嫁さん拾った後は逃げるだけ
そろそろ夕食の時間だけど、食事どころじゃないので勝手にお暇するぞ。
そうと決まれば水化で部屋から抜け出して、玄関脇の物陰で服を着て、門番の人に挨拶をして門に行く。
「どうしたのだ。今日出るとは聞いておらぬが」
「いえ、もう報告は受けましたし、早く戻らないと師匠から破門にされそうなんです。以前の時は何とかなりましたけど、今回はもしかしたらダメかも知れません。でも、折角なので破門は嫌なんです。お願いします。帰らせてください」
「そうか、おぬしは平民であったな」
「折角の教わる機会、逃したくないんです」
「分かった。旦那様には後で報告しておこう」
「ありがとうございます。では」
「気を付けてな」
「はい」
(あの年齢で師を持てるのは幸運かも知れぬ。大抵は奉公になるだろうからの。確かに元は貴族の子息とは聞いているが、追放になって尚師に恵まれるとは。うむ、それは逃すには惜しい話だ。旦那様には叱られるかも知れぬが、あの少年の未来を潰す事を考えれば、恐らく大事にはなるまい)
◇
屋敷から出て目星を付けておいた遮蔽物、つまりは屋敷から見えない茂みの中。
そそくさと着衣を脱いでいくと、やっぱり妙な気分になる。
ここは他人の屋敷でその庭だからな、となるとまだ新しい扉は開いていないかも。
ともあれ、水化……。
あれ、何か怒鳴り声が……。
ごめん、叱られたんだね。
恩返しは出来ないけど、クビにならない事を祈っておくよ。
それにしても、あの化け物に売られるとは、オレが何かしたか?
ああ、弟の所業の意趣返しか。
そうだよな、普通に考えたら騎士爵家のお家騒動っぽい出来事で、わざわざ寄り親のトップが動くはずがないよな。
だから辺境伯が飼っている裏方の組織に損害でも与えられ、その調査の一環で寄り子の案件を知って、これ幸いと利用した可能性がある。
つまり、弟に損害を受けての今なら、兄にその補填の為の身柄の確保、もしくは弟から情報を得る為の道具にするつもりだったのかも知れない。
なんせ以前とはその雰囲気がまるで違ったから。
◆
(大変です)
(どうした、騒がしいぞ)
(あの少年を逃がしたそうです)
(何じゃと、留め置くはずが。どうしてじゃ)
(師事している相手の機嫌を損ねるとかなんとか言われ、情にほだされたとかで)
(あれの師匠もかなりの曲者じゃったが、あやつも薫陶を受けたせいなのかの。まあよい、逃したものは仕方が無い。そのうち該当の寄り子のほうに連絡して捕縛させようぞ)
(して、逃がした者の処罰はどう致しましょう)
(構わぬ、捨て置け。そういう者も必要じゃ)
(畏まりました)
(手の者からの報告では女を抱いたそうじゃしの、その女との何かの約束をしたとなれば、うちのアレを嫌がった理由付けともなろう。既に捕縛するべく早馬を遣わせておる事じゃし、早ければ10日後には捕らえられるじゃろう。なぁに、そいつが気に入ったのなれば、後々遣わせてやろうぞ、因果を含ませての。このままではあの家は消えるからの、傀儡でも据えておかねばならぬのじゃ。どのみち政略なら無理に抱く事も無いし、子飼いとなれば後は好きなように……それはそうと、あの者。どれ程の財を産み出してくれようかの)
◆
水化しての高速移動……早く逢いたいよ。
口直しならぬ見直しがしたいんだよ。
よし、到着、で、貫頭衣っと。
「おやおや、奴隷服とはまた」
好都合って幻聴が聞こえたような気がするぐらい、変な雰囲気になっている娼館。
受付で話せば部屋に通してはくれるが、後ろからただならぬ存在が付いて来る。
つまり、最後の別れをさせてはやるが、逃がすつもりは無いって事か。
部屋に入ると嫁さんの表情が暗い。
「あんた、何をやらかしたの。さっき貴族の使いの人が来て、約束している相手の事は諦めろって、女将に言われたのよ」
「スライムを身体のあちこちに付けたような女を押し付けられて、屋敷に幽閉されそうなのを逃げてきた」
「じゃああたしとの約束の為に」
「そうだけど、大体、スライムだぞ。いくら貴族の地位に返り咲けるとしても、あんなのはごめんだ」
「えっ、元はそうなの? 」
「追放されたからもう良いんだよ」
「でも」
ドンドンドン……。
ちっ、もう時間ってか。
「服を脱げ。水化して逃げるぞ」
「何処に逃げるのよ」
「任せろ」
荷物をまとめて拡張バッグの中に入れさせ、財布に入れて共に水化する。
師匠の迷惑になるかも知れんが、戻らなくても結局は迷惑を掛ける。
なんせあそこに居るのはバレているんだから、戻らなくても師匠は最悪殺されるかも知れない。
それならとっとと逃げ帰って事情を話し、可能なら共に他国にでも逃げるしかない。
幸いにも軍資金は大量にあるし。
肉親はどうしたと言われそうだが、追放の名の元に戦争にもよく使われる中級攻撃魔法を行使したうえに、オレを家出扱いにして攻撃の事実を隠蔽しようとしたんだからな。
ならば母親となるが、あれも怪しいものだ。
いかに騎士爵家とは言うものの、長男が家出したと言うのは外聞が悪いから自分が仲立ちになってと思ったんだろうが、事実を知って父親を糾弾したにしても、怪我の事以前に何の音沙汰も無くなったんだ。
本当にオレを心配しての事なら、中級攻撃魔法を撃たれたと知れば、身体の事ぐらいは聞いてしかるべきだろう。
つまりは外聞だ。
いかに肉親でもそんなのを心配などするだけ損だ。
まあ、それに付いては弟の精神魔法が関係しているのかも知れないが、そうだとしても共に被害者とは思えないから諦めて欲しい。
◇
共に水となって彼女を導く。
帰りは寄り道をしないので、ひたすら湖の上を歩くように……小走りの気分かな……で移動する。
本当は走りたいのに、精霊にはこの気持ちは理解出来ないのか、速く歩くのが精一杯のようだ。
なので捕らえられたらもうオレの中にはいられない、という別離の悲しみを伝えようとしてみると……。
うお、いきなり速くなった。
彼女のほうの精霊にもそれが伝わったのか、速く移動しないといけないのを理解したのか、共々湖の上を高速移動になっている。
ごめんな、少し脅かしたけど嘘じゃないんだ。
権力者の子飼いの研究者ならきっとオレの状態に気付くし、気付いたらもう逃げる事は出来なくなるだろう。
確かに魔素の無い空間でも魔法は使えるけど、嫁さんのほうはノーマルな精霊魔法なんだ。
だから嫁さんのほうを攻撃されたら、おとなしく捕まるしかない。
そしてそうなればもう、特定の精霊との付き合いは終わりになるだろう。
「さすがに疲れたわね」
「ああ、高速移動だったしな」
「でもそのうち来るよ」
「分かっている」
化け物女の飼い犬になる希望は出さないから、くれぐれも夫婦として暮らしているオレ達の邪魔だけはするなよ。
もしかしたら、以前の魔獣の件も怪しいと思うべきなのかも知れない。
あの辺りはゴブリンしか出て来ないし、あれ以来もゴブリンだけなのだ。
家からは追放され、頼みの師匠がいなくなれば、誘い込むには有利と思わなかったとはちょっと言えないな。
さしもの精霊もそこまでは分からないみたいだけど、絶対に無いとは言い切れない。
それぐらい稀有な遭遇だったんだ。
そう、例えて言うなら、東京でホッキョクグマに襲われるぐらいの。
平和的に言うなら、西日本で町歩きの野良ペンギンを見かけるぐらいの。
本当は言葉が分かる猫と言いたいけど、そういう猫にはかつて出会った事があるんだよ。
あれは不思議な猫だったけど、あれからどうなったのかな。
ともあれ、対策を考えないとな。
世界のミニ知識
遠距離通信を可能とする魔導具が存在しており、上位貴族と王族には国からの貸与がなされ、緊急時の連絡が容易になってはいるものの、私用に使う者が多いのも事実。
その為、貴族によっては2セットや3セットの場合もあるが、収める使用料はそれに比例する。
原料は竜種の魔石が用いられており、竜討伐の折には魔石は国が買い上げる事になっている。
こればかりはギルドにも手が出せない案件として、その見返りはかなりなものと言われている。
尚、通信機器は竜種の魔石を半分に割り、その双方での通信を可能にするものの、他の用途には使えなくなるので、通信機器としての役割を終えた魔石はそのまま処分される。
◇
精霊化とは
それは精霊との同化であり、単独での精霊化はまず維持からして困難である。
長年の間に確立された精霊は、存在、移動共にエキスパートであり、同化して意識を通じる事でその双方を補助してくれるので、やっとまともに存在を継続して移動がやれているだけなのだ。
人はただそれだけでも長時間の場合は精神疲労になるぐらい、精神の強靭さは比べ物にならない。
なので単独では不可能と言ったほうが良いかも知れない。