その6・「精霊様に対してバチあたりだよね」
静謐な空間。
祭壇の間に入ると、前室とは空気が一変したように思えた。
聖域、とセイルは言っていたなあ。
床全体が仄かな蒼みを帯びた神秘的な光を放ち、時折脈打つように明滅していた。
白い石材でできた石壁と、たぶん同じ種類の石を積んで作られた列柱には、通路にあったのと同じようなレリーフが彫られている。
その列柱によって、中央の大きな円形の空間が取り囲まれていて、天井に目をやると、その部分だけドーム状になっていた。
広間の真ん中の空間には、大理石でできた方形の水盤が鎮座していた。
年月を経ているにも関わらず、その中は清浄そうな水でたっぷりと満たされていて、周囲の薄明かりが水面に乱反射している。大きさは、そうだな、小さな宿屋の風呂場の浴槽ぐらいはあるかな。
水盤の外側の前面には、壁に施されたものよりも細かく凝ったレリーフが彫られていた。
そしてその縁に――誰かが寝そべっているのが見えた。
「戻りましたよ」
セイルが声をかけると、その人影は半身を起こして、こちらをじろりと見た。
人――いや。違う。
遠目には人間と変わらない感じだったけど、歩み寄っていくにつれ、異形の姿がはっきり見て取れた。
耳が顔の横ではなく頭の上に二つ並んで飛び出している。獣の耳だ。
さらに、頭部だけではなく頬から首筋にかけて、銀色の獣の毛がふさふさと生えている。お尻にはしっぽもあった。
毛深いところ以外は人間と同じで、顔は少女のようだ。
背格好は私と同じぐらいだけど、くやしいことに胸部のふくらみ加減は私よりほんの少し大きい。
丈の長い布の真ん中にに穴をあけて頭を出し、腰を帯で結んだだけの簡素な衣装をまとっている。人間の女が着ていたら、ちょっと恥ずかしいいでたちだけど、腕や足に毛が生えているのであまり気にならない。
首には、私がセイルから預かっているのと全く同じ形の、銀鎖の護符を提げていた。
かわいいイヌ娘だなあ。
などと不遜なことを想いながら、私はセイルと彼女のやり取りに口を挟まず聴いていた。
「約束のものを、お持ちしました」
さすがのセイルも、祭祀の対象になるような精霊に対しては、普段とは違う丁寧な物言いだ。
〈セイル・リュブナン〉
イヌ娘――セイルの言ってた彼女は、頭の中と耳の両方に響く不思議な声で、セイルの名を呼んだ。
〈遅かったではないか〉
「部屋の外にいた方に、手荒い歓迎をうけましてね。ていうかあれ、あなたの仕業でしょ?」
〈はて、何のことかのう〉
すっとぼけやがった。
扉の前の獣人像は、あきらかにコヨーテを模したものだろう。制御するための笛にもコヨーテが描かれている。彼女が無関係と主張したって、状況証拠が多すぎるだろうに。
でもセイルはその件を追及する気はないようだった。
「まあ、あなたがそう言うのなら、その事はいいです。遅れてすみません」
〈うむ、許す。――ときに、その童女は何じゃ?〉
彼女は私をちらりと見て言った。
ひょっとして童女って、私のこと? 自分も同じぐらいじゃん。ちょっとおっぱい大きいからって勝ち誇られてる?
〈遅刻の詫びに、妾への贄を差し出そうとでも?〉
「彼女は私の相棒ですよ。名は――」
〈アリヤ・ロモじゃな? 相棒。ふむ、そうか。そなたが〉
これには私もセイルも驚いた。
「どうして――」
と、質問したのは私だ。
「なぜ私の名を?」
〈それはもうすぐわかる。なるほどのう――セイル・リュブナン。約束のものを持ってきたと言ったな。これへ〉
いちいち偉そうな物言いだけど、神様みたいなもんなんだからしょうがないのかもしれない。
セイルはごそごそとカバンの中から例の土人形を取り出し、丁寧に床に置いた。
「これで間違いないですか」
〈まごうことなき形代の祭器。ようやった。大儀〉
「それはそうと、そろそろあなたの名前をお聞かせ願えませんかね。こちらはすでに名乗ってますし、アリヤの名前も知ってるみたいなのに、あなたの名前を知らないのは少し心地が悪いですよ。それと、「儀式」のためにも必要なので」
〈よかろう。遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にも見よ〉
イヌ娘は、待ってましたとばかりに水盤の縁の上に立ち上がり、腰に手をやり胸を張った。聞いてるの二人だけだけどね。
〈我が名は、始祖なる翼持つ大いなるものの眷属にして英雄王ガッセン・ハールに与せし者、白銀のコヨーテの精霊「賢きヒュウン」。畏れ入れ、凡俗ども〉
「じゃあヒュウンさん。畏れ入りましたんで、さっそく「儀式」を始めたいと思うんですが、準備はよろしいですか?」
まったく畏れ入った様子の無い口調でそう言うと、セイルは土人形をふたたび慎重にひろい上げた。
恰好をつけてヒュウンと名乗ったイヌ娘は、水盤の縁に仁王立ちになったまま、二の句を告げずに硬直していた。
御大層な名乗りだったけど、セイルの予想通り、彼女の正体はコヨーテの精霊だったみたい。
今は廃墟みたいな遺跡の奥でくすぶってるけど、もとは格の高い信仰の対象だったのかもしれないなあ。
「そこ通りますんで、ちょっとどいててもらえますか?」
と、その偉い精霊様を水盤の縁からどかせて、セイルはざぶざぶと水の中を歩き、水盤の真ん中にある円形の祭壇へと人形を運んで行った。
〈……なんとも調子の狂う御仁じゃの〉
「あ、ヒュウンもそう思う?」
セイルの能天気に振り回される身の理不尽さを共有できる相手ができたようで、私はなんだかヒュウンに親近感を持って、タメ口で話すことにした。
彼女の傍に寄って、ふさふさしたその毛並みを、両手でもふもふ撫でながら、ため息交じりに愚痴る。
「会ってからずーっとあの感じでさ。私なんてここまで何度頭をかかえたことか」
〈妾も千年の眠りから目覚めていきなり、立ち退けと言われてのう。こなたより訊ねるまで理由も言わんのじゃ〉
「精霊様に対してバチあたりだよね」
〈それについては、そなたも大概じゃぞ〉
そうかな?
「ところで、さっきから気になってるんだけど、「儀式」って?」
〈うむ。我をこの地に拘束する力を弱め、かかる祭器に我が実体を封じていただくのじゃ〉
「封じる?」
〈さよう。土地のものらの信仰によって霊験を得たる我が身、この御社と縁ありて、離れることいと難きゆえ。セイル・リュブナンの捧げたる祭式によって形代の祭器に封じ、持ち出すことでしか、かの者の頼みを聞く術はなし〉
要するに。ヒュウンをこの寺院に縛っているその因果を解き、あの土人形に封じ込めれば、ここから持ち運べるようになり、晴れてムパンヤ遺跡の封印が解けて調査できる、ということらしい。
てことは、この可愛いらしいイヌ娘は遺跡調査が終わるまで、あの土饅頭の姿で過ごさなければならないわけか。ちょっともったいない気もするなあ。
「封じられるのって、嫌なもんじゃないの?」
〈常ならば、さようじゃの。じゃが此度は、いと面白きことありて、ひとときの戯れに、話に乗ってみようかと思うたのじゃ〉
「ふうん」
面白きこと、ってなんだろ。
イヌ娘とそんな話をしている間に、セイルは慎重に人形を祭壇上の座に据えて準備を終え、水盤の外に戻ってきた。水浸しになった服を絞りながら、
「では、始めますよ」と告げた。
封じの儀式に、土人形以外それほど大掛かりな準備は必要ないらしい。
彼は黒い短剣を手に取り、その先端で慎重に、空に術式を描いていった。
描かれた軌跡が光で満たされていき、儀式が始まる。
私はヒュウンのしっぽを撫でるのをやめ、邪魔にならないように、一歩下がってその様子を見ることにした。
術式が完成するまで、さほど時間はかからなかった。
神様に等しい精霊の魂を寄せて形代に移す、なんて、素人考えでは最高級の難易度じゃないかと思うけど、のほーっとした顔のままそれを難なくやってのけるのがセイルの底の知れなさだ。
詠唱が終わると、ヒュウンの体がふわりと宙に浮いた。
〈ふむ、よい具合じゃな〉
彼女は楽しそうな表情で感想を述べた。
そしてそっと目を閉じ、両手を広げた姿勢になって、滑るように水盤の上に移動し、土人形の真上で停止した。
その瞬間、床の石材の隙間から青い光の粒子が足元から天井に向かっていくつも浮き上がり、ヒュウンと土人形の周りを旋回し始めた。
粒子は時を追うごとにその数を増やしていき、やがて祭壇全体が眩しいほどの白い光に包まれた。
鼓膜をつんざくような、甲高い音が響き渡る。
「ねえ、これ、成功したの?」
耳を押さえながらセイルに尋ねると、彼は首を横に振った。
「ちょっと予想外の展開だなあ。ヒュウンさんの実体の力がこれほどまでとはね。流れてくる霊力の力がちょっと大きすぎるかも。君も直に触れないようにね」
「じゃあ、失敗ってこと?」
「半々かな。術式そのものは完成して発動してるから、これ以上僕の力では制御はできない。うまくいくかは、運しだいってとこ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたな。私は少し不安を感じて、固唾をのんで成り行きを見守った。
目が慣れてくると、祭壇の方の様子も少し見えてきた。土人形がカタカタ振動している。視線を上げると、小さな稲妻のようなものを伴った光輪が重なり、ヒュウンを中心として旋回している。ヒュウン自身の姿は徐々に陰影を失い、光の中に溶けていくように見えた。
やがてまとまった白い光の奔流が広間中に渦をまき、一気に土人形に流れ込んでいった。
「よし、上手くいきそう――」
セイルがつぶやいた直後のことだった。
祭壇の上の、精霊の形代たる土人形に、大きなひびが入った。
乾いた音がして、それが粉々に砕けるまでは一瞬の出来事だった。
「セイル!」
祭壇の前に駆け出し、私はセイルの体を押し倒すようにして床に伏せさせた。
間一髪、人形からあふれ出した光の筋が二人の頭上を走り、その熱波が私の髪の毛の端を少し焦がした。
人形の破片が周囲に飛び散り、私の背甲にもぶつかってきたけど、今度は傷を負うほどじゃなかった。
「セイル、無事?」
「アリヤこそ、また無茶を」
「それより、ヒュウンは?」
起き上がって、二人は同時に祭壇方向に目をやった。
土人形の姿は影も形もなくなり、そこに吸収されつつあった白い光の束が球状になって、脈打つような微動を繰り返しながら、祭壇の上にゆらゆらと漂っていた。
私には、その光が行き場を探して彷徨っているように見えた。
コヨーテの精霊ヒュウンの土人形への移動が失敗して、暴走していた彼女の力――というのか、霊魂? 霊体? とにかくそんなようなものと思われる、白い光。
どうなったのかな。
安定している? 私は確かめようと、興味のままに一歩近寄った。
光球は急に動きを止め、一刹那の間を置いてから、私めがけて飛んできた!