第十五話 『出現者』
そう言うと、ゼロフォースは掴んでいた人間を地面に投げ捨て俺たちの方へと、感情の一切読み取れない不気味な表情を浮かべて疾駆してくる。それはまるで、陸上選手のような、動作に一切無駄のない綺麗なフォームだ。
しかし、そんなことに感心している場合ではない。
連行という言葉が聞こえた。あのゼロフォースが引きずっていた人間のように、意識を奪われどこかに連れていかれるというのか。
それは、不味い。
これは予感でしかないが、彼に連れていかれた場合には、ろくな目に合わない気がしてならない。
「ハルナ、逃げるぞ!!」
それだけの言葉を強い口調でハルナに投げかけると、俺はハルナの手を引いて今まで来た道を一目散に引き返す。ハルナの手が少し暖かい。
駅まで出れば、誰かがいるはずだ。
駅に一縷の望みを懸けて、俺は走る。
しかし、その足はまるで自分の物でなくなってしまったかのように重い。先ほどの緊張感から過剰に放出されたアドレナリンによって、足がもうガッチガチに固まってしまっているのだ。
動きたいのに、うまく動けない。
もっと早く走りたいのに、走れない。
何で、何で動かないんだ!!
こんな時に恐怖によって動かなくなってしまう自分の身体に苛立つ。しかし、それでも足の動きが改善されるわけではない。
俺は後方を振り返ることはしないが、ゼロフォースが着実にこちらへの距離を縮めていることは確実だ。
俺の全速力を以てすら、優れた身体能力を誇るゼロフォースには容易く追いつかれてしまうであろうに、全速力の三割も出せていない気がする今では猶更だ。
追いつかれたらどうなるのか…。そんなことを想像してしまうと、俺の脚は、鉛のように、さらにズシリと重くなっていく。
逃げたい。
この足が動いてくれれば。
「誰か助けて!!!!」
俺は今にも泣きだしそうな声で叫んでしまう。しかし、当然答えはない。当たり前だ。防音設備の進んだ現代の道端で叫んだところで、家の中にいる誰の耳にも俺の声が届くはずはない。
俺は走る。いや、もはや走れているのかすら分からない。まるで歩いているかのような速度しか出ていない気がする。ただ、目いっぱいに足を動かすだけだ。
俺の唯一の救いは、右手に握ったハルナの手から感じる温もり。
俺はふと後方を振り返る。
すると、ゼロフォースはもう俺の目の前に立っていた。
その瞳には一切の光が瞬いていない。そこにあるのは、一切の感情を窺わせない虚無だけだ。
それを見てしまった俺の足は、俺の意思に関係なく止まってしまう。しかし、ハルナはそれでも、その足を止めることはなかった。
つまり、急に俺が立ち止まる形になり、そのためハルナと繋いでいた手がパっと離れてしまう。それは二人の永遠の別れのようで。
「ハルナっ!!!!」
自然と声が漏れた。
「お兄ちゃんっ!!!!」
ハルナの叫び声が後方から聞こえてくるのが分かるが、俺は振り返ることが出来なかった。というのも、目の前のゼロフォースから目を離せなかったからだ。
ゼロフォ―スは、いざ目の前で見ると、とてもデカい。一メートル九十センチはあるんじゃないか。そんな桁外れな巨体を誇るゼロフォースの右手には、直径十センチほどの無骨な太い棒が握られていた。その色は光沢のある黒。何のためにそれを使うのかは考えるまでもなかった。
それを俺に目がけて振り下ろさんと、ゼロフォースは大きく振りかぶるのが見える。
だが俺は、事の結末を最後まで見続けることが出来なかった。それは反射的な行動だった。
俺はつい目をつぶってしまったのだ。
痛いのは嫌だった。
瞬刻、硬いもの同士がぶつかったような鈍い音が、夜の路地に響く。
俺の身体が震えた。
しかし、俺の身体に衝撃が走ったわけではない。だが、俺にはあの漆黒の棒が振り下ろされることはなかったようだ。どれほどの時間が経過したのかは分からないが、全身を緊張で力ませたその身体で、俺は恐怖のあまり閉じてしまっていた瞳を開く。
そこには見知らぬ男が立っていた。
その男は、俺とゼロフォースの間に立ちふさがるように立っている。
その身長はゼロフォースには及ばないものの、その男もかなりの長身である。こちらに背中を向けているのでその表情までは読めない。だが、その広い背中が、その男が日ごろから鍛錬を積んでいる者だということを言外に語っている。
その男はこちらを振り向くと、まるで長年の戦友のような優しい、けれども渋みを感じさせる声をかけてくれた。
「間に合ってよかった、君の叫び声がなかったら間に合わなかったところだったよ。ここは私に任せて今は逃げなさい。駅の方までいけば安全――」
しかし、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
というのも、ゼロフォースが手に持つ黒棒をその男に目がけて目いっぱいに振り下ろしたからだ。しかし、その男は身軽に身体を左へと動かすことでその攻撃を回避する。そして、手に持っていた杖の取っ手を引っ張るような動作をとると、その杖の内部から鋼の光を放つ刀身が出現した。俗にいうところの仕込み杖だ。そのままその仕込み杖でゼロフォースへと挑みかかる。
「君たちは早く逃げなさい!!」
先程とはうって変わって鋭いその壮年の男の声が、夜の路地に響き渡った。
これ以上はもう、何も考えられなかった。
俺にできたのはただ、その場から立ち去ることだけだ。
脱兎のごとく、俺はその場から一目散に逃げだした。