第二十八話 平気だから
部屋の入口に立った和明はスウェットスーツに身を包み、疲れた顔をしていた。美咲を見ると一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔をしかめ母親に席を外すよう頼んだ。美咲もなんといえばいいのかすぐに言葉が出てこない。テーブルを挟んで向かい合い、美咲が先に口を開いた。
「和ちゃん、具合どう?」
「ああ、だいぶましになったよ。・・・美咲、この間のことだけど・・・。」
「・・・・」
「その、藤井さんとは、その・・。」
和明は言いにくそうに話を切り出した。美咲は口をつぐんだまま何も話さず俯いていた。
「和ちゃん・・。」
「えっ」
「和ちゃん、私、ショックだった。」
「ああ、ごめん。その・・。」
「土曜日、二人が一緒にいるところを見たのは、その時はすごくショックだった。でも今はそんなことどうでもいい。」
「え?」
「どうして、何で話してくれなかったの?アメリカへ行ってしまうこと。」
「美咲・・。それは違うんだ。俺は日本に残るつもりで・・。」
「どうして?そんな大事なこと何で一番に私に話してくれなかったの?私、藤井さんに言われて初めて知ったのよ。」
「ごめん。心配掛けたくなかったんだ。」
「それに、アメリカの大学へ進学したいんでしょう、おばさんが言ってた。前に私が聞いた時はまだやりたいことはないって言ってたのに・・。」
「・・ずっと、パイロットになるのが夢だった。航空学の勉強するのにアメリカにある大学が一番よかったんだ。けど・・・。」
「けど?」
「俺の一番の夢は、昔から・・。」
和明の真剣な顔が美咲の瞳に映し出されていた。胸の鼓動がどんどん上がっていくのがわかる。美咲は思わず視線をそらしたが次の瞬間、和明に手をつかまれてしまった。
「美咲。お前のそばにいたいんだ。ずっと美咲の一番近くにいたい。」
「和ちゃん・・。」
「だめか?」
不安げな表情の和明に美咲は戸惑っていた。自分もずっと和明のそばにいたい。アメリカなんかに行ってほしくない。それが本音だった。でも、和明の夢を自分のせいで壊してほしくない。やっと思いがかなったのに、やっと一緒にいられると思ったのに。美咲はいまにもこぼれそうな涙をぐっと押し込んで唇を引き結んだ。膝に落としていた視線を上げると、静かにこちらに向けられている和明と目か合った。
「…私、もう和ちゃんとは一緒にいられない。少しの間だったけど、楽しかった。アメリカへ行っても元気で頑張って・・。」
和明はその言葉に眉を寄せ、悲しげに俯いた。美咲の手から和明の手が離れていく。冷たい空気が美咲の手を包みこみ、すぐに冷やしていった。
「美咲、やっぱり怒ってるのか?もう、元通りにはならないと言うのか?」
「・・・・・」
「美咲。」
「私、昔からダメな子だったでしょう?いつも和ちゃんと正樹の影に隠れて・・・。小学校の時、一度だけ同じクラスになった時もクラスの子にひやかされるのが嫌で和ちゃんのこと傷つけた。昔からそう、和ちゃんは私が困った時、必ず助けてくれた。私はいつもそれに甘えて、迷惑かけて・・。」
「違う、迷惑なんか・・。」
「ううん、和ちゃんはいつも私に優しかった。なのに、私は・・・。和ちゃん、アメリカへ行って。私なんかのために日本に残るなんて言わないで。もう、私は大丈夫だから。和ちゃんがいなくてもちゃんとやっていける。」
「違う、美咲のためじゃない。自分のためだよ。勉強なんかやろうと思えばどこでもできる。それとも、美咲は俺がいなくなっても平気なのか?」
和明の言葉に美咲は黙り込んだ。できることならいっしょにいたい。素直に「行かないで」と言えたなら、どんなに楽か。でも、和明の足だけは引っ張りたくない。和明が自分なんかに捕らわれずに素直に夢に進んでほしい。美咲は和明の背中を押してあげなければと必死だった。
「平気だよ。和ちゃんがいてもいなくても別に大丈夫。」
美咲は和明の目を正面から見据え、言葉を放った。和明は一瞬目を見張り、何か話そうとしたが、美咲のかたくなな態度に大きな溜息を落とすと一言つぶやいた。
「わかった・・。」と。
美咲はすぐ手に荷物を抱え、肩を落とした和明をそのままに家を出た。外に出るといつの間にか夕日も沈み、あたりも暗くなっている。これからの自分の未来のようだと漠然とした不安が胸によぎる。我慢していた涙があふれ、頬を伝っていくのがわかる。よかった。これでよかったんだ。和ちゃんがいなくても大丈夫。今までもろくに話もしなかったじゃない。また元通りに戻るだけ。美咲は心の中で何度も自分に言い聞かせていた。
美咲は坂道をゆっくりと登り、自宅の扉を開けた。その音を聞きつけ、玄関先に正樹が駆け付けた。きっと心配していたに違いない。見るからに心配そうな顔で美咲の方を見ている。美咲は思わず苦笑して口を開いた。
「本当に心配症ね、大丈夫よ。」
「・・美咲。和明に聞いたのか?」
「うん、アメリカへ行くんでしょう。」
「お前、いいのか?」
「いいもなにも仕方ないじゃない。私にはどうしようもない。」
「けど、お前が行くなって言えば・・。」
「ううん、そんなこと・・。頑張って行ってきてって言った。私、頑張ってって・・・。」
我慢していた涙がまた溢れ出し、止まらない。正樹の顔を見て緊張が解けたのか美咲はとめどなくむせび泣いた。何度も手で涙をぬぐう美咲に、正樹は「わかったから」と寄り添い背中をさすり続けた。