ、嘆き、諦め。あらゆる負の感情を抱いておけ。さすれば、我が糧となる栄誉を授けん』
八岐大蛇は己の八つの頭部にて氷見華の全身を覆い隠した。
悠希は彼女が食われるのかとギョッと身を竦ませたが、次の瞬間には八岐大蛇の身体が雲散霧消した。
八岐大蛇の姿が見えなくなったが、悠希の警戒は途切れない。
氷見華の身体から、否、体の奥底――恐らく、魂――から、消えたはずの八岐大蛇の神気が漏れ出ている。
氷見華が苦悶の声を上げた。
「お姉ちゃん!」
小百合が姉の下に駆け寄る。
悠希に見えない位置に待機していたようだった。
彼女は心配で生きた心地がしなかったのか、泣きそうな表情になっていた。
「ダメよ、小百合。来ちゃダメって言ったでしょう?」
氷見華はぎこちなく微笑んだ。
彼女が無理をしていることは誰の目から見ても明らかだった。
その様子を見守りながら、重兵衛が悠希に説明する。
「氷見華嬢は八岐大蛇に取り憑かれている。というか、正確に言えば、八岐大蛇が現世に再び顕現するためには、彼女の魂を奪う必要がある」
この地を統治する巫の長は、荒れ狂う八岐大蛇を一時的な死の世界――幽世――へ封じ込める禁厭を手に入れた。
ただし、その禁厭は勾玉の他に、巫の霊魂が触媒として必要だった。
元々、その持ち主は氷見華の先代の村長だった。
しかし、裏切者が出たこともあり、権力争いに敗れてその神符を奪取されてしまう。
それどころか、先代が触媒とされてしまった。
先代が命を落とした後、媒介の対象は自動的に娘の氷見華へ移った。
氷見華が死ねば、次は小百合の番となる。
二人には子どもがいないため、小百合が力尽来た時には禁厭は効力を失い、荒狂河に八岐大蛇が再降臨する。
その先に待つのは破滅一択だった。
今は氷見華の魂がまだ残っているため、八岐大蛇の全長は三メートル程度だった。
だが、先代が吸収された時は、荒狂河の家々が半壊してしまうほど巨大になったとのことだった。
その際は、八岐大蛇が顕現しようとしたが、氷見華が触媒となったことで間一髪、人命に被害はなかったらしい。
「我々にとって屈辱的な間一髪だったがな。氷見華嬢が決断する間もなく、触媒にされてしまった」
重兵衛は苦々しく語った。
「……楔ってのは、そういうわけか」
「そういうことだ」
悠希は一つの神符を思い浮かべる。
神逐。
神を幽世に放逐する効果を持つ。
(神逐は呪詛だから同じ神符じゃないようだが、親子二代に渡る効果時間って凄まじいな。それと、外の人間に嫌悪感を抱く理由も分かっちまった)
悠希はこの地の外の人間どころか、この世界の外の人間である。
彼にとっては自身にあらぬ嫌疑をかけられて不快な気分になったが、さすがに同情してしまった。
氷見華が小百合を慰めていたが、ふと上を見上げて悠希と目が合ってしまう。
彼女は悠希と重兵衛に視線を何度も往復させると、その顔を憤怒に染めた。
「重兵衛……あんた、あんたまでもっ!私を裏切るの!?」
氷見華が悲痛な叫びを上げる。
荒狂河内に外の人間を迎え入れることさえ許せないのに、災禍の存在を見せることは彼女たちにとって禁忌に等しかった。
災禍の正体を知った悠希としても、氷見華が重兵衛に疑念を抱くことは仕方がないと思えるほどだった。
「もちろん、裏切らない。彼に見てもらったのは、お嬢を助けるためだ」
重兵衛はそう言い残すと、悠希を連れて一階へ降りる。
氷見華は妹を後ろへ庇い、二人を睨みつけてきた。
「どうか、頼む。手伝ってほしい。いや、違うな。助けてほしい」
重兵衛は姉妹に何も説明することなく、いきなり土下座した。
(土下座されてもな。勝てないものは、どう足掻いても勝てないんだよ)
悠希が協力したとしても、八岐大蛇は手に余る。
助けてあげたいとは思うが、助けられるとは言えない。
悠希が結論を伝えようとした時、予期せぬ声が届いた。
『荒狂河の災禍を確認したことにより、荒狂河専用の神託が解放されました』
八岐大蛇ではない。
声の主は女性であり、ログインボーナスを伝えるそれと同一だった。
荒狂河のイベントが発生してしまったようだ。
(……そんなに救ってほしいか?この世界の人間を)
悠希は渋面になる。
彼はどうしたものかと思案する。
荒狂河専用の神託は恐らく期間限定のイベントミッションだろう。
このミッションを――いくつあるのか知らないが――達成しなければ、氷見華は救えない。
ただ、ミッションを全てクリアすれば、八岐大蛇を倒せる、または鎮めるという保証はなかった。
「……………………はぁ」
悠希は悩んだ末に、人生で一番重いため息をつく。
彼は氷見華を一瞥する。
「助けてほしいか?」
「……できもしないことを」
氷見華が悠希を睨みつける。
悠希は氷見華の反応に構わず待ち続ける。
「お、お願いします。何でもしますから、姉を助けてください!」
小百合が僅かな希望に縋るように懇願した。
「助けてほしくないのか?」
氷見華の美しい顔が歪む。
「助けてみなさいよ!大切な妹にこんなおぞましいもの、好き好んで引き継がせるわけないじゃないッ!それに、それに……私だって、食われたくない。死にたく——」
氷見華が最後まで言えずに、目に涙を浮かべながらも言葉を詰まらせる。
悠希は覚悟を決めた。
「いいだろう。助けてやる」
姉妹が不安そうに悠希の顔を窺う。
『荒狂河専用の神託を確認するためには、神書への反映が必要となります。異界へ帰還しますか?』
悠希が心中で首肯すると、すぐに彼の身体が宙へ浮かぶ。
今までより大分ゆっくりとした速度で身体が上昇する。
重兵衛の時と同様に、姉妹が揃って口をポカンと開けたまま硬直した。
(演出としては、悪くないな)
楔の間、その天井の手前で身体が停止したことは内心で助かった。
天井にぶつかって痛みに悶えたりしたら、恰好がつかない。
「重兵衛、しばらく待ってろ」
悠希はそう言い残すと、異界へ帰還した。
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