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回想

 ずっと疑問に思っていたことがある。


『なんで人を殺してはいけないの?』


 そう問うと、だいたいが決まった答えばかりが返る。

 そういうルールだから。

 法律で決まっているから。

 人の命はなによりも重く、それを絶つことは許されていないから。

 それ以外では、本や漫画では別の見解もあった。

 その人の死によって悲しむものがいるから。


 なら。

 そんなルールがなければ殺してもいいのか。

 否。結局はルールがなくても「人を殺してはならない」と誰もが口にするだろう。

 法律で定められた死なら誰もが納得するのか。

 否。死刑制度の見直し、もしくは制度の撤廃を求めてあんなにも反対している人間だって数多くいる。

 人の命がそんなに重いのか。人が人を殺すのを認めないなら、なら自殺に対してもその家族・親族に対して厳罰な処分がなければ公正ではないと、なぜ疑問に感じない。

 悲しむべきものがいない人間なら、殺していいのか。いっそ生きていることすらが犯罪だというほどの悪行を重ねた人間なら、殺してもいいのか。

 否。やはり認められない。


 「死」に対して、人はあまりにも矛盾を抱え、そしてつねに曖昧を保っている。



*   *   *



 私には、「死」の恐怖が理解できない。

 なぜひとは皆、死ぬことを恐れているのだろう。

 なにものにも対し、常に平等で公正な存在であると言うのに、人は皆それを恐怖する。

 人は、絶対に死ぬ。

 それはどんなことがあっても絶対だ。

 厳然とした不変。

 なのにそれを恐怖する。

 それが理解できない。

 人の死を、悲しむ人間も理解できない。

 悲しみ、憔悴していく人間の心理が理解できない。

 人は、絶対に死ぬ。

 それはどんなことがあっても変わらない事実だと言うのに、それを認められず死を悲しむ。

 時には憔悴しきり、抜け殻のようになるものもいる。

 私にはそれが不思議でならない。

 「人は絶対に死ぬ」という事実を忘れたかのように人は生き、そして死に直面し恐怖を味わい、そして死を迎え、それが受け入れられずに否定したかのような態度をとる。

 なぜ「人は絶対に死ぬ」ということが理解できないのか。

 死を悼むことと、死を悲しむことは別だ。

 その人の死を悼み、悲しむのは遺されたものに与えられた権利だろう。

 でも、それで憔悴し抜け殻のようになることは、果たして必要なのか。


 最近「千の風になって」という歌が流行している。

 皆一様に感動し、感銘を受けているようだが、なぜそれが感動を呼ぶのだろうかと不思議に思う。

 人の死は絶対だ。人と言わず、生きているものすべてに対しそれは恐ろしいまでに公正で、厳格で、不変だ。

 あの歌は「自分の死を悲しむな」と、遺された物に対して伝えるメッセージだという。

 墓前で泣いていても意味はない。

 わたしはいつでも、あなたの心の中で生き続けている。

 だから悲しむな。だから、わたしのぶんまで生き続けて欲しい。

 故人の死に衝撃を受け、なにも手につかず廃人同様になったり、抜け殻のようになってしまう物にはきっと希望の光、故人からのメッセージに聞こえるのだろう。ということは理解できた。

 だけれど私には、「なにを今更あたりまえのことを」と思うだけで感動も感銘も受けない。


 死は、絶対だ。

 どんなものでも、絶対に訪れる。

 善人でも、悪人でも。

 男でも、女でも。

 大人でも、子供でも。

 生きているものなら誰しもがいつか、必ず絶対に死ぬ。

 その確率は常に100%

 恐ろしいまでに正確で、公正。異例はない。だからこそ、信頼できる。

 だけど人はきっと、その「絶対性」に恐怖するのだろう。



 人を殺してはならない。

 その曖昧なルールの中で、人は曖昧で矛盾だらけで確固としたものがないまま生き続ける。

 私には、その方が不思議で恐怖だ。


 私は人を殺す。

 なぜ殺す?

 殺してはいけないというルールが曖昧だから。

 私は人を殺す。

 なぜ殺す?

 人を殺してもそれに釣り合うだけの罰則は与えられないから。

 もし本当に「人を殺す」ということに対し、明確な規定があり、その対価が一定でゆるぎなく、矛盾も曖昧さもない絶対的なものであれば、人ひとりに対し釣り合う対価は同様に人ひとりだ。しかし、人をひとり殺しても、殺人者に与えられる対価は自分の命ではない。釣り合わない。


 人は人を殺す。

 なぜ殺す?

 テロや内乱、戦争では日常的に人が人を殺しているのに。戦争ではより多く殺した人間が「英雄」と呼ばれ、それ以外では「殺人鬼」と呼ばれる。矛盾している。

 行為は全く同じものなのに。場面が違うだけで扱いが違う。


 本当に不思議で不可解だ。


 「人」と「死」の関係は、あまりにも不可解で曖昧で・・・矛盾だらけだ。



*   *   *



 人を殺すのは楽しいか、と問われれば「そうでもない」と答える。

 人を殺して悲しいか、と問われてもやはり「そうでもない」と答える。

 ではなぜ人を殺すのか、と問われると返答に詰まる。

 突然湧き上がる感情。ただ殺したい。それは、睡眠や、食欲や、性欲・・・本能、欲求と私の中ではほぼ同義だ。

 だけれど、それは私以外の他の人間・・・いや人間の殆どと置き換えたほうが解り易いか・・・には理解できない感情らしい。

 ありきたりな回答をするならば「そこに人がいるから」と答えたらきっと誰もが憤慨するかも知れない。しかし説明が出来ないが「ただ殺したい」以外の意味ある回答はない。


 人を殺したい。

 その感情を抑えるのはとても大変で−−それは「普通」の人間にとってみれば寝るな、と言っているようなものだからだ−−抑えられた感情はますます強暴で、兇暴で、狂暴になっていく。


 眠いから、寝る。

 空腹だから、食べる。


 本能に逆らえる者はいない。

 だから私は・・・・・・。



「殺したいから、殺す」のだ。

それ以外の回答は、やはりない。

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