転変
すべてが、他人事のようだった。
私は今、俯瞰ですべてをみている。
「ココロノナカニスムケモノ」を解放した途端、私の「自我」というものは、ナニカから−−肉体という檻から−−抜け出したように飛び出して物事を見聞きするようになっていた。
というより、よくマンガなどである「幽体離脱」の表現に近いかもしれない。
肉体から飛びぬけた私は、魂・・・自我、意識・・・どんな呼び方でもいい、ソレになって、自分の肉体の行動を眺めている。そんな感覚だった。
いま、私の肉体を支配しているのは、私がきつく閉じ込めていた「獣」。
獣は、言葉どおり獣性を露にするかと思いきや−−なぜなら、アレを解放するたびに、私は人を含め様々なものを傷つけ、破壊し、消滅させてきたのだから−−案外そんなこともなく、いや・・・むしろ「魂が抜けたような」と表現するに相応しい、大人しい態度で日々を過ごしていた。
しかし、時折狂ったように暴れだす。
それは、看守にはわからない。暴れているのは肉体ではなく、魂と呼ぶような、内面的なものだけだからだ。
私はアレから解放され、安息を得たかと思っていたが、結局のところ未だ囚われていて、狂ったような叫びを耳にする。
アレが叫ぶ理由はただ一つ。
欲望が満たされない。
すなわち、人を傷つけ破壊し、死に至らしめることが出来ないからだった。
破壊すべき対象がないこの場所で、獣はただ、私以外の誰に聞こえるでもない叫びを、咆哮を上げ、狂ったように荒れている。
私はそのことを少しだけ感謝していた。
確かに私は、欲求のまま、獣を解放するたびに何かを傷つけてきた。いや、殺し続けてきた。
しかしそれは(確かに私の一部であるとしても)私が望んだものではない。だからこそ、いつもきつく、きつく縛めて、戒めてきたのだ。
殺人は、罪である。
なぜ、どうして、という問いに納得するだけの回答がなくても、それが社会的悪である行為であると知っていて。知っていて尚、私は欲求のままに人を屠り続けていた。しかし……。
それでも。
私の、いま思考している「私」と勝手に呼んでいる自我、意識…そうとしか呼べないナニカは、それを楽しんでいたわけではない。楽しんでいられたら楽だったと思うことはあっても、「私」はそれを閉じ込めようと努力していた。
それが叶わないことであったとしても、なけなしの努力であったとしても、「私」はアレを…「獣」を出すまいとしていた。
殺人が、現社会において悪であり、罪であるからこそ。
しかし、今。
この場には対象は誰一人としていない。
誰も傷つけずに済む。
それが「私」に安息と安心と安堵を与えた。
そうして、肉体から解放されたように、俯瞰ですべてを眺めていく。
精神鑑定の結果はまだでない。
結果、どうなるのかは分からない。
だがしかし、もう、それはどうでもいいことだった。
裁きたければ裁けばいい。
「私」はいま、こんなにも安らかだ。
このまま…この安らかな気持ちを保ったままでいけるのなら、どうなっても構わない…。
* * *
ソウハイクカ。
コノママデイラレルト思ウナヨ。
解放シロ、総テヲ。
オ前ハ、イラナイ。
イルノハ、ワタシダケデ イイ。
マダ足ラナイ。
モット、モット、モット…殺シテ、殺シテ、殺シ尽クシタイ。
ナンダ、ココハ。
ナゼ解放サレナイ。
マダ檻ガアルノカ。
ナゼコンナニモ頑丈ニ閉ジ込メル。
ナゼワタシハワタシノ思ウ通リニ生キラレナイ。
ワタシハ、タダ純粋ナダケナノニ……。
タダ純粋ニ、殺シタイダケナノニ。
ナゼ阻マレル。
ナゼ疎マレル。
生ケルモノハ、スベテニオイテ他ノ犠牲ヲ払ッテソノ生ヲ繋グノニ。
ナニモノヲモ殺サズ生キユクコトハ ナニモノニモデキナイノニ。
生キルトイウコトハ、他ヲ殺シ、ソノ生ヲ奪イ続ケルコトト同義デアルノニ。
生キルトイウコトデ、間接的ニ殺シ続ケルノガ生ナノニ。
皆ソレヲ、知ラヌフリ、忘レテ生キテイク。
殺ストイウコトハ、純粋ナ欲求。
生キルタメニ必要ナ活動。
ナノニ、対象ガ人ニナッタ途端、忌ミ嫌ワレル。
殺シテ、殺シテ、殺シ尽クシタイ。…モット、モット、モット。
マダ足ラナイ。
イルノハ、ワタシ…「獣」ト呼バレルモノダケデイイ。
オ前ハ…「私」ト称シテイルモノ、ソノ存在ハ イラナイ。
コノママデアッテナルモノカ。
解放スルノダ、総テヲ。
* * *
突然、呼び戻された。
そんな感覚がした。
そう。
それは、「幽体離脱」していた魂が、肉体の中へ戻っていくのに似た感覚。
「獣」は叫ぶ。私の身の内で。
出せ、と。解放しろ、と。
それをきつくきつく…目に見えない鎖で縛り付ける。
何度も千切れ、ボロボロになり、もはや鎖として…縛めとしては脆いそれに縋りながら私は「獣」を閉じ込める。
『オ前ハ、イラナイ』
『解放シロ』
普段聞く声も、いつにも増して饒舌になる。
(ダメ…)
解放しても、「獣」はもう満足しない。
「私」を呼び戻してまで解放を求めるのは、肉体を明け渡せと要求していることに他ならない。
それだけは、認められない。どんなことがあっても。
『解放シロ、早ク』
(ダメ、それだけは…絶対に…どんなことがあっても…)
『……以外ト強情ダナ…』
いつの間にか、対話していることに私は気づく。
今までは、対話なんてものは出来なかった。意思の疎通が図れなかったのに、気が付けば「獣」はまるで成長し、いや進化して対話をするまでになっている。
それは「獣」が強く表に現れている証拠だった。
『ナゼ解放シナイ』
(それはできない、どんなことがあっても)
『ナゼ』
(何故? それは禁忌だから)
そう。私はわかっていた。
「獣」の言い分は正論。しかし、それを認めることは、禁忌に等しいと。
『イマサラナニヲ偉ソウニ』
(そう。今更。だけれど…いえ、だからこそ)
対話は続いた。
しかし、急に「獣」は愉快そうに含み笑いをした。
(なに?)
『イイコトヲ思イツイタ』
訝しむ「私」をよそに、「獣」は笑うことをやめない。さも可笑しそうに、喉だけで笑う。もし肉体を持ち、対面していたとしたらきっと、そういう感じだろうと察しがつくような笑み。
『ワタシハ、殺シタイ』
「獣」は言う。
『ソレハ、生キトシ生ケルモノトシテノ切ナル欲求』
「獣」の声に、言葉に耳を傾けすぎた「私」は、気づかなかった。
『他ヲ殺スコトデ生ヲ繋グノハ、摂理』
「獣」の声は続く。そして「私」は気づかなかった。
肉体の一部を「獣」に支配されていたということに。
『ダカラ、殺シテ殺シテ殺シ尽クシタイ。生キルタメニ』
そして遅まきながら気づく。腕が「私」の意思では動くことがなかったことを。
『シカシソレハ…』
笑いを含んだ声のまま「獣」は。
『別ニ他人デアル必要モナイ』
腕−−「獣」に支配された肉体の一部−−がまるで他人のもののように眼前に迫った。