四 「こんな奇跡があるのかな」
京都市バス50系統は、京都駅を起点に出発し、西洞院通から四条通と進み、堀川通で二条城の前を通過する。中立売通を曲がって千本通を抜け、さらに今出川通と西大路通を経て、終点の衣笠で立命館大学に到着する。走行時間は、交通事情にもよるが、四十分くらいである。
藤波愛真は、奈良駅から近鉄電車で京都駅まで毎日出てくる。そこからこのバスに乗るので、片道で二時間も掛かってしまう。しかし、どちらも起点から終点までの乗りっ放しだ。座席についてしまえば、そのまま居眠りをするなり、読書をするなり、いろいろと楽しむことができた。
立命館大学のキャンパスは、守衛室のある正門から、右手に体育館を見ながら進んでいくと、グラウンドに出る。その奥にもキャンパスは続いており、校舎が立ち並んでいる。
ここで進路を右に変えて、グラウンドの横を通って行くと、愛真の向かう教室がある時計台がシンボルの存心館の校舎があった。
立命館大学の校舎は、理工学部の教室棟以外が、○○館と名称されている。存心館は、法学部の教室棟であった。地下には生協食堂と、書籍の購買部が併設されていた。
愛真は授業開始前に、この食堂に降りて来て、自販機で飲み物を買うことにしている。そして、そこには必ず那珂夜月が座っていた。
「おはよう、ミツキ」
「オハヨ。お互い、毎日遠くからの通学って、疲れるね」
愛真が奈良市からで、夜月が四条畷市からの通学だ。二人とも二時間も掛った。
「でも、それを承知で入学したんだから、仕方ないよね」
愛真が、えへへと笑いながら言った。
「そうなんだけどね。剣道部が終わってからの帰宅はツライよ」
夜月が椅子の背にもたれ掛かって、大きく伸びをしている。
「一回生は、単位をたくさん取らないといけないから、遅くまで講義があるのに、大変だね」
「他人事のように言っちゃって。エマは、いつ剣道部に入るのよ?」
「えへへ。私は、もう夢が叶っちゃったからね」
夜月との対戦が、愛真の夢だった。近畿高等学校剣道大会で、それは果たされたのだった。
「そんなこと言って、剣道部の人たちは、みんなエマを待っているのよ。あの試合を見ていたんだから当然よ。エマとアタシが、ここに入学するって知った時は、すごい騒ぎだったらしいんだから」
「うーん。有名になるって、実は不便なことだったんだね」
愛真は腰に両手を当てて、首をプルプル振っている。
「どうせ入部する気でいるんだったら、顔だけでも出してあげたらどうなの」
大学生活に慣れるまで、愛真は待つつもりでいるのだろう。夜月はそう思っていた。
「うん。ごめんね、心配掛けて。それじゃあ、今日行くよ。三講目までだから、その後で」
「じゃあ、待ってるね」
夜月は食堂を出て、静心館のほうへ向かって行った。静心館は文学部の教室棟だ。二人とも大学は同じになったが、専攻する学部は違うものだった。
愛真は、『天罰』という犯罪に接していて、法律に興味を持つようになった。その一方で、夜月は伝承や遺跡を調べるようになり、民俗学を研究したくなったのだ。
まだ食堂に残っている愛真は、胸に手を当てたままでいた。数ヶ月前から胸に違和感があった。原因は分かっている。中学三年生の時の再発なのだ。だから自分の体が、どうなっているのかを理解していた。本来ならば、入院するべき病状だ。しかし、これが運命だと受け入れていたのだった。
今度は大学で、夜月と共に剣道ができる。そう期待していたが、この違和感のせいで、そこから先には進めなくなっていた愛真だった。
とにかく、もうすぐ九時だ。遅刻は許されない講義が待っていた。
授業が終わって、掲示板を見ると二講目は休講に変わっていた。十時半から一時までの間、愛真は時間が空いてしまった。
友達二人と存心館を出ると、学生会館のほうから、トランペットの音がする。そこは学生のサークル活動の拠点となっている建物だから、音楽練習場などの施設もあったが、窓を開け放って気持ち良く練習をする姿も見掛けられた。
トランペットは、気抜けするほどに間延びした音で聞こえてくる。それを友達の氷川加代子が、クスクスと笑ってしまった。
「こらこら、笑うんじゃないって。トランペットは、音を出すのも大変なんだから」
穂積喜美代が分かったような口振りで言っている。喜美代は埼玉から来ている。加代子は岐阜からだった。愛真はまだ知り合ったばかりで、お互いのことを詳しく知らない。暮らしてきた土地柄が全く違うので、少し価値観が違っていることもあったが、初めての講義で隣の席に座ったことから親しくなった。
学生会館の一階に憩いの喫茶がある。そこでゆっくりして、暇つぶしをすることにした。
愛真は二人の方言が面白いと思っている。加代子が「~やおね」と、連発しているのが可笑しくて堪らない。喜美代がジュースを飲みながら、「ひゃっこいね」と言った時は、愛真は吹き出してしまったのだ。
しかし、当の愛真は関西弁なので、二人からは漫才みたいだと思われていた。話の端々に派手な擬音が混ざっている。幼い時から吉本新喜劇を見て育ってきたので、それが染み付いていたわけだ。
窓際の席で笑いながら紅茶を飲んでいると、外を通り過ぎて行く人影を見て、愛真は仰天した。ボーダー柄のシャツにグレーの上着を羽織っている。黒縁眼鏡を掛けて、いかにもガリ勉くんのような装いだった。
「ごめん。急用、思い出したの」
慌てて鞄を抱えて出て行く愛真に、二人は顔を見合わせて驚いていた。
ガリ勉くんはキャンパスの奥に向かっている。学而館を越えて、夜月がいる文学部の静心館も通り過ぎた。その向こうは理工学部の校舎が並んでいる。その事務所棟の前で、掲示板を確認すると、ガリ勉くんは腕時計を見て、元の方向に戻って来た。
愛真は戸惑った。ガリ勉くんの後を追って来たのだ。まさか引き返してくるとは思っていなかった。このままでは、すぐに鉢合わせをする。
どうしようかと焦ったが、もう立ち止まって俯くことしか出来なかった。
ガリ勉くんが、愛真の脇を通って、真っ直ぐに以学館へと進んで行く。焦っている愛真とすれ違っているのに、ガリ勉くんは何も気付いていなかった。
そうなのだ。気付くわけがない。まだ出逢ったこともない二人だったからである。
しかしながら、それはこの世界でのお話しである。以前の世界では違うのだ。愛真は、ほっとしながらも、少しがっかりしてしまった。
だがこの時、愛真はそのガリ勉くんの顔をはっきりと確認した。
「アオだ。アオがいた」
それは間違いなく、青山和彰だ。愛真が探し求めていたアオだった。
愛真は大きく息を吐いた。何故か手が震えている。感情がどうにかなってしまったような気がした。嬉しいのに怖い。複雑な心境だった。
以学館食堂に行った青山は、そこで知り合いらしい人物を発見して、慌てて駆け出した。肩に提げた大きな鞄が、テーブルや椅子に派手にぶつかっているのに、お構いなしだった。
相手は、丸顔の女の子だ。無表情で座ったまま、前に立つ青山を上目使いに見上げていた。青山の表情は、愛真に背を向けているので分からなかった。
遅れて来たことを謝っているのかもしれない。愛真は、そんな気がした。女の子が怒っているみたいだったからである。
ただうな垂れて、愛真は以学館を後にした。それ以外に何ができると言うのだ。勝手にあとをつけて行って、勝手に見たくない物を見てしまった。それだけのことだった。
しかし、たったそれだけのことが重大になることがあるのだ。
これが失恋というものなのであろうか。青山のことを何とも思っていなかったはずだった。しかし四条畷高校の文化祭以後、夜月から寄せられる青山の情報は、愛真の何かを変えてしまったのかもしれない。
以学館食堂では、青山が立ち尽くしたままだった。女の子よりも遅れて来たことを悔やんでいた。
「私を待たせたのに、あなたには責任がないということなの?」
「いいえ、そんなつもりはありません」
「では、休講になったから仕方がないということなのね」
「違います」
「何が?」
「ボクが来るのが遅かった」
「そう。そうだよね。あなたが悪い。罰として、あなたがすべきことは分かっているわね」
「はい、麻梨さま」
「私の名前を口にするな。汚らわしい」
「申し訳ございません」
「あなたが私にしたことを、世間に公表してもいいのかな」
「お許しください」
「あなたは犯罪者なのよ。それを忘れないことね」
青山は頭を下げたまま一旦その場を離れ、ランチ定食とメロンソーダを持って来て、麻梨のテーブルに置いた。麻梨は埃を払うかのように手を振ると、青山を食堂の隅に追いやった。決して遠くには行かせない。いつも視界の隅に青山を入れていた。
「おっ、田岡じゃん。一人か?」
「うん」
法学部の同級生・関谷隆司だ。田岡麻梨は猫なで声を出した。
「急に休講になるんだもんね。参っちゃうね」
コロコロと笑って、関谷の瞳をじっと見た。
「お昼、一緒にどう?」
「残念。もう食った」
「えー。じゃあ、お茶して行けば」
そう言って、メロンソーダを差し出した。
「田岡ってさ。随分、積極的なんだな」
実は、関谷の心中は悪い気がしていない。女の子に誘われて、喜んでいる関谷だった。
「麻梨だよ」
まだ関谷の瞳を見詰めたままだ。
「えっ?」
「麻梨って呼んでくれたほうが嬉しいな」
ドキリとして、心拍数が上がった。関谷の心は、すでに麻梨に捕獲されていた。
三講目が終了して、一時間が経っているのに、愛真が現れなかった。
夜月は竹刀を振りながら、心配でならない。剣道場に来ると約束していた。それを破る愛真ではない筈だった。
個人との連絡手段がない昭和の時代は、いざという時には不便である。しかし、便利さを知る前の世の中では、それが当り前なのである。大して不便とも思わなかった。
そして、心配したまま、夜月は翌朝を迎えた。いつものように遠距離を通学して、存心館食堂にいた。
「おはよう、ミツキ」
愛真の元気な挨拶がした。寝ぐせの痕があった。それは、愛真らしくない所作であった。
「オハヨ。昨日は、どうかしたの?」
「ごめん」
パンっと、目の前で手を合わせて謝っている。
「ホントごめんなさい」
愛真は謝りながら、笑っている。夜月が怒っていないことを知っているからだ。
「それで。その大きな荷物は何?」
小柄な愛真が入ってしまえるほどの鞄が傍らに置かれている。しかも愛真の背中には、細長い荷物をまだ抱えていた。
「防具袋と竹刀袋に決まってるじゃん」
愛真が知っている癖にという顔で笑った。剣道用具を鞄に入れて来たのだ。
「私、剣道部に入るよ」
竹刀袋を下ろして、杖のように突いた。うんと頷いて、夜月にやる気を示したのだ。
「ちょっとエマ。アタシの目を見なさい」
夜月がぐっと顔を近付けた。長い髪が垂れて、揺れている。
「ど、どうしたの。私は、ほん、本気だよ」
愛真の仕草が変だ。明らかに動揺していた。視線も夜月から逸らしてしまった。
「エマ。何かあったのね」
夜月の勘は鋭い。とても隠しきれないと悟った。
「私ね」
頭では理解していたのだ、この世界と以前の世界とは違う。だから以前に告白されたからといって、また同じ関わりを持ってくれるということはないのだ。
「私ね、フラれちゃった」
泣かないと決めていたのに、急に涙が溢れてきた。昨日の以学館食堂での、青山の姿が思い出されたのである。愛真の知らない女の子との訳ありの現場を目撃してしまった。
「アオがいたんだ。この学校に来てた」
両手を握り締めて、歯を食い縛った。一体何故、泣いているのだろうか。
「私、つい嬉しくなって、こんな奇跡があるのかなって思ったの。でも、バカだった。後を追い掛けて行ったりしなきゃ良かった」
青山は、あの青山ではない。四条畷中学校で、愛真の力になって励ましてくれた青山ではないのだ。
夜月はそっと愛真の肩を抱いた。だから剣道具を持って来たのかと、夜月は理解した。今まで、愛真は剣道に打ち込むことで、一人でこの世界の孤独を乗り越えてきたのである。この青山とのことも、また剣道で忘れようとしているに違いない。
夜月は自分の心までもが、針で突き刺されている思いがした。どうすれば、愛真の力になってあげられるのか。どうすれば、愛真を幸せにしてあげられるのか。
何も出来ないではないか。今は黙って、愛真の肩を抱いてあげることしか出来なかった。