八 「私のここにいるの」
奈良県橿原市、奈良県立医科大学付属病院。
愛真は連日の検査に辟易していた。何をどう調べてくれても、愛真は自分の体のことをよく分かっていた。もはや一人では歩くことも出来なくなっている。誰かに支えられるか、壁を伝わってしか歩けない。筋力が落ちたのではない。四肢に力が入らないのだ。他人の手足が付いているように、感覚が無くなっていた。
それでも、誰かが見舞いに来ると気丈に振舞っている。特に夜月には、心配を掛けたくはなかった。
お見舞いのケーキを食べながら、愛真は終始笑顔でいた。本当は、薬漬けで食欲がなかったのだ。大好きなケーキを見ても、吐き気がするほどだった。しかし、夜月がここにいてくれると、安心だった。他愛無い会話が嬉しかった。
「昨日、青山くんが自首したよ」
夜月が病室に入って来る時、一瞬顔色が曇ったのは、これだったのかと愛真は思った。きっと夜月は、いつ話そうかと迷っていたに違いない。そう思うと、愛真は済まない気持ちで一杯になった。元気であれば、夜月に苦労を掛けずに済んだからだ。
「うん」
愛真は頷くだけだった。青山は、必ずそうすると思っていた。そして、そうするように愛真が願ったことだった。
「田岡麻梨も逮捕されたよ」
「うん」
病室で動くことも出来ない愛真を、夜月は不憫でならなかった。少しでも青山の近くに行きたいだろうに、それも叶わない。人目を憚らずに、声を上げて泣くことも叶わない。悲しみを誤魔化すために、何かをすることも叶わない。何も出来ない愛真が痛々しかった。
しかし、夜月には伝えなければならない責任がある。それをするのが、親友だと信じているからだ。熱い涙が流れた。夜月の悲しい思いも、愛真と少しも変わらなかった。
夜月は、ベッドの愛真の首に腕を回して泣いた。自分がそうしてあげることで、愛真も泣けると考えたからだ。そうしなければ、きっと愛真は心に悲しみを閉じ込めてしまう。奈良の土地で、ずっと一人で我慢してきた愛真だったから、もうそんな辛過ぎる思いをさせたくはなかった。
「泣いていいんだよ、エマ。一緒に泣こうよ」
愛真は泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。心に溜まっていた悲しみが次々に湧き上がって、涙が押し流してくれた。ずっと張り詰めていた糸が切れて、気持ちが楽になっていった。
泣き疲れた愛真が、微かな寝息を立てている。夜月は、そっと愛真に回していた腕を放した。そして、母親が愛おしい我が子にするように、優しく頭を抱き頬ずりした。
「あぁ」
夜月の脳に《記憶》が流れ込んできた。一瞬の出来事だった。以前、愛真とおでこを合わせた時と同じことが起こったのだ。
愛真も目を覚まして、夜月の瞳を見つめ返している。
「エマ、どうしてなの。こんなのウソだよね」
夜月のうろたえ振りは、尋常ではない。狼狽して、恐慌をきたしている。瞬時に、胸に手をやった。
「駄目だよ、ミツキ。その力は使わないで」
我を忘れた夜月は、時間を戻そうとしていたのである。卑弥呼から貰った力は、今も夜月の胸の内側にあったのだ。
「ウソだよね」
夜月が、また聞き返した。
かぶりを振る愛真。
「悪魔は、私のここにいるの」
愛真は胸に手を当てた。
「卑弥呼さんが封じてくれているわ。でも、このままでは、消滅させられないの。消滅させるには」
「言わないで。聞きたくないよ」
夜月は耳を塞いだ。愛真が何を言うのか分かっているからだ。愛真の《記憶》が伝わってしまっている。それなのに、愛真の口から、さらに直接聞くことに耐えられなかった。
愛真は首を振った。
「悪魔を消滅させるには、私が死んで、この肉体が灰になることなの。それだけが、悪魔を無にする唯一の方法なの」
「だから、こんな病気になったのは、必然だとでも言うの。悪魔を無にする為に、エマは死ななければいけないの」
夜月は胸に手を当てたまま、今すぐにでも時間を戻しかねない様子だった。
「だから、だからね。私は一生懸命に生きてきたんだよ。ミツキと試合をするのが、夢だったから、この世界で一生懸命に頑張ったんだよ」
「でも、死んだら意味がない」
「違うよ。意味はあるんだよ。ミツキが覚えてくれているよ。一生懸命に生きていた女の子がいたってね。それで十分だよ」
今度は愛真が夜月の頭を抱いて、頬ずりした。
「この世界は素晴らしいよ。それに、アオは今、立ち直ろうとしてるんだよ。アオには絶対に、この世界は素晴らしいって思って欲しいの。だから、私たちが勝手に世界を変えちゃいけないよ」
夜月は唇を噛んだ。一人で背負い込んでいる愛真。以前の世界でも、そうだった。何故もっと早く気付いてあげられなかったのだろうか。兆候はあった筈なのだ。それが悔やまれてならなかった。
翌日、夜月が見舞いに行くと、愛真の容体が急変していた。痙攣を起こし、医師の処置が行われているところだった。口をこじ開けられ、喉に無理やり挿管されるのが見えてしまった。
愛真が死んでしまう。そう思うと、夜月は恐ろしくなって、その場から逃げ出した。人の死が、こんなにも恐ろしいものなのかとおののいた。悪魔との戦いで、多くの死を見てきた筈なのに、愛真の死はそれらとは比較にならないものだった。
夜月は何度も胸に手をやっては、自己抑制を繰り返している。軽々しく卑弥呼の力を使ってしまっては、この世界で愛真がしてきたことが無駄になってしまうからだ。だが、本当にそれが正しいのだろうか。命よりも大切なことなのだろうか。
しばらく、夜月の足は病院から遠退いてしまった。愛真の死が怖くなったからだ。気管に挿管される場面が、思い出されて病院に近付くことが出来なかった。
青山の判決の日が決まった。大学の剣道部監督を通して、夜月に連絡された。これで夜月は愛真に会いに行かねばならなくなった。
愛真の病室が変わっていた。一般病棟から救急病棟になっている。無菌室のビニールカーテンに囲まれたベッドに、愛真は弱々しく横たわっていた。医療機器のケーブルがいくつも体から伸びている。あまりにも変わり果てた様子に、夜月はたじろいでしまった。
「ミツキ、来てくれたの。ありがとう」
愛真が健気に声を掛けてくれた。酸素マスクを付けているので、声が籠って聞こえた。
「明日、青山くんの判決が決まるよ」
「明日、なのね」
愛真は目を閉じた。涙が一筋流れた。
「大丈夫かな、私の命。アオが会いに来てくれるまで、死にたくないよ」
皮肉にも愛真は明日、手術を受けることになっている。青山が来てくれるまで延命を願ったからである。
「大丈夫だよ。エマは死ぬもんか」
ビニールカーテン越しに、夜月は精一杯に励ました。
「明日、青山くんを連れて来る。きっと連れて来るから、待っていて」
愛真は右手を僅かに上げて、小指を立てた。
「ウン。約束よ。待っていてね」
指切りの小指を、夜月も立てた。無菌室の中には入られないもどかしさは、今後の二人の距離を現わしているかのようだった。
翌日に、愛真の手術が開始された。
愛真は、本人確認の名前を名乗ったことと、大きな照明器具の無影灯の下にある無機質な手術台が、最後の記憶になった。全身麻酔を掛けられ、次に目を開けた時には、青山がいてくれることを望んだ。青山は罪など犯していないと信じている。だから、警察に出頭して、立ち直ってくれるように協力したのだ。
「アオ、待っててね」
麻酔が愛真を深い眠りにいざなっていった。
京都駅から近鉄電車に乗って、奈良県橿原市を目指す。オレンジと紺の二色塗りの特急車両は、一時間で橿原神宮前駅に到着した。そこからは、タクシーを急がせた。
青山和彰は、無罪を勝ち取った。田岡麻梨の自白で、脅迫されて協力していたことが明らかとなったのだ。有罪判決を受けていた尾関丈人も冤罪となった。
医大付属病院に到着した青山と夜月は、夕暮れに近い空を見上げた。ここに愛真が待っている。アオが来てくれることを待ち焦がれている愛真がいるのだ。
「青山くん、もうすぐ会えるね、愛おしい人に」
「うん。随分待たせてしまった」
夜月が少しからかうように言ったが、青山は否定をしなかった。青山の中では、愛真はもうそういう人になっているからだ。待ち切れない気持ちが、二人を早足にさせていた。
ナースステーションで面会の受付をすると、看護師が暗い顔をして出て来た。こちらへと言われただけで、他の言葉はなかった。
暗い病棟の奥に、スタッフ用のエレベーターがあった。物品搬出用でもあるので、十分な広さがあった。一階で扉が開くと、目の前に配電盤の多い電力室が頑丈な鉄扉を閉ざしていた。
看護師が奥へと進む。その先には、霊安室があった。
まるで眠っているだけのような愛真が、その中にいた。
「やぁ、ミツキ。来てくれたの」
そう今にも言いそうな愛真が、胸の上で手を合わせて横たわっている。
「どうして、ウソだよね」
「エマちゃん」
間に合わなかった。夜月と青山は、愛真との約束を果たすことが出来なかった。
夜月は床に崩れ落ちた。青山を連れて来るのが遅かっただけではない。夜月には愛真を救う能力を持っていたのに、何故それを使わなかったのかと後悔した。
愛真が望まなかったからなのか。そんな理由は、本心を誤魔化しているに過ぎない。夜月が本当に愛真に生きていて欲しいならば、何が何でも能力を使って、時間を戻していた筈なのである。何故そうしなかったのか。何故見捨ててしまったのか。どれほど後悔しても、もう愛真は死んでしまったのだった。
火葬場の煙が上がっている。
愛真の遺体は、灰さえも殆ど残さず燃え去っていた。人々は皆、愛真がそれほどの大病と戦ったからだと言っている。しかし、夜月は知っている。悪魔をこの世から消滅させるために、愛真はその体を犠牲にして葬ってくれたのだと。
この世界は素晴らしい。愛真はそう言って、青山を救った。その青山は、見違えるように素敵な男性になった。大学の中退を余儀なくされたが、今は法律家を目指す決心をしていた。愛真の進もうとしていた道を究めようとしていたのだ。
「エマの言った通り、この世界は素晴らしいね。一生懸命に生きてきたエマを、アタシは忘れないよ」
天に昇って行った愛真を見送りながら、夜月は自分も一生懸命に生きていくことを誓った。どこまでも青い空が広がっている。愛真が、そのどこかで笑っている気がした。
「エマちゃん、行っちゃったね」
青山が天を見詰めながら、夜月の隣にやって来た。不思議な巡り合いをした愛真には、感謝している。結局、以前どこで会ったのかは、教えてもらえなかった。しかし、それでいい。不思議な女の子というのが、愛真にはぴったりな印象だ。青山を救うためにやって来てくれた天使なんだと信じることにした。
「ボク、頑張るよ。エマちゃ・・・」
黒い影が突進してくると、青山の背中に体当たりをしていた。
鋭く尖った物が、青山の胸から突き出していた。その先端が赤く染まっている。
「ナニ?」
夜月には何が起こっているのか理解できなかった。その尖った物が、青山の胸から消えると、赤い飛沫が夜月の体中に降り掛かって来たのだった。
青山の体が倒れていく。その背後には、黒い影が残っていた。
「お前のせいだ。お前のせいで、俺の人生は無茶苦茶だ」
長い出刃包丁を持つ尾関が、そこにいた。青山の偽証で有罪判決を受けていたが、冤罪となり無実となった筈の尾関である。
尾関は倒れた青山に馬乗りになって、包丁を振り降ろし続けた。
悲鳴をあげて逃げ惑う葬儀参列者たちがいる中で、夜月は真っ赤に鮮血を浴びて立ち尽くしていた。
青山が死んだ。愛真が命懸けで救った青山が死んでしまった。
「イヤーーーーッ」
夜月の絶叫が上がった。天地を引っくり返すほどの叫びを上げた。その時、夜月の手は胸に当てられていたのだった。
優しい光が、夜月の体を包んでいく。やがて、その光は、この世界全体を包んでいった。