壱 「やぁーーーっ」
昭和五十五年六月の大阪府立体育館は、近畿高等学校剣道大会で活気に満ちていた。
広い板張りの床の第一競技場には、正方形に区切られた四つの枠の試合場があった。その一辺は十mほどで、四辺を境界線としている。そして、枠の中央には×印があり、そこから均等の位置に左右一本ずつの開始線の表示がある。
四つの試合場では、A・B・C・Dのブロックに分けられた個人戦の選手たちが、トーナメントで対戦する。そして、各ブロックの勝者の四人が、さらにトーナメントを行うのである。
Bブロックの決勝戦で、白の剣道着の女子選手が戦っている。高校生活の三年間は、常にこの大会の個人戦に出場することだけに打ち込んできた。目標とする選手がいたからだ。どうしてもその選手と戦ってみたいという夢を抱いていたのだ。
しかし、高校一年生のときには、予選落ち。高校二年生には、本戦に出場できたが、その選手と同じブロックになりながらも、目前で敗退してしまった。
そして今、高校三年生の高校生活最後の年で、ブロックの決勝戦まで辿り着くことができた。これに勝てば、夢だった対決が出来る。その選手はAブロックで、必ず勝者となる筈だからである。
四つの試合場では、今まさに各ブロックの勝者を決める戦いが、同時進行で繰り広げられていた。
Bブロックの白の剣道着の女子選手が、一本先取した。そして再び、二名が竹刀を構え直し対峙する。
先取された選手の気合いを込めた掛け声が、体育館に響き渡った。だが、焦りが僅かに気を乱している。
それを白の剣道着の選手は、冷静に観察していた。
相手の竹刀が面に来る。一瞬の閃きである。微かに上がりかけた右の手元の奥を狙った。
パーンッ
乾いた薪を斧で割った時のような音が鳴った。一人の主審と二人の副審が、一斉に白旗を斜め上に上げた。胴ありの宣告がされる。白の剣道着の女子選手の勝利が宣言された。
Aブロックでは、目標だった選手が勝者となって、すでに試合は終了していた。
二年連続の大会女子個人戦の優勝者だった。絶対女王の風格が、大会の観客の注目を集めていた。
紺の剣道着に、長い髪を後ろに束ねている。涼やかな視線が、防具の面の物見から静かに見つめるものがあった。次の対戦相手である。大会個人戦準決勝の相手は、Bブロックの白の剣道着の女子選手だ。ここまで勝ち上がってくるとは思ってもいない相手であった。
男子の個人戦の間、一時間の休憩になる。白の剣道着の女子選手は緊張をほぐすために、体育館の外に出た。新鮮な空気が気持ちいい。思い切り伸びをしてから、少し散策でもしようかと思った。
同じ高校の剣道部員たちが、応援に駆け付けてくれていた。外にいる姿を見つけると、満面の笑みでやって来てくれた。
どの顔も高校の英雄の誕生を喜んでくれている。団体戦では、出場を果たせなかったので、その無念を晴らしてくれとばかりに詰め寄ってくる男子部員もいる。
優勝優勝と、皆口々に言うが、本当は少し違う。只々、夢であった対戦をしたいだけだった。優勝なんて、少しも望んではいなかった。だが、そんなことを言ったら、皆がっかりするかもしれないので、絶対に言わないことにしている。
辛い日々の練習も、その目標が皆とは違っているのも分かっている。もしも偶然に、予選一回戦で対戦するという夢が叶ってしまうのであったら、これほどまでの辛く凄まじい練習もしなかった筈だ。
しかし、そんなに簡単に実現する夢ではなかった。その選手とは、暮らしている地域が違っていたのである。だから、強くなって近畿大会に出なければならない。だから、辛い練習をしなければならない。そして、今年が高校生として、最後の機会だったのである。
準決勝戦が始まる。
白の剣道着の女子選手が、口元を真一文字に結んで、試合場に登場した。引き締まった表情をしている。心地良い緊張感が、適度に気力を充実させてくれていた。
境界線外側で正座をして控えた。その姿勢は、両ひざを拳が一つ入るくらいに軽く開いている。両手は太ももの付け根に置いて、背筋をまっすぐに伸ばした。袴の裾が左右にさばかれて、綺麗な菱形を作っていた。背に白のタスキを付けている。
神聖な試合場を前にして、座礼をする。正座の姿勢から上体を前に傾けながら、左手を床につき、続けて右手をつく。床についた両手の親指と人差し指で三角形を作り、脇を締めて礼をした。一呼吸おいた後、左手右手と元の姿勢へと戻していった。
手拭いを大きく広げて頭に乗せる。両端をそれぞれ反対側の耳の上で止めた後、前に垂れている部分を頭上に乗せた。続けて、ずれないように面を被せ、面紐を後ろで結び、強く締め付ける。籠手を左手から右手の順にはめて、準備は完成した。
場内アナウンスがあった。
「これより、女子個人戦の準決勝を行います」
二人の剣士が、境界線の外で正対した。
「赤。四条畷高等学校。那珂夜月選手」
「白。奈良高等学校。藤波愛真選手」
竹刀の弦を下にして提刀の形で、正面と相手に立礼をした。三歩進み出て、右手で竹刀の柄を握り抜刀する。相手の動きに合わせて、同時に蹲踞をした後、構えに入った。
審判が、赤白の旗を体側につけて、「はじめ」の宣告をした。
二人とも中段の構えを取った。剣道におけるもっとも基本的な構え方だ。攻めと守りの両方に対応でき、相手との間合いも取りやすい。まずは、竹刀の剣先同士が触れ合う程度の遠間の間合いから試合は始まった。
愛真は力むことなく自然に構えている。竹刀の握りも足の位置も、しっかりしている。竹刀の剣先が、夜月の喉元を向いている。脇を軽く締め、肩の力を抜いて、背筋を真っすぐに伸ばしていた。
愛真に隙がない、と夜月は感じた。前後左右・斜めの足さばきが、滑らかに出来ている。両足を肩幅程度に開いている。右のかかとが床から微かに浮くようにして、左足を平行に揃えているのは、相手の動きに瞬時に対応するためである。
視線が夜月の全身を見据えている。全体像を見ている状態では、何所に狙いを付けているのかも分からない。やりにくい相手だった。
「ヤァーーーッ」
夜月が気合いを放った。その気迫は、絶対女王の威厳がある。一歩の間を詰め、一足一刀の間合いに接近した。ここは、さらに一歩踏み込めば、相手を打突することが出来るという緊張する間合いである。
「ヤァーーーッ」
夜月が再度気合いを掛けた。打つぞ、打つぞと、竹刀の剣先で、愛真の中心を取ろうとする。中心を取るのは、自分の竹刀の剣先を、相手の中心に置くことである。つまり、相手からすれば、自分の剣先を相手の中心から外されることになる。だから、中心を取った方が、打突の瞬間を得られるのであった。
愛真の滑るような足さばきは、常に不規則に動いている。出るのか、引くのか。夜月は気迫で、愛真を圧倒するつもりで挑んだ。
「ヤァーーーッ」
夜月の再三の鋭い気合いに対して、愛真は全くの無言である。静心としている。夜月の気迫が全て、愛真を素通りしてしまっている気がした。
愛真の剣士としての力量を、夜月は知った。相手の全体像を見る視線一つにしても、一流の剣士だ。決して偶然だけで、ここまで勝ち上がってきたのではなかった。
夜月は気合いの掛け声を閉ざした。大声を発する瞬間は、同時には攻撃できない。それどころか、その瞬間の出ばなを、愛真の打突が狙っているようだったのだ。
夜月の剣先が、わずかに下がった。愛真の小手に視線を落としている。その瞬間、愛真が動いた。夜月の中心を取って、面を仕掛けた。
鋭く切り裂くような夜月の竹刀が、愛真の胴を狙った。夜月が愛真の出ばなを襲ったのである。
パーン
竹刀同士のぶつかる音が、試合場に響いた。愛真の竹刀が、胴打ちをする夜月の竹刀を打ち払っていたのである。
愛真が夜月を睨んだ。卑怯な真似をするなという眼つきだ。勝つためのフェイクの技は、正攻法ではない。絶対女王の夜月が、視線を使ってまで攻撃の駆け引きをして欲しくはなかったのだ。
再び一足一刀の間合いに戻り、夜月は自らを恥じて頭を軽く下げた。もはや正々堂々の勝負しかない。これが準決勝の試合かと震え上がる観客たちは、二人の姿に圧倒されていた。
夜月は吐き気を感じていた。こんな試合はしたことがない。全国大会でも、愛真のような選手はいなかったのだ。
普通の選手は、気を満たして攻め込んでくる。気を感じれば、それに応じて返し技を掛けることができた。
しかし、愛真には、それがまったくなかった。気を感じられないのだ。だから、いつ仕掛けて来るのか分からない。予想がつかないのだ。
夜月は感情を静めた。心・技・体。どれも愛真を上回っている筈だ。夜月はそれを信じることにした。
足さばきを駆使した。愛真に、ついて来られるものなら、ついて来てみろと挑んだ。当然、間合いの見極め方や技巧は、夜月が凌駕している。僅かな隙をつき、豪快に面を打ち、巧妙に胴を狙った。いずれも防御され続けたが、ついに、夜月の片手面が、雷電の如く決まった。
「面あり」
三本の赤旗が上がる。
歓声が一斉に上がった。やや遠間の間合いから、夜月が打って出るとは、誰も思ってもいなかったからだ。大きく跳躍する夜月の竹刀の物打ちは、見事に愛真の面に炸裂していた。
審判が、二人の竹刀の剣先を合わせて、二本目の試合を始めた。
一本目と同じような攻防が繰り広げられた。しかし、夜月はもう片手面を打てない。あのような大技は、返し技の餌食になる。一本目が決まったのは、愛真の経験不足からなのだろう。
二人の面打ちが、相打ちになった。互いに有効打突ではない。夜月は鍔ぜり合いから、素早く引き面を狙い、後方へ飛び下がった。
愛真の胴打ちが来るかもしれない。
瞬時の夜月の判断は当たった。引き面を狙った竹刀で、愛真の竹刀を打ち落とそうとした時、夜月の視界から、愛真の姿が消えた。
「胴あり」
三本の白旗が上がっていた。
愛真が逆胴を打っていたのである。夜月の予想と反対の方向へ、愛真が動いて行ったので、視界から消えてしまったのだ。
観客たちは、息をすることさえ忘れてしまっている。どちらが勝つのか。全員が震えながら、固唾を飲んだ。
三本目の試合が始まった。時間は、このとき延長戦に突入した。
静かに一足一刀の間合いとなった。
愛真は体力を消耗し切って、肩で息をしている。面で覆われた顔に、汗が流れて目に入る。息苦しくて、すぐに面を外して、新鮮な空気を吸いたくなった。四二〇グラムほどしかない竹刀が重い。柄頭を握る左手が、少し痺れてきた。
「やぁーーーっ」
気合いの掛け声が上がった。夜月ではなく、愛真である。初めて気合いを発して、気力を振り絞ったのだ。
「ヤァーーーッ」
夜月も、負けじと気合を放つ。疲れ切っているのは、互角なのだ。もはや気力だけで戦うしかない。
観客たちが、二人の気迫に感動して、割れんばかりの拍手と大声援を送った。
「やぁーーーっ」
愛真の気合いの出ばなを、夜月は小手打ちに出た。その竹刀を愛真は打ち落とし、瞬時に面を打ちに行った。そのまま前に進み出て、残心を示した。残心は、打突後の所作である。剣道は打突を打ったら、打ちっ放しではいけない。相手に打突したことを、態度で示す為に、隙を見せずに相手に正対して構え直さなければいけない。
しかし、白旗は上がらなかった。打突が甘かったのだ。
「ハッ」
夜月が短い気合いを発して、右足を素早く踏み込んで面打ちに行った。しかし、愛真は竹刀でそれを防御すると、間合いが詰まったので自然に後退してしまった。
そこに隙ができた。
夜月が小手を打った。だが、これも竹刀でかわされてしまった。逃げる愛真との間合いが、さらに開いた。
夜月はすかさず、大きく振りかぶった。体を真横に開きながら、左足を踏み込んだ。左片手の横面が、愛真に炸裂した。一本目と同じ片手面であった。もし外せば、命取りの大技だった。
「面あり」
三本の赤旗が上がった。
「勝負あり」
夜月の勝利が宣言された。
大歓声が競技場に巻き起った。稀に見る大勝負に、観客全員が陶酔してしまっている。拍手がいつまでも鳴り止むことがなかった。
夜月と愛真が試合場の開始線に戻って、蹲踞をした。続けて納刀した後、立ち上がって帯刀のまま五歩下がり、提刀の姿勢で立礼をして退場した。相手を敬う礼法が、剣道には最も大切である。
温かい拍手が続く中で、防具を外して近付く愛真を、夜月は見た。背筋をぴんと伸ばして、その表情は輝いていた。決して敗者のそれではなかった。
「ミツキ。おめでとう。やはり、あなたは強いわ」
愛真は握手を求めてきた。
「ありがとう、エマ。アンタもね。こんなに強くなっているなんてね。もう少しで、負けてしまいそうだったわ」
「えへへへ。どんなもんだい。驚いたか」
舌を出して、とぼけた表情をした。これが愛真だ。夜月が知っている不思議ちゃんな愛真だった。
「次は、大学生になって、勝負だね」
「うん。今度は負けないからね」
がっちり握り合った手が、懐かしかった。そして、大学受験を終えた後の再会が、楽しみになった。
楠のある『楠公墓地』に戻った時、愛真の《記憶》が自分は奈良に暮らしていると告げた。時のいたずらに驚いたが、今ではそれで良かったと感じている。別々の土地に生きてきたから、こんなにも力一杯に成長できたのだ。今のこの感動も、そうなったからこそだと思えた。
これが、夜月と愛真の本当の世界だったのだ。