第二十九話 冬の別れ
二人が離れていくのは、早かった。学校の行き帰りの道も、図書館で一緒に過ごした時間も今では過ぎ去った遠い思い出と変わっていた。それぞれが会う約束をしなければ、広い校内で偶然会うこともほとんどない。暦も12月に入り、寒さもだんだん厳しくなってきた。ついこの間の数か月が夢だったのではないかと思うほど、穏やかに時間が流れて行った。たまに見かける和明の姿を追いかけては、無理やり視線を外す。もうすぐその姿を見ることもかなわなくなる。アメリカへ行く準備はもうできたのかな、いつ旅立つのかなと自分から突き放した手前、聞くこともできず、美咲は遠くから心の中で問いかけていた。
「和明、本当に行くんだな。」
クラブが終わった後、正樹と和明は並んで駅からの道を自宅に向かって進んでいた。和明はもう吹っ切れたというようにその質問に笑って答えている。
「ああ、学校へ行くのも明日が最後だ。明後日の飛行機で発つから。手続きもすべて済んだし。」
「そうか。あれからあっという間だったな。」」
「ああ、そうだな。おまえとこうやって顔を会わすのも、もうすぐできなくなる。」
「和明・・・。」
「寂しいか?」
和明は笑いながら正樹の方に顔を向けた。同じように笑い飛ばす答えが返ってくると思っていたのが違っていた。眉間にしわを寄せ、唇をかんだ正樹が黙りこんでいる。いつもと様子の違う正樹に和明も視線を落とした。
「公園で初めて会ったときからずっと一緒だったからな。おまえがいなくなるっていうことがまた゛よくわからないんだ。」
正樹はさびしそうに呟いた。二人にとってお互いが一番の友達だったのだ。寂しくないわけがない。
和明は鞄の中から紙袋を取り出し、前を向いたままの正樹の横顔に声をかけた。
「正樹、頼みがあるんだ・・・。」
「え?」
「俺がアメリカへ行った後でいいから、これを美咲に渡してくれないか。」
何気なく手を出すと思ったよりずっしりと重さを感じた。
「何だこれ?自分で渡せばいいじゃないか。」
「いや、おまえから渡してほしい。大したものじゃないんだ。必要無ければ捨ててくれてもかまわない。・・美咲と話せば離れたくなくなって、俺の決心も鈍りそうだから。」
「決心って・・。おまえ、美咲のことはもういいのか?昔からずっとあいつのことしか目に入ってなかったくせに・・。本当にあきらめるのか?」
「はは、そうだな。俺には美咲しかいてない。たぶんずっと、一生、諦められないよ。」
和明の言葉に正樹は一瞬大きく目を見開いたが、すぐにあきれた声で言い返した。
「おまえなぁ・・・。どうする気だ?アメリカからいつ帰ってくるとか先のことも考えてるのか?まさかずっと向こうにいる気じゃ・・・。」
「いや、目的を果たしたらすぐに戻るつもりだよ。」
「目的ってなんだよ?」
「向こうの大学を出て資格を取ってくる。」
「へぇ、それで?」
「それでって?」
「日本に戻ってどうするんだ?」
「希望の仕事に就いて、それから・・・正樹、勘弁してくれ。まだどうなるかわからないんだ。とにかく向こうでできるだけのことはしてくるよ。そして戻った時に、もし・・・。」
「ああ、わかったよ。大丈夫だ。何か安心した。あいつのためにも必ず戻ってこいよ。」
正樹が笑顔を向け和明の背中をたたくと、和明も笑って強く頷いた。
「正樹、本当にありがとう。俺、昔からおまえにはいつも助けられて・・・。本当に感謝してるんだ。」
「和明・・。いいや、そんなことない。世話になったのは俺の方だよ。…何時の飛行機だ?」
「へ?」
「美咲と一緒に見送りに行くよ。最後だからな。」
「いや、いい。来なくていいよ。」
「何で?見送りにも来るなってか」
「ああ。別れがつらくなる。」
「美咲とももうこのままでいいのか?」
「ああ、美咲には出発のこと言わないで欲しい。美咲のおかげでアメリカへ行く決心がついたんだ。美咲が俺の背中を押してくれた。でも、見送られると飛行機に乗る自信がなくなる。やっと決心がついたんだが、やっぱり離れたくないんだ。でも、俺、アメリカの大学へ行きたい。今度会うときに美咲にふさわしい男になっているよう頑張るつもりだ。」
「和明、頑張れよ。」
「違う。お互い頑張ろう、だろ。離れても俺たちはずっと友達だ。」
「ああ、そうだ。昔から何やってもどんなに頑張っても、お前には敵わなかった。悔しかったよ。でも、そのおかげで俺もここまでやってこれたんだ。これからもおまえに負けないよう精一杯頑張るよ。どっちが先に夢をかなえるか競争だな。」
「ああ、そうだな。おまえには負けられない。」
「・・・見送りは行かない。また、会えるよな?」
「もちろんだ。正樹も元気で・・。」
「ああ、おまえこそ。」
二人は笑って頷き、固い握手を交わした。冬の夕暮れは日が落ちるのがとても早い。寒い冷気が二人の間を過ぎて行ったが、これからの未来に明るい希望が見えるのか全然寒く感じられなかった。これは別れじゃない。今度会うまで少しの間、離れているだけのことだ。正樹は親友の向こうでの活躍を心から祈った。
寒い冬の日だった。美咲は一階の職員室から担任に頼まれた資料を片手に、渡り廊下を歩いていた。運動場から体育の授業を終えて更衣室へと向かっている男子生徒のグループが歩いている。美咲が何気なくそちらの方に視線を向けるとそのうちの一人と眼が合った。美咲は驚いて立ち止まり、思わず持っていた資料を落としそうにになったのをかろうじて抱え込んだ。その視線の先にいた和明も思わず駆け寄りそうになったが、そばにいた男子生徒に肩をたたかれ、その場に立ちすくんだ。二人の様子に気が付いた一人が気をきかせて去っていく。美咲と和明の距離はそんなに離れていなかったが、久し振りに会う二人にはこの距離がもっと離れていくのをよくわかっていた。美咲はかける言葉も見つけられず、まっすぐに和明の顔も見られない。和明は切なそうな顔で美咲を見ていたが、諦めたように大きく息をついた。その気配に美咲が顔を上げると、和明はいつの間にか屈託のない笑顔を浮かべている。和明は小さくなにかを呟くと軽く手を上げて踵を返し、男子生徒達の後を追って走り去った。小さくなっていく和明の背中を見つめる美咲は、和明の最後の言葉をゆっくりと抱きしめる。
「美咲、ありがとう・・・。」