私の知ってるヤツじゃない。
二人がかりで取りかかれば腐海の森のようであった部屋も、物の一時間位で綺麗になった。
となれば、後はもう目を醒ますだけ……のはずなんだけどな……。
「お嬢が手伝ってくれたお陰で随分早く片付いちまったな。しかしよ、もう寝ないといけない時間じゃねぇのか?」
「あ、うん、こちらこそ手伝って頂いてありがとうございました……って、違う違う。今が寝てる状態でしょうが普通に考えて」
「うん? 何だこんなとこでそんな格好で寝たら風邪ひいちまうぞ。それともさっきみたいに俺がベッドまで運んでやろうか?」
「あー、はい。ごもっともです。というかさっきベッドまで運んでくれたのアンタだったんですか……って、だから違うってば」
現在私は正座をして、謎のマッチョはラフな立て膝スタイルで向かい合っている。ちょっと色々際どいので立て膝を止めてほしいのだが……。
ここは二階なので下に音が漏れないように敷いてあるラグの上にいるんだけれど、謎のマッチョはこの部屋の住人である私ですら忘れていたコロコロをどこからか持ち出してきて、私と会話しながら丁寧に細かいゴミを取り除いていた。
「ちょっと気になるんだけど、そのトランクスとタンクトップ――うちのベランダに変質者除けに干してたヤツに見えるんだけど?」
「あぁ、そうだ。俺のためにお嬢が干しておいてくれたんだろう? どうだ似合うか?」
「……あ~……うん」
――やっぱりそうか。
変質者除けで変質者が釣れてしまった。朝の情報番組嘘つきじゃないか。
一般的な日本人の成人男性の体格を基準に選んだから。それでそんなに身体の大きさに合っていないのか。ピチピチすぎて目の毒である。
こんなことが起こると分かっていれば、せめてユニ○ロの少しお洒落なタンクトップとトランクスにしておいてあげれば良かったな。
……私は焦っていた。
一向に目覚める気配がないどころか多分この受け入れがたい状況が現実なのだと、頭のどこかで冷静かつ非情な判断を下している自分がいる。
だとすれば――チラリと横目に確認した銀行に口座を作った時にオマケでもらった某・夢の国のキャラクターが描かれた壁掛け時計が、もう少しで四時を指そうとしている。
……私は焦っていた。
ヤバい、このままでは貴重な睡眠時間がなくなってしまう、と。この状況下で吃驚する社会の歯車っぷりに自分でも怖くなった。
それに、何というのだろうか――。
目の前で「ん? どうしたお嬢、眠いのか?」とこちらを気にかけてくれるマッチョがそこまで悪い奴だとは思えない。さすがにそろそろコロコロするのを止めろとは言いたいけどな?
いや、まぁ、確かに最近あんまり家の掃除してなかったけれども。
そもそも下着姿のまま向かい合っていることがすでにおかしいし、いくら私に色気がないとは言え、何をしてくる気配もない。
物取りがわざわざ掃除を手伝ったりするはずもないだろう。これはもう信じても良いかぁ……。
ついに四時を指した時計に恐れをなした私は、そうトチ狂った判断を下して真向かいに座るマッチョにこう宣言した。
「私は今からシャワー浴びてもう一回寝るけど、この部屋にいても良いから九時になったら起こして。それで今は簡単な自己紹介だけしとこう。私は飯田飛鳥、今年で二十八歳。血液型はO型。好きな物はお酒。最近の趣味は惰眠を貪ること。あと、私一般人だから“お嬢”呼びは止めて」
そこで言葉を区切ってマッチョに自己紹介のバトンを渡す仕草をする。その間、意外にもマッチョは真剣な顔をして私のふざけた自己紹介を聞いてくれていた。
「俺はブラウニー。恥ずかしながら名前はまだない! 歳は二百を越えた辺りから数えていないが、好物はミルクとクッキー。最近はお……アスカが用意しておいてくれる食料が好みだな。趣味は家事手伝いだ」
あー……何だっけ? 聞いたことのあるお菓子の名前……じゃなくて、何だっけ……えーっと。
「あぁ、ブラウニーってあれか! ケチな給金でえらく働いてくれる労働者の鏡みたいな――あの家政婦妖精のことか?」
「そうそう、それだそれ。お手伝い妖精な。今じゃすっかり存在が廃れちまったってのに、物知りだな! さすがに毎回豪華な褒美を置いといてくれるだけある。あの褒美の量なら何でも出来るぜ!」
「ほぉ、そうかそうか、ブラウニーだったのかオッサンは。そんで毎回うちの台所の食料を荒らし――もとい、褒美に今回みたいなことをしてくれてた訳かぁ……なるほどなぁ……」
しかし、このオッサンは一枚も二枚も上手なふざけた自己紹介をしてきやがった。これは真面目に答える気がないな……。しかも私は当然のことながらこのオッサンに食料を用意してやった憶えはない。
けどまぁ、いまこの場で目くじらを立てるような情報でもない、のか?
むしろ最近朝のゴミ出しもする余裕がなかったのに生ゴミが溜まってなかったのも、取り込んだ記憶のない洗濯物がたたんであったのも――もしかして無意識に自分で片付けたんじゃなくてこのオッサンの仕業だったのか?
だとしたら、正直凄く助かった……って駄目だ、冷静な判断力が本格的にお留守になり始めている。
「……うん、とにかく、今晩はもう遅いから追い出すのもあれだ。その辺でゴロゴロしてると良いよ。食べ物は元から勝手に食べてたみたいだし、お腹空いたら好きに何か食べといて。冷蔵庫のビールは二本までなら許す。寝てる私の部屋には入らないこと、で、オッケー?」
何にせよ時計はすでに四時十五分を指している。これ以上睡眠時間が失われるのは拙い。
私の提示した案件に「おう、任しとけ!」と親指を立てて快諾するオッサン、もとい、マッチョ・ブラウニー。
私が立ち上がると、マッチョ・ブラウニーも立ち上がったので一瞬身構えていたら――。
「この間バスタオルを片付ける場所を変えたから分からんだろう? 何だか香りが強すぎて、他の衣類と一緒にしたら香りが移っちまうんだ。すまんな。アスカがシャワーを浴びて出てくるまでに出しておいてやろうな」
などと良い笑顔で曰うマッチョ・ブラウニー。何だよ気遣いの出来る良い奴だな。こんな出逢い方でさえなかったら惚れてたわ。
思わず“勝手に何してるんだよ”と言う言葉と“そうなんだよな~あの新しい洗剤香りが……”という内心困ってたから助かったという相反する気持ちが交差する。
渋々自分を納得させた私は「そんじゃまぁ……」とシャワーを浴びて、約束通りマッチョ・ブラウニーが出しておいてくれたバスタオルで身体を拭いて再びベッドに戻った訳だが――。
眠る前に「お休み、アスカ」と笑いながら缶ビールをひっかけているマッチョ・ブラウニーの姿を見てふと和んでしまう自分がいて驚く。
さらに――翌朝私を起こしたのはマッチョ・ブラウニーその人ではなく、彼が冷蔵庫の生ゴミ予備軍で作ってくれた、どこかのホテルのモーニングかと見紛う素晴らしい朝食の香りだった。
「おぉ、お早うアスカ。どうだ、よく眠れたか? ちょうど良い所に来たな。朝食の支度が出来たところだったから、いま声をかけようと思っていたところだったんだ」
「あ、うん。お早う……」
「どうした、まだ寝ぼけてるのか? さぁ、冷めないうちに早く顔を洗って食べてくれ」
そう急かされて台所で顔を洗って戻ると(うちに洗面所はない)、そこには満面の笑みで卓袱台を前に私を待っているマッチョ・ブラウニーがいた。
「朝食はその日一日で最初のエネルギー源だからな! しっかり食えよ」
自分で使うとすれば、精々が焼いてマスタードを付けて食べる位が関の山なソーセージがそろそろ危なかった根菜類と一緒に具沢山なスープに。
牛乳は紅茶のティー・パックを煮出したミルクティーに変身している。
冷蔵庫でパサパサになっていた食パンは、表面をあのコンロもどきで炙って綺麗な焼き色が付けられて美味しそうな香りをさせていた。
昨日の格好のまま台所に立ったのかと思うと同時に、よくぞあのコンロもどきと賞味期限ギリギリの野菜や卵だけで、ここまでの朝食を拵えたものだと感心することしきりである。
けれどそれよりも気になったのは……。
「なぁ、何で一人分しか用意してないの?」
「うん? 俺はただのブラウニーで、この部屋の主はアスカなのだから、アスカの分しかないのは当然だろう?」
……一体どこまでその設定を守ろうとしているんだ、このオッサン。
半ば呆れ、半ば感心しながら、明るい日差しの入るボロアパートの一室に不似合いな濃い姿のオッサンを眺める。
「……いや、そこは作ってくれた人間も一緒に食べるべきだろ。そもそも朝からこんなに食べられないし」
「そうなのか、アスカは少食だな! だがそういうことなら、お言葉に甘えるとするか!」
途端にウキウキと自分の皿を用意しだしたマッチョ・ブラウニーを見ていたら、思わず吹き出してしまった。
私が笑ったことに気付いたマッチョ・ブラウニーは、こちらもまた嬉しそうに濃い笑顔を浮かべる。
「雇い主とこんな風に食卓を囲むのは、俺の長いブラウニー生の中でも初めてだな!」
――とか何とか、適当なことを抜かしつつ嬉しそうに自分で作った朝食を食べるマッチョ・ブラウニー。
私もここまでまともな食事を食べたのも、誰かと食事をとったこともかなり久し振りだったこともあり、またとんでもなく美味だったので……つい。
「あのさ……これ、鍵のスペア渡しとくから。出かける時はちゃんと戸締まりしてから出てよ。今日帰ったら一回ちゃんと話をしよう」
職場に出かける私を玄関まで見送りにやってきたマッチョ・ブラウニーの胸板に、俯いたまま拳をぶつけるみたいに押し付けた。
しかしなかなか返事がないので気まずくなってソーッと視線を上げてみると、そこには凶悪なまでの迫力ある笑みを浮かべたマッチョ・ブラウニーが立っていた。
そんな顔を眺めていたら、何だか。何だろうな。
今日は拝み倒して定時に上がらせてもらったら、このところ身近で起こった出来事のお礼も兼ねて、ユニ○ロで外人サイズのお洒落なトランクスとタンクトップと……ちょっと外出出来そうな服くらいは買って帰ろう。
そう思って履いたボロいスニーカーは、いつもの朝より少しだけ足取りを軽くさせる気がした。