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六 「知っていたのではなかったの?」


 パーン

 竹刀が面を打突した。気・剣・体が一致している。心・技・体が充実しているからこそ、愛真は有効打で勝ちを決めた。

 立命館大学体育会剣道部は、男女別のトーナメント戦を行っている。入部時の不調から脱した愛真は、同じ一回生を危なげなく降していた。期待外れを思い込んでいた先輩部員たちも、まずまずの勝ちっぷりを称賛してくれていた。

 次に勝てば、また夜月と対戦できる。表情には決して出さないが、愛真の闘志は業火の如く燃え上がっていた。

 しかし、次の相手は強敵である。三回生の松木美以子であった。最も親しく接してくれている先輩であるが、恐らく女子部員では最強だ。夜月でさえ、勝利したことがなかった。

 愛真は美以子と正対して立礼をした。いよいよ二回戦が始まる。抜刀して蹲踞の後、中段に構えた。

「はじめ」

 美以子が気合いを放った。衝撃波のような気迫が、愛真の体に突き当たる。まるで気合いだけで、相手をねじ伏せようとするかのようだった。

 剣先で愛真の中心を取った。再び気合いを発した瞬間、美以子は打突を開始した。竹刀を振りかぶって、右足を素早く踏み込んだ。

 まさにその瞬間、美以子は動きを変えた。竹刀を下げ、愛真と鍔を合わせた後、後退してしまった。このようなことは初めてだった。得体の知れない恐怖を感じたのだ。

 相手はたかが一回生だ。威圧して掛かれば、すぐに勝負がつくと見くびっていた。それなのに、美以子の本能が危険を察知していた。

 何かが変だ。美以子は中段に構えたまま、愛真を観察した。足さばきが淀みなく流れるように動いている。上体の力みも無く、こちらの動作をよく捉えていた。

 気合いを放ち、竹刀で中心を取った。美以子の打突の好機であった。だが、またしても手が出せない。何かが本当に変なのだ。体が恐怖を感じてしまっている。

 そうだ。愛真の気合いを全く感じないのだ。そう思った刹那、美以子は愛真を見失った。

「胴、あり」

 審判の宣告がされた。美以子が焦っている間に、肘が僅かに上がっていたのだ。そこを愛真に狙われてしまった。

 場内が騒然としている。誰も美以子が先取されるとは思っていない。傍から見ていれば、美以子が攻撃を仕掛けていながら、何故途中で止めてしまうのかと不思議でならなかったのだ。下級生を相手に、遊んでいるのか。そんな雰囲気にしか、周囲には感じられていなかった。

「真面目にやれ」

 そんな野次が飛ぶ。

 美以子は面の上から頭を叩いた。自分の剣道を忘れていた。深呼吸をすると、一気に闘志を爆発させた。

「はじめ」

 二本目が開始された。

 美以子は激しい打突を連続して仕掛けた。余計な迷いは、もう不要である。間合いが詰まり過ぎると、鍔迫り合いに持ち込み、体当たりを繰り返した。

 体格が劣る愛真は、弾き飛ばされるように何度も床に転がされた。容赦のない美以子の攻撃は、先取されたことへの憤怒である。女子部員最強が、たかが一回生に負けてはならないのだ。

 再三にわたり、床に突き転がされた為、体力を消耗し切ってしまった。そんなフラフラの状態になっている愛真に、美以子は情け容赦のない面打ちに出た。

 だが、その出ばなを愛真が小手打ちを放った。

 瞬時の判断で、美以子が竹刀でこれをかわすと、自然と間合いが離れてしまった。

 場内が、「あっ」と思った時、愛真は大きく竹刀を振りかぶりながら、左足を踏み込んだ。体を真横に開いた体勢で、左片手の横面が美以子に炸裂していた。

「面、あり」

 誰もが、あの愛真と夜月の大試合の場面を思い出していた。この技は、夜月が愛真を打ち破った瞬間そのものだった。その技を、今度は愛真が使ったのだ。

「勝負あり」

 愛真の勝利が宣言された。それは立命館大学剣道部にとって、あり得ない衝撃だった。

「どうしたの、松木さん。調子でも悪かったの?」

 試合場の枠の外で、籠手と面を外した美以子は、蒼い顔色をしている。全身には、鳥肌が立っていた。

「こんなに怖いと感じたのは、初めて」

 美以子は冷たい汗をかいている。手拭いで顔を覆った。まだ体が震えている気がする。

「怖い? 手を抜いていたんじゃないの?」

「あなたたちは、あの子に何も感じなかったの。何時何処から打ち込んで来るのか、分からないっていうのに」

「どういうこと? 隙だらけで、じっと構えているだけに見えていたけど」

 美以子は、それは竹刀を交えないと理解できないことなのだろうと感じた。愛真との稽古中にも、こんな感覚を持ったことがなかったからだ。

 出口付近に正座している愛真は、夜月に支えられていた。今にも崩れ落ちそうに、上体が揺れている。美以子は心配になって、様子を伺いに行った。数か月前まで高校生だった愛真である。大学生の本格的な剣道をまともに受けて、無事の筈がなかった。

「大丈夫です。ありがとうございます、美以子先輩」

 疲れている以外、愛真の様子は異常がないよう思われた。美以子は、怪我を負わしていないかと、心配だったのだ。

「次は、あなたたち親友同士の戦いね」

「はいっ」

 そう言った愛真は、再び気力を取り戻した。深呼吸をすると、顔が紅潮してくる。

「ミツキ。もう大丈夫だよ。真剣勝負だからね」

「分かった。いい試合をしよう」

 互いの手を取り合って、健闘を誓った。

 目を閉じて、愛真は精神統一をしているように見えた。はっきり言って、この愛真の強さは尋常ではないと感じている。夜月でさえ、愛真が美以子に勝つなんて考えてもいなかったのだ。

 三回戦が始まった。

 夜月は愛真と正対して、立礼をした。四角い枠の試合場内に進み出て、蹲踞をする。

 突然、場内がざわめきだした。部員たちが口々に騒いでいる。それは試合開始前の応援ではないものだった。

 愛真が来ていない。まだ立礼した場所に立ち止まっていた。天井を見上げて、まったく動かない。両手をだらりと下げて、竹刀の剣先がだらしなく床に着いていた。

 愛真は立ちながら、呼吸ができなくなっている自分に驚いた。視界が急に眩しくなって、天井の照明の強さで、何も見えなくなった。

 どうしたのだろう。そう思った瞬間、愛真の視界は真っ暗に反転した。それと同時に、意識を失ってしまう。

「エマーーーーッ」

 立った姿勢のまま、床に崩れ落ちた愛真に、夜月はしがみついた。何が起こったのか分からない。血相を変えた美以子が駆け寄った。懸命に愛真の名前を叫ぶが、まったく反応しなかった。


 京都市立病院。愛真が緊急搬送された処置室の前で、夜月と美以子が祈るようにしていた。他にも部員たちが来ているが、大勢のため遠慮している。

「病気をお持ちのようですが、何か知っておられますか」

 医師らしい男が、難しい表情をして処置室から出てきた。

「病気?」

 夜月が顔色を変えた。そのようにことを、一度も聞いたことがなかったからだ。

「藤波さんが持っている薬なら、ここにあります」

 美以子が機転を利かせて、愛真のトートバックを持参していたのだ。それを、夜月は愕然として見ていた。何も知らないのだ。

 医師が薬の内容を確認している。その薬の量が半端な数ではない。奈良県立医科大学付属病院と書かれた大きな薬袋が、夜月の心を張り裂けそうなほどに打ちのめしていた。

「何故?」

 そう言ったのは、美以子だった。

「那珂さんは知っていたのではなかったの?」

 剣道場の手洗い場で、大量の薬を美以子に目撃された愛真は、夜月も黙ってくれているからと言って美以子に口止めをしたのだ。愛真は大した病気ではないと言っていた。それに、このことを知っている夜月が、愛真を剣道部に入部させたのだから、本当に大したことではないと信じてしまったのだ。

 だから、美以子は本気で愛真と対戦してしまった。何度も激しい体当たりをして、床に叩きのめした。それがこの緊急事態を引き起こしてしまったのだった。

 知らなかったとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった。美以子は悔やんでも悔やみきれない。愛真が何と言おうとも、部長には知らせておかなければならないことだったのだ。普通のことではない。薬を服用している事実は、命に関わるかもしれないではないか。

 この日の面会は出来ず、翌日に見舞いに行くと、愛真の両親が暗い表情で談話室にいた。顔見知りの夜月が、頭を下げて挨拶をしたが、それには気付いていないようだった。

 同伴している美以子も、この様子に尋常でないことを感じ取っていた。どうして娘の病室にいてあげないのだろうか。いられない理由があるのだろうか。美以子は、嫌な予感がしてならなかった。

「やぁ、ミツキ。来てくれたの」

 病室の扉を開けると、意外なほど元気な愛真に、夜月は呆れた。ベッドの上で座って、景色を眺めていた。

「やぁ、じゃないでしょう。どれだけ心配したと思っているのよ」

 腹を立ててはいるが、愛真が元気そうでいることに安心した。もう二度と笑顔を見ることができないものと覚悟していたからだ。

 愛真の病気を、夜月に知られてしまった。恐らく、見舞いを同伴している美以子から、薬のことも聞いている筈だ。その薬のことを思い出すと、愛真は心が痛くなった。

 夜月の背後に隠れるようにしていた美以子の顔色は、真っ青だった。愛真は、自分が美以子に言ってしまったことを悔やんだ。あんなお願いをしなければ、美以子はこんな思いをせずに済んだのだ。自分のせいで、愛真がこんなことになってしまったと、美以子は自分を責めているのが、痛いほどに伝わってきた。

「ごめんなさい」

 そう言った愛真は、それ以外のどのような言葉で、美以子に謝ればいいのか分からなかった。否、むしろ美以子のほうが、愛真にどう謝るべきか分からないでいた。病気だと知りながら、叩きのめしてしまったのだ。

「どんな償いでもします。だから、どうか無事に治ってください」

 美以子の悲痛な心からの叫びだ。薬を見た医者の顔。そして、病室に居られない愛真の両親の顔。重大なことが隠されている。それが感じられない筈がない。夜月の表情も、いつものものではない。作り笑顔を、常にしているみたいに辛そうだった。

「美以子先輩。これは、自業自得なんです。だから、先輩のせいではありません」

「私は、藤波さんが病気だと知っていたのよ。それなのに、手加減もしなかった」

「もう怒らないであげてください」

「私は、あなたを怒ってなんかいない」

「先輩は自分に怒っている気がします。あの時、私は先輩の優しさを利用してしまったんです。だから、先輩は病気という重要な相談を、誰にも出来なかった。私がこうならないように、あの時、何か出来たんじゃないかと思っている」

「そうよ。藤波さんの薬を見た時、報告するべきだった。那珂さんが病気のことを知っていて、それでも、剣道部に誘ったのだから、本当に病気のことは、大したことではないって、勝手に思い込んでしまった」

「そう判断させるようにしたのは、私です。ごめんなさい。騙した私のせいです。だから、償いをしなければならないのは、先輩ではありません」

「エマに償わなければならないんだったら、アタシが一番初めですね。アタシには、エマを中学の時から剣道に引き込んだ責任がある。そして、親友なのに、病気に気付いてあげられなかったアタシのせいで、エマがこうなった。だから、一番悪いのは、アタシなんです」

 夜月は、そう言って二人の手を握り締めた。

「先輩。アタシたちは、もうこれで親友です。いいえ、血は繋がっていないけど、姉妹になれた気がします。だから、お互いに遠慮し合うのは、もう止めませんか」

 美以子は心が温かくなってきた。自分では償うと言っておきながら、それを押し付けられる相手の気持ちを考えられなかったことを恥じた。

「何だか、あなたたちがお姉さんみたいね。でも、そうよね。そうだよね。これからは、私がお姉さんなんだから、しっかりしなくちゃね。妹たちには、負けていられないよね」

 美以子は姉らしく、二人の妹たちをしっかりと抱きしめた。

 三度も同じ年齢を繰り返した二人だ。しかも、辛い人生を経験した二人が、美以子よりも、ずっと大人であるのは、当然のことだった。


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