第三十話 出発
和明がアメリカへ旅立つ朝だった。何も知らない美咲はいつもと同じように洗面所で顔を洗っていると、難しい顔をした正樹が立っていた。中学まではほとんど変わらない身長だったのに、今では頭一つ分正樹の方が背が高い。肩幅もがっしりしているなぁと狭い洗面所でぼんやりと美咲は正樹を見やった。正樹は言いにくそうに口を開く。
「美咲、あのな・・・・。」
「どうしたの?朝っぱらから浮かない顔して。あ、わかった。こづかい貸してくれっていうんでしょ。だめよ、私も今月ピンチなんだから。」
正樹は心底あきれた様子で睨んでくる。一体何なの?美咲は訝しげに首をかしげた。
「やっぱいいわ。後で・・、学校行ってから話すわ。」
「?」
正樹は、そのままくるっと反対に洗面所を出て行った。
正樹は何を言いかけたんだろう・・。美咲はさっきの正樹とのやりとりを気に掛けながら学校の門をくぐっていた。やっぱり気になる。先に家を出た正樹は教室にいるはずだ。美咲は急いで上靴に履き替えると正樹の教室へと向かった。人の間をくぐりぬけ廊下を進み、やっと正樹の教室へとたどり着いた。扉から顔を出して正樹の姿を探すと、すぐに見つけられた。けれども男子生徒数人と一緒に話しこんでいてなかなか気づいてもらえない。どうしようかと思案していると、藤井理沙が廊下の向こうから歩いてきた。向こうも美咲に気づいた様子だったがそのまま横を通りすごしていった。美咲は一瞬ためらったが、その背中に声をかけた。
「藤井さん、おはよう。この間は、ありがとう。」
理沙は振り返り、美咲の方に視線を向けた。
「別にあなたにお礼を言われるようなことしてないわ。」
「ううん、あなたに教えてもらわなかったら何も知らないままだったわ。ありがとう。」
「寺西君、アメリカへいつ行くの?いくら聞いても彼教えてくれなくて・・・。あなたは聞いているんでしょう?」
「ううん、私もなにも聞いてないから・・・。」
二人で向かい合っているうちに正樹が美咲に近寄っていた。
「美咲、話がある。ちょっと来てくれ。」
正樹が美咲の腕をつかむと理沙の方に小さく「悪いな。」と断ると廊下の端の方へとひっぱっていった。
「正樹、朝言いかけたこと何なの?私、気になって・・・。もしかして和ちゃんのこと?」
「・・・ああ。あいつ今日の昼の便で発つんだ。あいつに口止めされてたんだけど・・・。美咲、今から向かえばまだ間に合うぞ。どうする?」
正樹の言葉に美咲は大きく目を瞠った。咄嗟に時計に目を向けたが、またゆっくりと正樹の方を見た。。昨日会った和明の姿が浮かんでくる。やさしい薄茶色の瞳を思い出した。
「和ちゃん、何か言ってた?」
「あ、ああ。・・・見送りはいらないって、別れがつらくなるからって。それとあいつが発った後にこれを美咲に渡してくれって預かったんだ。」
美咲は紙袋に包まれたものを正樹から受取り、じっと見つめていた。
「これ、何?」
「さあ、いらなかったら処分してくれってあいつ言ってたけど・・・・。まあ、後で開けてみればいい。美咲、見送りはいいのか?」
「・・・・・。」
美咲はじっと考え込むようにうつむいていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「私、きのう和ちゃんに会った。たぶんあれがお別れだったんだと思う。」
「・・・美咲。もう会えないんだぞ。今度いつ帰ってくるかもわからないし・・。本当にいいのか?」
「空港まで行って笑って見送る自信ない・・・。和ちゃんも望んでないのに行けない。」
「そんなことどうでもいいだろ。今行かないと本当に間に合わないぞ。」
美咲はもう一度首を横に振り、正樹はじっとそれを見つめていた。
「正樹、ありがとう、出発のこと教えてくれて。本当は気になってたの。昨日も何も話さなかったから。」
「・・・・・」
「私、ずっと和ちゃんの足手まといになってるんじゃないかって思ってた。でも、これでやっと対等になれた気がする。和ちゃんの夢の手伝いができたと・・・。」
美咲は吹っ切れたように正樹の方に笑顔を向けた。丁度その時、一時間目の始業を告げるチャイムが校内に響き渡った。美咲はそのまま踵を返し急いで廊下を走り抜けていった。正樹は黙ったままその背中を見つめていたが、そのままゆっくりと教室へ戻っていった。
昼休み、美咲は和明からの包みを持ち、屋上へと上った。とてもいい天気で冬の空は澄み切っている。少し肌寒いが日のぬくもりが心地よかった。美咲は段差のあるプロックに腰かけて和明からの紙包みを開けてみた。中からはB5のノート5冊が現れた。何だろうとその一つをペラペラとめくってみると、数学の公式やら問題が丁寧に書かれてある。他のノートも順にめくってみるとすべて数学の内容だった。まさに手作りの参考書だ。和明の見慣れた文字が並んでいる。男の子の書いたものにしてはとてもきれいな見やすい代物だった。
「和ちゃん・・・・。」
ノートの字がだんだんぼやけてかすんでくる。数学の苦手な美咲のために、ひたすらこのノートを作りあげたのだろう。短期間のうちにここまで・・・・。そのノートの間からメモのような紙切れが滑り落ちた。美咲はゆっくりとその紙片を開いた。
「美咲へ
ずっと一緒にいる約束守れなくてごめんな。二番目の夢がかなったら、今度は一番目の夢が かなうよう頑張るつもりだ。もしできればその時にまた美咲に助けてほしい。その時 まで美咲も頑張れよ。同じ空の下で応援してる。 和明」
美咲はその手紙を大事そうにたたむと胸にぎゅっと抱きしめた。丁度和明の乗った飛行機がアメリカへ向かう頃かもしれない。今度会えるのはいつかもわからず、先の約束もしたわけじゃない、けれどもまた、きっと会える。二番目の夢がかなう時にそばにはいられないかもしれないが、先の未来にまた、和明がいるのではと希望が湧いてきた。
美咲は立ち上がり、東の方向のフェンスに近づき大きく手を振った。
「和ちゃん、さようなら。元気で・・・。」
子供のころの思い出から最近の和明とのやりとりが胸をよぎる。冷たい風が美咲の髪をなでつけていったが、美咲は遠い東の空をいつまでも見つめていた。
和明がアメリカへ旅立ちました。二人は離れてしまいますが、心は一つです。この続きも読んでくださるととても嬉しいです。感想お待ちしています。